010 元婚約者
「わー……順調に咲いてくれたわね。とっても可愛いわ」
私は温室の中で特別に育てていた橙色の花が咲いて、これまでにない満足感を覚えていた。
なにやらこれは食用も可能な花で、それを知った私も興味が湧いていた。
間引きした花をポリポリ囓ってみても美味しくないと思っていたら、それを目撃した呆れた表情のジョニーが言うには、焼いて卵とじにするのがこの花の正しい食用方法らしい。
……それって、現代知識でも同じような植物を知っているような気もするけれど、自ら料理して食べているなどの知識でもなければ、すぐに気が付くことは難しいのかもしれない。
この温室の育てている薬草は数十種類があって、ほとんどは城の中の治療院のために育てているものが多かった。
傷の治りが早くなるもの、咳止めとして効能が高いもの、眠れない人が夜に眠りやすくするもの。
私はジョニーが説明してくれる薬草の特徴や育て方など、すべてを詳細にノートに記していた。
経験の長い庭師ジョニーが言うには、山や森、川のほとりなどにもこういった薬草は自生していて、同じように適切な育て方をすれば増やすことは可能だろうと言っていた。
それは、これから先に一人で生きて行こうと思っている私には、とても重要な情報だった。
「そうなのよね。この知識さえあれば、私は生きていけるのよ……」
私は机に置いてあったノートの表紙へ手を置いて、ここから離れてでも、自分は生きて行けるだろうという希望を抱いていた。
今思えば、国外追放だと城を閉め出されたあの日に、私は一人で異国へと行こうとして、ヴィルフリートが血相を変えて止めた理由がわかる。
それはあまりにも無謀だったし、私は長年苦しんできたフロレンティーナから解放されて、少々浮かれすぎていた。
もし、ある程度のまとまった金額を持っていても、それは同じことだったろう。
若い女の子が生きていくには、ある程度の自衛手段は持っておくべきだし、私はそういった意味であまりにも無防備過ぎた。
けれど、今の状況はあの時と大きく違った。
私は庭師見習いとして着々と知識を付けつつあり、薬草は人の生活になくてはならないものなので、増やして売れば生きて行けると思えるからだ。
なんなら、庭師歴の長い上司のジョニーに聞いて異国でも私のような女性でも雇ってくれそうな庭園などを、先んじて紹介してもらっても良いかもしれない。
そうすれば、明確な目的地のある旅になり、お金が掛かってでも安全な旅路を選んで行けば、何の問題も起こらないはずだ。
今、何の心配もない未来を想像することが出来ているのは、ヴィルフリートのおかげだった。
私は毎日仕事の終わりに、上司ジョニーに日誌を届けに行くことになっている。
いつも通り、ジョニーの働く中央庭園へと向かえば、城の廊下で甲高い歓声が近く聞こえて来たので、興味を惹かれた私は声の方向へと近付いた。
「キャー! ヴィルフリート様ー!」
「こっち向いてー!!」
「素敵ー!!」
訓練場には、貴女たち仕事はどうしたの? と、何の関係もない私が聞きたくなってしまうくらいに、女官やメイドたちが数多く集まっていた。
聖竜騎士団の面々が、一対一の模擬試合で勝利を競い合っているようだった。
他の竜騎士の名前も呼ばれるものの、圧倒的に人気なのは、ヴィルフリート・レイドだった。
彼は感情を見せぬ余裕ある態度で勝ち進み、一位になった時にだけ、右手を振り上げて周囲からの拍手に応じていた。
あ……笑った。
私もそこまで長く居るわけではないけれど、ヴィルフリートはあまり笑わない。性格上仕方ないのかもしれない。だからこそ、こうして特別感のある笑顔なのかもしれない。
確かにヴィルフリートは、誰もが認めるほどに格好良いかもしれない。
……けれど、ただそれだけだと思う。
これから、また何か嫌な思いをするくらいなら、恋なんてしない。恋人も夫も要らない。一人で生きていきたい。
何かを振り切るように首を横に振った私は盛り上がっている面々から離れて、ジョニーの居る庭園へと向かった。
フロレンティーナのような女性は珍しいとは私だって頭では理解していても、彼女に植え付けられた恐怖心は離れてからもいつまでも消えていかない。
フレデリックは私の言葉なんて信じてくれなかったし、これからもそれは変わらないと思う。
彼はフロレンティーナの望む通りに振る舞い、元婚約者のことなんて、すぐに忘れてしまっているだろう。
……何を言っても努力しても、全部が無駄だった。あんな嫌な境遇に戻りたくないし、悲劇を繰り返したくない。
そんな風に、今はもう無関係になったはずの人のことを考えていたせいかもしれない。
城の廊下で前方から歩いて来る人を見て、私は目を見開いた。
まさか……だって、フレデリックはまだ、貴族学校へと通っていて、この王城へとやって来る時は夜会に来る程度で……だから、私だって偶然だとしても会うなんて、思っても見なかった。
「ああ。ブライス……なんだか、久しぶりだな」
「フレデリック」
フレデリックの薄い茶髪はいつも通り、サラサラと揺れていて、緑色の瞳はなんとも優しそう……婚約者であったはずの私には、決して優しくはないけれど。




