A面 謎は解決せず、ただ増えるのみ
ヘルメットに付けられたヘッドライトと、地面を這うパイプに所々設置された非常灯のみが、足元を僅かに照らし出す。
二車線分はあるだろう幅広い溶岩窟は、僅かな傾斜を付けながら、地下に向かい徐々に徐々に下がっていく。
枝分かれした分岐点をいくつか通り過ぎ、人工的に掘られた滑らかな跡が残る狭い脇道を時折抜けながら別の大通路に出てと、かれこれ十五分ほど歩いただろうか。
王の説明では、ここはルナプラントのメイン区画であるファクトリー1と隣接した倉庫区画や隔離実験棟があるということだったが、それにしては広く、そして深すぎる。
無論ここはVR世界。
現実とは違っていて当たり前だが、美月達がプレイしているソフトは、本来は天体再現ソフトがメイン機能であって、ルナプラント訪問はおまけ要素だったはず。
それなのにここまで作り込まれたVR空間が用意されていた意味は……
なんのために、こんな手の込んだ事を仕掛ける。
ここまで精巧に作り上げるとなると手間も掛かる上に、制作費用だって馬鹿にならない。
三崎の仕業だとしてもその意図と狙いが判らない。
あらゆる意味で情報不足な今現在。
鍵を握るのは美月達の前を行く人物だけ。
「…………」
美月達の前を進むカーラと名乗った女性は、視界が狭まれ動きにくいはずの完全気密状態の月面作業服だというのに、それを感じさせない足取りで、美月達の前を無言でスタスタと進んでいく。
どこまで行くや、どこへ向かうなどの説明は、カーラからはない。
正確に言えば、問いかけても糠に釘で具体的な返答がなく、あと少しや、着けば判るなど曖昧な答えが返って来るのみ。
一言、二言で口数は少なく答えるのみだった。
彼女が名乗った名を美月は思い返して、僅かなりとも推測する。
カルラーヴァ・レザロフスキヴナ・グラッフテン。
ミドルネームの呼び方や発音からすれば、ロシア系だろうか。
特にレザロフスキヴナという名が、美月の勘をざわめかせる。
個人ファイルの中にあった、ルナプラント計画参加者名簿と先ほど照らし合わせてみたが、その中にはカーラが名乗った名は無い。
しかしその代わりではないが、ロシア人植物学者のレザロフスキ・エルコヴィチ・ヴォイキンという植物学者の名がヒットしていた。
ロシアでは父の名をミドルネームとして用いるのが一般的だ。
男だったら○○ヴィッチ、女なら○○ヴナと、多少変則はあるが大まかに決まっている。
それでいくなら、レザロフスキヴナというミドルネームは、レザロフスキさんの娘という意味になる。
問題はそれを確かめる手段が手元にないことだ。
通称でレザーキ博士と呼ばれていた人物の年齢や家族構成までは、今の手持ち名簿では記載されていない。
父と交わした会話でも、ちゃんとした食事をとっているか心配した美月に対して、レザーキ博士の研究で植物類月面生育実験をやっているから、野菜類も新鮮な物を時折食べているといった会話を交わした時に名前が出たくらいで、美月はレザーキという人物の容姿さえも知らない。
名の関連性はただの偶然の一致とした方が良いのだろうか。
もし親子で月面にいっているなら、世間的にはもっと話題になっていただろう。
ルナプラントの最高責任者は元在日アメリカ軍横須賀基地所属の日本通で重度のゲームマニアである。
月は異星人の作った船だったという与太話を提唱し、それを証明するために現地調査を行うため難関の採用試験を突破した異色の地質学者がいる。
そんな風に父の同僚達の細かいゴシップがかかれた雑誌まで、よく目を通していた美月が、親子で参加していた者がいるなら知らないはずがない。
元々名簿には載っていないのだから、リアルで存在する人物ではなく、オリジナルメンバーに関連づけして作られた架空のキャラクターかもしれない。
しかしそうなると何故このタイミングでオリジナルキャラクターを出してきたという疑問にたどり着き、明確な答えが出せなくなる。
いくつも疑問が思い浮かび、さらにそれに対する仮説を出せば、さらに疑問が増えより答えが迷走していた。
美月が悶々と思い悩む一方で、その隣の麻紀はといえば、積もりに積もった苛々を持てあまして、些か乱暴な足取りで歩いていた。
「ちょっと! いい加減どこまで行くのか答えなさいよ!」
先ほどまでの 怒りに合わせて、先の見えない通路を延々と歩かされる事に苛立ちを隠せずにいた麻紀が、4か5度目かになる問いかけを、通信機越しに投げ掛ける。
声が極めて刺々しいのはリアルモニタリングを続けているが、外部接続されている証拠を未だに発見できずにいている所為もあるのだろう。
「……もう少し」
麻紀の言葉に即答せず1,2テンポ遅れてからカーラは振り返りもせず、また一言で答える。
決して振り返らないその背中は、まともに答える気は無いとでも言いたげだ。
「さっきからそればかりじゃない! このまま制限時間まで引っ張るとかそんなせこい手考えてるとかじゃないでしょうね! あと答える時は人の方をちゃんと向きなさいよ! うちのママにあたしがそんな事したら、関節を極められて無理矢理に顔を見させられるわよ!」
元々気が短く、激高しやすい麻紀は限界が来たのか、必要以上に声を荒げ、敵意を見せ始める。
後もう一押しがあれば、有言実行で腕を取りに行きかねない勢いだ。
「…………”彼女たち”の足が……短くて……遅いから時間が掛かります。私も早く着きたいと思っています」
それは独り言のつもりだったのだろうか?
それとも先ほどまで違う敬語は、ここにはいない誰かと会話をしていたのだろうか?
やけに不自然な間が気になるも、カーラの声が一際大きく響いた。
どちらかは判らないが確かなのは1つ。
今の発言は火薬庫に松明を放り込む行為だということだ。
「麻っ!」
「売ってんなら買ってやるわよ! 全力で!」
麻紀の名を呼びながらとっさに美月が横に伸ばした手よりも遥かに早く、麻紀が不慣れな月の低重力下の影響を感じさせない、獣じみた動きで一気にカーラの背後へと迫る。
「………………」
麻紀の動きを察知していたのか、それとも反射神経が抜群に良いのか、麻紀が怒声をあげた時にはカーラは既に走り出していた。
一見前のめりに倒れたかと思うような前傾姿勢で走っていくカーラの速度は麻紀の比ではない。
身体をギリギリまで前に倒すことで、無駄に上に飛ばないようにし踏み出す力をほぼ全て速力に変えているようだ。
地上でやれば倒れそうなその傾斜も、低重力下だからこそ可能な歩法だろうが、動きにくい格好でそれをやってみせるその身体バランスは驚異的だ。
「言いたい事言って逃げるな! 卑怯者!」
負けず嫌いな麻紀は引き離されたことに余計にボルテージを上げ、その走り方を真似しカーラほどではないが、かなりの俊足でその後を追いかけだした。
「待って先が判らないんだから!」
「美月はここで待ってて! あいつ捕まえてくる!」
考えも無しに後を追いかけて、更なる罠が待ち構えていたら洒落にならない。
暴走状態に入りかけている麻紀を止めようと、慌てて美月も後を追うが、つい地上と同じ感覚で一歩を踏み出したために、ふわりと高く跳び上がってしまう。
すぐに二歩目を踏み出したくても、落ちるときもゆったりとしたスピードで、無駄に空中であがく羽目になった。
ようやく美月が地上に降り立ったときには、2人の姿はかなり離れていて薄暗い明かりの中で影として微かに捉えられる程度に引き離されている。
このままでは到底追いつけはしない。
「麻紀ちゃん!? 麻紀ちゃん待ってってば!?」
何度麻紀に呼びかけても返答がない。
無視するような性格ではないから、通信可能範囲を超えてしまったと判断した方が良いだろう。
「たしか位置情報確認機能が」
とっさにそう判断した美月は走って後を追うのを諦め、仮想コンソールを起ち上げ管理システムへアクセスする。
すぐに美月の視界にディスプレイが浮かび上がり、メイン画面としていくつかの機能が展示された。
事前にマニュアルを読んでいたのが功を奏し、迷うこと無く美月は目的の機能を呼び出していく。
「…………あった!」
情報管理項目を探り、目的の機能を見つけた美月はすぐに視点移動でカーソルを移して、右の親指で人差し指の根元をタップして、麻紀の位置情報機能をオンにする。
麻紀の位置情報取得と同時に周辺図も映し出す機能になっていたのか、別のウィンドウが浮かび上がり俯瞰図を映し出し、移動する緑の光点で麻紀の現在位置を表示しはじめた。
どうやらこの周辺には大きな通路が十数本も上下左右で交差し、それらを繋ぐ無数の接続通路がいくつも設置されているようだ。
小部屋とみられる空間も数多くあり、それらの部屋にはほとんど三つ以上の通路が接続され、全体が迷路のような作りになっている。
だが大半の接続通路には×マークが付いて通り抜け不能となっている箇所があり、隣り合った部屋でさえ遠回りしなければいけない箇所もあり、ただでさえ込み合っている地図がより複雑になっている。
しかも端の表記を見るからに先はまだまだ続いているようで、これは周辺一部の拡大図でしか過ぎず、この先にもより広大な迷宮があるのではと予感させる。
本当にこれはルナプラント見学のためだけに作られたのか?
その巨大な規模に、先ほども抱いた疑惑が首をもたげかかるが、今はあえてそれを無視する。
麻紀達と同じ道を進んでいてはとても追いつけない。
幸いにも麻紀の移動痕跡から見て、カーラはどこか目的の箇所があるようには見えず、無駄に遠回りしている箇所がいくつもある。
その考え無しの動きは麻紀に怯えてただ逃げ回っているだけにも見えるので、ますますカーラの狙いが、さらに言えばその裏で糸を引いているであろう三崎の考えは判らない。
「ナビゲート機能オン。予測進行方向にあわせて随時変更」
要素が少なすぎて判らない物はいくら考えても判らない。
なら判るまで推測できる素材を集めるだけ。
麻紀とは違い自らを平凡だと自覚する美月は、足りないものを補う方法は地道に集めるだけだと知る。
だからこそ美月にとっては知識こそが力。
例えどんなくだらない情報でも、子供でも知るような基本的な情報でも、あればあるだけ美月にとって僅かなりとも力となる。
堅実かつ地味でも、一歩一歩進むしかない。
「動き回ってるけど、このままじゃ難しいかな……」
後を追う方法は手に入れた。
しかし問題はどうやって追いつくかだ。
いくら進行方向を予測して先回りしようとしても、満足に走れもしない現状ではそれは難しい。
かといって麻紀のように一瞬で順応してみせるほどの身体能力は自分にはない。
どうすれば上手く走れる。
全速でなくともそれなりのスピードを……
そこまで考えた美月の脳裏に昔読んだ専門誌の記述が思い浮かぶ。
「服の方にたしか……あった! 関節部制限機能」
長期に及ぶ月面生活に合わせて新規制作されたルナプラント専用の月面作業服には、既存の宇宙服とは異なる機能がいくつか採用されている。
そのうちの1つが、機械補助によるパワーアシスト機能と真逆をいく機能であり各関節部に角度制限をくわえる制限アシスト。
先ほどの美月ではないが、低重力下の月でとっさの行動を地球上と同じ様に行い、本人も想定外の大きな動きとなりそれが大きな事故の原因となる可能性も予想されていた。
特にそれが精密作業や機械操作をしているときであれば、被害はより大きく致命的になるかも知れない。
だからスーツ側の機械機構により関節部に制限を加え、規定値をオーバーした場合は付加を余分に掛ける機能が付け加えられていた。
ものぐさな父に言わせれば、常時オンにしてトレーニングルームへ行かずとも、日々の規定として課せられた筋力トレーニングに使えるのが便利との弁だったが。
「うん。これならいける」
軽く動いて負荷レベルを微調整した美月は、必要以上に高く跳ばずにステップが出来るのを確かめると、2人に追いつこうと、ナビゲートが指し示す近くの脇道への扉を開ける。
扉の先には宇宙服を着た状態で一人がやっと通れる狭い通路が直線的に続いていた。
両脇にガイドラインとなる明かりが続くのみで、先は見通せないが、マップを見るとこの先は別の大通路と繋がる小部屋へと接続されている。
だが、その部屋には×印が着いて、通り抜け不可のポップアップコメントが表示されている。
しかしナビゲートが指し示す先は、その部屋を抜けた先の大通路へと続いていた。
ナビゲートがわざわざ移動不能箇所を指し示すわけがない。
それにマップ全体を見た場合、×印が多すぎる。
なら現状移動不可状態と見積もった方が自然。
どうにかしてそこを通過できるのではないか。
つまりは……
僅かに重い感触を感じながら通路を小走りする美月は1つの仮説へとたどり着く。
三崎伸太という男の本業はゲーム制作会社社員。
その思考、思想は本業に基づくのではないか。
おそらくこの先には行く手を塞ぐ仕掛けがあり、仕掛けを解くための答えがあり、答えとたどり着くためのヒントがあるはずだ。
「やっぱり」
通路を抜けた先の光景に美月は仮説を確信する。
ヘッドライトに照らし出される小部屋へと続く隔壁扉が、異常な速度で上下へと開閉を繰り返していた。
開け閉めの動きの間隔は一秒ほどしか無く、あまりの速さにヘッドライトの明かりを受けて鈍く光る鋼の扉表面が、紙のようにたわんで見えるほどだ。
タイミングを見計らって通過するなんて、抜群の反射神経と運動能力を持つ麻紀でさえ無理だろう。
真空状態で開閉音は聞こえてこないが、勢いよく落ちて来る扉に、脳裏を轟音の幻聴が駆け抜ける。
聞こえたらその音の強さに怖じ気づいてしまうかもしれないので、空気がない真空状態で逆に良かったかも知れない。
挟まれたら一巻の終わりだろう勢いで開け閉めをする扉の脇には、コンソールがあり、プログラムエラーの文字がディスプレイを彩る。
床をみれば、メンテナンスハッチとおぼしき鉄の扉が1つ、明かりの中で浮かび上がった。
まずは止める手段があるかとコンソールを確認してようと美月が近づくと、動体センサーでも内蔵されていたのか、
『パスコードもしくはアクセスキーを挿入してください』
ウィンドウに新たなメッセージが浮かび上がる。
無論美月はパスやメンテナンスデータにアクセスするキーなど持ち合わせていない。
これについてもヒントがどこかにあるのだろうか?
通路全体へと視線と明かりを飛ばした美月は、隅の暗がりにこれ見よがしに置かれたツールボックスを見つける。
それ自体が罠ではないかとおそるおそるツールボックスを開けてみたが、美月は拍子抜けする。
中には作業服にアタッチメントとして取りつけられる電動スパナやペンチ、ドライバーなどの文字通りのツール類が乱雑に収まっているだけだった。
「工具以外は……無いかな」
中身を全て取りだして漁ってみても、工具以外の物は見当たらない。
これらを使って扉を物理的に排除したり、故障箇所を直せというのか?
それとも床にあるメンテナンスハッチを開けて、コード類を切断し動力を切る?
どちらも無茶だ。
時間が掛かりすぎるし、ハード系が得意な麻紀なら判るかも知れないが、電気工学分野の専門的な知識を持ち合わせていない、ソフトウェア専門の美月では手に余る。
ではこの意味深に置かれていた工具箱はフェイクだろうか?
何か見落としがないかとツールボックスをもう一度確認してみる。
「……これ後付けかな」
蓋側を見た美月は、蓋にはめ込まれた鉄板の四隅が、不自然に止められている事に美月は気づく。
一見そういうデザインにも見えるが、よくよく見てみると、鉄板を止めているのがボルト、ナット、ネジと種類がばらばらとなっていた。
先ほどは、ボックスの中身をチェックするばかりで見落としていた部分だ。
しかも止めてあるボルト類はボックス内の工具と同一本数。
開けてみろと言わんばかりの分かり易いヒント。
簡単すぎて、罠かと疑いたくもなるが、他に手がかりも見当たらないので、覚悟を決めた美月は工具の1つであるドライバーを取って、指人形の様に人差し指の先に被せる。
電源管理システムを起ち上げて、服に備え付けられたバッテリーと連動させると、仮想コンソールで回転速度を低速に合わせて、ねじ山に合わせるとゆっくりと慎重にネジを外していく。
するとドライバーがなんの抵抗もなく回転を終えて、あっさりとネジを取り外す事が出来た。
同じ要領で工具を変えながら全てのロックを取り除いてみたが、ここまで特に異変は無し。
留め具が外れてぐらついた鉄板の隙間にドライバーをねじ込んで、取りつけられていた中蓋を取り外すと、予想通り蓋と中蓋の間には僅かな隙間があった。
その隙間に隠すようにして小さなデータスティックが養生テープで貼り付けてある。
早速テープを剥がして、スティックを手にとって確認してみるが、表面のラベルには何も書かれて折らず白紙のままだ。
中身が判らず、これがウィルスの類いだったり、扉が永久ロックされるトラップだったら目も当てられない。
しかし他に何かあるかと、隠し蓋の中を再度確認しても、埃1つ無く手がかりとなる物は無し。
慎重に確かめつつ行くのが美月の行動指針の基本だが、慎重すぎる行動には時間を必要不可欠。
だが今は時間制限がある身である上に、今のような状況では、ヒントも無しに憶測だけで考えても明確な答えが出ない。
しかし手がかりを探すためにこれ以上の時間浪費していては、制限時間以前に、麻紀達に追いつける目が薄くなる。
もし失敗だったら別の道を行けば良い。
試すだけ試そうと美月は決めると、コンソールへと近づきスロットへ発見したデータスティックを差し込む。
すぐに読み込みが始まり、点滅を繰り返す画面を、緊張のまなざしで美月は見つめる。
『アクセスキー確認。メンテナンスモードへと移項します』
どうやら美月の勘は当たっていたようだ。
エラー表示を出していたウィンドウが、隔壁の操作設定するメンテナンスモードへと切り替わった。
自分の勘が当たったことを喜んでいる時間すら今は惜しい。
美月は早速備え付けのコンソールを叩いて、まずは現状の設定を確認する為にエラーチェック画面を探す。
「電源を落として開きっ放しで固定……うぅん。それだと何かあったときに閉じられなくなるから正常状態に戻した方がいいかな。センサー系か出力の異常…………重量に対して出力が」
このゲームを仕掛けてきた三崎の性格の悪さから考えて、隔壁を閉めていなかった場合のトラップを仕掛けていてもおかしくない。
設定エラーなら直せるだろうかと悩みながら、各種数値を確認していた美月は、一瞬見落としかけた違和感に気づき、再度見直して異常な数値に気づいて目を剥いた。
「隔壁総重量1112g!?」
kgの間違いじゃないかと、何度見直しても、設定値に打ち込まれた1112グラムという数字は変わらない。
数値が間違っている所為で扉が異常な速度で開閉を繰り替えしているのだろうか?
いやしかし、それではおかしい。
重量1112㎏が正解で設定値が打ち込みエラーだとしたら、出力不足で扉は一度下がったきりで二度と持ち上がらないだろう。
出力と重量から推測される開閉スピードを計算し、その非常識な答えに戸惑いながら、もう一度試算しなおす。
結果は変わらず。
間違いない。データを信じるならあの扉は総重量1キロちょっとしか無い。
「え……でもあんな重そうな重圧な物が……VRだからいい加減とか……それとも違う物とか」
横を見れば今も目まぐるしい速度で開閉を繰り返す鋼鉄の隔壁。
これが数値上は極度に軽いと言われても信じる事など出来無い。
ここがVRだからといってもリアルすぎる。
「け、軽金属とか、未知の軽金属と…………主要素材が……J、Japanese paper」
データ上の数値と見た目の違いに混乱しつつ、美月は構成素材を確認しようとページを開き、そこに書かれたあまりにアレな素材に力なく膝を屈した。
Japanese paper。翻訳するまでもない。読んで字のごとくそのままだ。
和紙がメインで、他に使われているのは竹籤と書かれている。
つまりはだ…………
無言で立ち上がった美月は、扉の前へと移動する。
激しい速度で開閉を繰り返す隔壁、いや隔壁めいた物に対して、美月は無言で人差し指を伸ばした。
あっさりと指がその表面を突き抜け、瞬く間に他の部分も扉の動きに合わせて縦に裂けていく。
その軽い抵抗を与える感触に、田舎の祖父の家を美月は思い出す。
「はは……びりびりって幻聴が聞こえてきそう」
今時珍しい襖や障子ばりの古い日本家屋で、障子の張り替えを手伝ったときに、古くなった障子紙をこうやって破くのが楽しかったなと思い出しながら、自分の推察や深読みなんだったのだろうと、乾いた笑みをこぼすしかない。
和紙の上に精巧な絵を描き、周囲を暗くして視覚を誤魔化し、さらには無音状態でこちらに想像させ、あっさりと破れる障害ともいえない物を、難攻不落の隔壁に見せかけていた。
いわゆるトリックアートの一種を使ったトラップ。
ここまで色々と意味深のヒントをちりばめておきながら、正解は力任せに行けば抜けられるという人をおちょくる答え。
「……峰岸君達にもっと話を聞いておけば良かったかも」
このゲームでは常識を捨てろ。
三崎が主導するというゲームのテスターがこぼした台詞の意味を、美月は初めて実感していた。
しかし騙されたからと言って何時までも呆けている時間は無い。
気を取り直して早く次に進もうと、破損しながらまだ開閉を繰り返す扉もどきに手をかけ、通り抜けられるだけの穴を開けようとし、美月ははたと手を止める。
和紙は確かに使われていたが、もう一つの材料である竹籤はどこに使われていた?
ふと浮かんだ疑問が気になり、美月はコンソールに戻り、わざわざ動力を停止させ扉の開閉を止めて、少しずつ慎重に紙を破っていく。
何もなければ時間の無駄かもしれない。
だが一筋縄では行かない人物が相手。警戒してしすぎという事も無いかもしれない。
少しずつ剥がしていく件の竹籤はすぐに姿を現した。
だがその位置が変だ。
四方を支え長方形に組んだ枠部分とそれとは別に、美月の頭部と同じぐらいの高さを平行に細い竹籤が一本張られていた。
あのまま無理矢理突き抜けていれば、折れていたような位置に設置された竹籤。
美月はそっと手を伸ばして竹籤を折らない程度に軽く力を入れて曲げてみる。
すると隔壁を抜けた先の小部屋の床が音もなく消失して、底の見えない空洞が姿を現した。
向こう側の床に散らばっていた和紙の破片がヒラヒラと落ちていったのだからそれは幻や幻覚では無いだろう。
美月がびっくりして竹籤から手を離すと、すぐに床は何事も無いように元に戻る。
「……落とし穴?」
本当にあるのかと半信半疑でしゃがみ込んで目の前の床を叩いてみると、確かな堅い感触が返ってくる。
再度竹籤に触れてみると、またすぐに床は消失した。
どうやらこの頭上の竹籤に接触すると床が消失するタイプのトラップのようだ。
もしあのまま勢い任せに突き進んで、竹籤に触れたり折っていたら、どうなっていたかなんて考えるまでも無い。
「……麻紀ちゃんがいなくて良かったかも」
人を小馬鹿にしたような大胆すぎるトラップの後に、仕掛けられた地味ながら気づきにくい本命のトラップ。
直情型の親友なら引っかかっていただろうなと思いながら、身をかがめて竹籤を避けつつ次の部屋に足を踏み入れる。
最初のトラップを無事に突破しつつも、一瞬の油断も出来無いと美月は警戒を強めていた。
一方その頃麻紀の方といえば、未だチェイスを続けていた。
「いい加減止まりなさいよ! 止まらなきゃ後ろからドロップキック打ち込むわよ!」
逃走を続けるカーラを追って麻紀は、苛立ちを隠そうともせず、少しでもカーラの意識を削ごうと威嚇を続ける。
しかし前をいくカーラの足は僅かな乱れもみせない。
通信機能を切っているのか、それとも麻紀の威嚇など気にしないほどに剛胆なのだろうか。
どちらにしろ直接捕まえるしか無いのだから、この際どうでもいいと麻紀は割り切る。
低重力下での走法にもかなり慣れて来たので、もう少し角度を倒してスピードをあげることも可能。
追いつけないわけはない。
しかし今はまだ確保した余力をみせるべきではないと、麻紀は判断する
先ほどから、互いの間隔が一定のままで追いつけもしないが、引き離されてもいないからだ。
慣れて来た麻紀が少しスピードを上げれば、それに合わせカーラもぴったりと同じ分だけ速度を上げる。
まるでいたちごっこのように、後5メートルの差が全く縮まらない。
ここまで露骨では、気づくなと言う方が無理だ。
カーラはわざと速力を抑えている。
本気を出せば麻紀をあっという間に置き去りに出来る程度の余力があるのかも知れない。
だがそうはしないで麻紀をつかず離れずで引っ張り回している。
麻紀を誘導するのが目的か?
それとも美月と引き離すのが目的だったか?
やはり考えても判らない。
全部まとめて本人に問いただせば良い。
捕まえれば全てが判ると、単純思考で麻紀は己の肉体操作に意識を集中させる。
カーラは、おそらく麻紀を舐めている。
自分が追いつかれるはずがないと。
だから麻紀があげた分の速度だけ、ピタリと上げている。
その油断を利用する。
五メートルの距離を一気に詰めるのは地上ではさすがに無理だが、ここは月面低重力下。
状況、地形次第では可能だと、直感的に割り出し麻紀はチャンスを窺う。
驚異的な身体能力をみせるカーラも、さすがに曲がり角の直前では、確実に最小距離で曲がるためか僅かにスピードを落としている。
その瞬間に、曲がる事を考えず全速を出せば追いつける。
カーラには悪いが、速度を殺すためのクッションになって貰おう。
追いつくと同時に攻撃にでる算段を付けた麻紀は、カーラの後ろ姿をただ見つめ後を追いかける。
どうやって追いつく。
どうやって捉える。
疑問が浮かんでも一瞬で考えつくほどに、麻紀の集中力は上がっている。
1つの物に集中ができ、全ての能力をそこに一点張り出来るのは麻紀の強み。
しかし同時にそれは、1つに集中するあまり周りが見えていないという弱点でもある。
カーラの走る後を追いかける事に意識を集中させている麻紀は、周囲の景色が一変していたことに麻紀は気づかない。
岩肌が直に見えていた周囲はいつの間にやら、コンクリートに覆われた通路に変化していた。
非常灯のみだったはずの周囲は、煌々と照らす灯が天井に点っている。
周囲の壁には日本語の電光看板が埋められ、見覚えのあるCMをながしている。
先ほど通り過ぎた天井からは、列車の発着を知らせる電光掲示板がぶら下がっていた。
もし周囲を見る余裕があれば、あまりの違和感に足を止めてしまっただろう。
しかし麻紀は気づかない。
(あと少し! もうちょっと慣れて速度が上げればいける!)
チャンスは一瞬。だがその一瞬さえあれば大丈夫だ。
自分達の勝ちを確信した麻紀は、カーラを追って幅広の階段を駆け降っていく。
そこに自分の心を一瞬でへし折る真実が待つと知らずに…………
「んしょ……絶対……ここ……はぁはぁ……ルナプラントだけじゃ……ないよね」
一時的にパワーアシストモードをオンにして機械の力も借りながら、半分開いていた隔壁扉の間に途中で拾った金属パイプを突っ込んで、自分が通り抜けるスペース分をなんとか無理矢理に開けた美月は、息を整えながら次の部屋に足を踏み入れる。
ヘッドライトに映し出される教室ほどの広さの空間は、むき出しのコンクリートに覆われているだけで、物1つ無くがらんとしていた。
入ってきた扉と反対側に同じような隔壁扉があるが、ナビゲートの指し示す先はそちらではなく直上に向かっていた。
「今度は天井? アスレチック施設じゃないんだから」
美月が視線をそちらに向ければ、視界に重ねて投映した仮想ディスプレイが、5メートルほどの高さの天井に設置された直径5メートルほどの巨大な電子スライド式の円盤扉を指し示した。
麻紀の反応はここの直上のフロアだからあと少しだ。
しかし気になるのは5分ほど前から、麻紀の反応が動かなくなったことだ。
何かあったのだろうか。
怪我でもして動けなくなったのか?
それとも罠にはまって身動きが取れないか?
あるいはカーラを捕まえて、美月を待っているのか?
期待はちょっぴり、不安は強めの心を抑えながら、美月は次の謎解きに挑む。
扉の横にはフック型のアンカーボルトとコントロールパネルがいくつか設置されている。
部屋の中には踏み台や梯子となる物は、ざっと見渡した限りでは皆無。
天井はずいぶん高いが、低重力にくわえて宇宙服のパワーアシストを使ってジャンプすれば届くはずの距離だ。
垂直跳びであそこまで飛んで、服の備え付けのアンカーで身体を固定して、パネルを操作しろという事だろうか。
見ため通りで判断するなら、すぐにでも跳んでパネルに飛びつきたい所だ。。
だがここに来るまでも抜けてきた近道にも、最初の部屋と同じく意地の悪いトラップが仕掛けられていた。
何とか知恵を振り絞って突破してきたが、その分時間は無情にも過ぎていた。
これらの悪質で人の思考を読んだトラップが、元のソフトに組み込まれていたとは到底考えられない。
おそらく……いや確実に三崎の仕業だろう。
何を考えているのかまだ判らない。
からかいのつもりにしては、手が込みすぎている。
三崎から、嫌がらせや悪意を向けられる謂われや覚えは無い。
しかし美月達の邪魔をしているのは間違いない。
浮いてくるそれらの疑念を頭の隅に追いやり、美月はここを通り抜ける術を考える。
「……アンカーは全部で6つ。それぞれが大分離れている……本命1つで後がダミーとかかな? 扉は天井……ヒントになりそうな表示は無し……」
アンカーの位置を確認して自分を固定したときの位置を、頭の中で想像しつつ、美月は天井ではなく床へと目を向ける。
床を見るとうっすらと円形の線が走っている事に気づく。
その大きさは天井の扉より一回りほど大きい。
また落とし穴か?
少し考えてから、入ってきた通路側に戻り、そこらに落ちていた小石を床の線にむかって放り投げてみる。
ふわっと飛んだ小石が床に落ちて、地上ではあり得ない高さで跳ね返りながら、ゴムまりのように弾みながら転がっていく。
しかし床に変化は無し。
では他に何か怪しい部分はあるだろうか?
試行錯誤を繰り替えしながら美月は正解ルートを見つけようと色々試してみる。
壁を叩いてみたり、床の線に、持ってきたドライバーを突っ込んでみたり。
色々やってみたが結果は変わらず。
ここまで来るまで、あまりに捻くれた罠が多かった為に美月は、すっかりと思い込んでいた。
最後の部屋だからこそ、ここにも裏の裏を読んだ悪意多めの罠が仕掛けられていると。
だが結論からいえば、そんな物は無かった。
素直に天井のパネルを全部押してスイッチをオンにして、扉内に収容されたシャフトを降ろして、降りてきたエレベーターに乗る。
この部屋のギミックはこれだけだった。
罠など一切無し。
見たまんま。
ド直球にもほどがある答えにたどり着くまでに、部屋のあちらこちらを調べた美月は10分近く足止めを喰らう羽目になっていた。
「…………」
いいように振り回されているにもほどがある状態に、徒労感に覆われた顔で、ゆっくりと変わっていくエレベータの階床表示灯を美月はただ見つめていた。
あの緊張感や警戒はなんだったのだろう。
まさか最後の最後で、罠は一切無しという手を打ってくるなんて思ってもいなかった。
いわゆる空城計の一種にこうも見事にはまってしまうと、三崎に怒りを覚えるよりも、疲労感が先立つ。
唖然として、ついつい何も考えず、指示アナウンスにしたがうまま操作パネルが一切無いエレベータに、うっかり乗ってしまったくらいだ。
これも罠だった日には目も当てられなかったが、幸いというべきかエレベーターは上昇を続け、麻紀のマーカーが反応する階層へと着実に向かっていた。
「……大丈夫かな麻紀ちゃん」
自分はこれだけやられているが、麻紀は大丈夫だろうか?
多方面で高い才能を持つ麻紀を信頼はしているが、その反面麻紀のメンタル面は脆いことを知る美月は不安を覚える。
これだけ人の心理を読んだ性格の悪い罠を仕掛けてくる三崎が相手だ。
昼間のように麻紀もいいようにやられているのではないか。
自分のことならまだ良い。
心優しい親友をもしも傷つけるようなことをしているなら……
「!?」
エレベータの扉が開いて見えたのは、今まで通過した岩肌に覆われていた巨大な溶岩窟や、むき出しのコンクリートで覆われた狭い通路から一変した。
それは美月も見なれた物。
周囲に現代的なビルが立ち並ぶ駅のホーム風景が広がっている。
煌々と輝く太陽にに照らし出された整然としたホームと、電車の発着時刻を知らせる電光掲示板。
掲示された看板には美月もよく利用する路線名が描かれている。
明らかにここは駅ホームを再現したVR空間。
月地下に広がる溶岩窟を走っていたはずが、いつの間にやら日本の駅にたどり着いた。
いくらここがなんでもありのVR世界だからといって、あまりに脈絡がなさ過ぎる。
現実では人でごった返しているであろう駅も、今は静まりかえり人影はなく、見なれた構造なのに不気味さを感じていた。
そしてなにより…………
「…………なに? この感じ」
こめかみの辺りが重くなる幻痛を美月は感じる。
自然と動悸が早くなる。
耳障りに感じるほど、自らの呼吸が乱れる。
嫌だ。ここは嫌だ。
理由はない。
判らない。
しかしここには入らない方が良いと、心の奥底で誰かが訴える。
知らない方が良い。
知られちゃいけない。
臓物混じりの肉片と血で赤黒く染まった…………
「っうぇ……い、今?」
血なまぐさい臭気すら感じる生々しい幻覚に美月は吐き気を催す。
昼間に授業に集中していない生徒に虫を這わせたり、不協和音を聞かせた嫌がらせのように、どこかでせせら笑っている三崎によって幻覚をみせられたのだろうか。
だがそうなのか?
自分の中に浮かんだ仮説に美月は自信が持てない。
幻覚や幻とは違う。
もっと何かリアルな……
考えれば考えるほどに背筋を走る悪寒は増す。
このままタイムリミットが過ぎてくれれば。
そうすれば知りたいことは知れないが、知りたくないことを知らずにすむ。
扉が開かれているのに怯え籠の中から飛び立てない小鳥のように、消極的な考えが美月に一歩を踏み出させないでいた。
『あんたの所為でママにやられる数の数倍分の投げ技を喰らわせてやるんだから!』
突如無人だったホームに怒気の篭もった大声が響き渡る。
通信機越しではない。空気を振るわす振動の肉声。
声が響くと同時に、足がもつれそうになりながら必死の形相で逃げる中年のサラリーマンと、サラリーマンを短いスライドながら高回転する快速で追うマントを背負った女子中学生がエレベータ出口のすぐ横を駆け抜けていった。
「っいまのって!?」
それはかつて美月が見た姿その物。
あの時自分は………
何故今?
そんな疑問すら湧かず、つい美月はエレベータから降りて二人を追おうとして足を踏み出し、
「えっ!?」
急激に身体を襲う重さに抗えず、膝をつき跪いた。
このホームは地球の重力設定になっていたのだろう。
月面重力下ではちょっと重たい程度でも、月面作業服は基本装備だけで従来100㎏を超える。
パワーアシストも無しに、ただの女子高生である美月がまともに身動きができるはずもない。
これでは……あの時と同じだ。
何もできず何も動けずただ呆然としたときと…………
「何今の……」
心臓が激しく脈打ち、不安感と罪悪感が激しくかき立てられる。
自分が何を考えたのか判らない。何故そんなネガティブな感情が浮かぶのか判らない。
判らないが、そんな思いが美月の心に自然と浮かぶ。
『逃がすか!』
焦りパワーアシストを入れる考えにさえ及ばない美月がただ見ることしか出来無いなか、中年サラリーマンがホームドアを乗り越え線路伝いに逃げようと飛びつき、後を追う女子中学生がホームを力強く蹴りつけ高く跳び上がった。
駅を通過する特急電車が速度を落とそうと急ブレーキをならしながらも、ホームへと早い勢いで滑り込んでくる。
そうだあの時は、麻紀が回し蹴りを放ってそのまま首を蹴り狩るようにして、ホーム側に引きずり下ろし……
本当にそうか?
自然と浮かんだ疑問のままに、”美月が覚えている”現実とは別の光景がコマ送りのように展開されていく。
麻紀の跳んだコースは直線。
運動神経の抜群な麻紀が見せたのは、打点の高い両足を揃えたドロップキック。
それは逃げようとした痴漢の背中に突き刺さり、その勢いのままに2人の姿は線路側へと消えようとした時に、第三の人間が忽然と現れた。
スーツ姿のまだ若い男だ。
駆け込んできた若い男が線路側に半分身体を晒しながらも、ホームドアに背を預け、伸ばした両手で無理矢理に2人の服を掴んで、投げ捨てるようにホームへと引きずり戻した。
偶然も良い所の奇跡的なバランスおかげだったのだろう。
だが奇跡は続かない。
2人を戻した反作用で、駆け込んできた若い男が代わりに線路へと落ちていった。
その直後に叫ぶようなブレーキ音を響かせる特急列車が致命的な速度で通過して、肉片と血と臓物の入りまじった混合物が辺り一面に撒き散らかされる。
「やっ! いやっ! いやっ! ごめんなさい! あ、あたしが! 悪いから! もうやめて…………もうやめてっ!」
またも麻紀の声が響く。
しかしそれは先ほどまでと違い、現実の麻紀の声だ。
根拠はないが確信した美月が声の出所へと目を向けると、いつの間にやらホームへと連れ戻された過去の麻紀がいた場所に、美月と同じ月面作業服を着込んだ麻紀が首を振りながら全身を震わせて座り込んでいた。
そのすぐ横。
中年サラリーマンが落ちたはずの場所には、先ほど駆け込んできた若い男……三崎伸太が麻紀を見下ろすように無言でたたずんでいた。
「麻紀ちゃん!?」
悲痛な麻紀の声に美月は正気に返る。
作業服のパワーアシストモードを起動。
重力設定を地上に合わせて出力調整。
地上と変わらない動きで麻紀の元へと急いで駆け寄り、三崎との間に割って入った。
「麻紀ちゃん!? 麻紀ちゃん!? 大丈夫!?」
「もうやめて……あたしの所為……またあたしのせいで……いや、しんじゃうのいや」
美月が呼びかけるが麻紀は焦点の合わない赤くなった目で落涙し全身を震わせながらうわごとを繰り返す、心がここにあらずの状態だ。
人の死にトラウマを持つ麻紀にとって、目の前で人が死ぬ光景がどれだけ衝撃的なのか言うまでも無い。
「大丈夫だから! 麻紀ちゃんのせいじゃないから!」
さらに自分が原因の一端とあらば、美月の呼びかけにも応じられぬほど心折れて当然のはずだ。
もう止めてという麻紀の発言からして、この位置でマーカの止まっていた麻紀は、美月がたどり着くまでにこの光景を何度もみせられたのかも知れない
麻紀が苦しんでいるときに側にいられなかったこと。
すぐにきてやれなかった事に美月は不甲斐なさを申し訳なさを覚え、同時に全てを企む人間に対して激しい怒りと嫌悪感を抱く。
同時に困惑もしていた。
美月は麻紀を励まし続けているが、決定的な言葉をに告げることが出来無い。
今起きた事はでたらめ。嘘。偽りだと。
VRで作り出された虚構だと。
自分の覚えている記憶には、あんなシーンはなかった。
麻紀が痴漢をホーム側に蹴落とし、2人とも助かったはず。
それが真実。美月が覚えているはずの確かな記憶。
だがそれなのに、そのはずなのに。
自分が心の奥底でアレが本当に起きた事だと確信してしまっている。
今見た光景と同じ物を、何時か自分は見たはずだと、思い出してしまっている。
いつなのか?
なぜなのか?
判らない。
判らない。
厳重に蓋をされ封印されていた物があふれ出すように、美月の足元を不安感という重しで覆っていく。
美月が感じている物を、麻紀も同じ位に、いやそれ以上に感じているはずだ。
そうで無ければ麻紀がいくら人死にトラウマを抱えているといっても、ここまで憔悴しきった錯乱状態に陥った事の説明が付かない。
「正解正解。美月さんの言う通り、麻紀さんあんたの所為じゃないって。ありゃ俺の計算ミスだ」
しかしその元凶である三崎は、美月の言葉に感心したかのように手を叩き拍手して、軽薄な言葉を吐き出す。
目の前で苦しむ麻紀を見ているのに平然としたその態度が美月の逆鱗に触れる。
「……んで……なんで!! なんでこんな! なんでこんな事するんですかっ!?」
震える麻紀をぎゅっと抱きしめた美月は、三崎を睨み、その真意を問いただす。
美月の父を餌にして誘い出して、自分の親友をここまで傷つけるなんて。
こんな男の甘言に乗せられ麻紀を巻き込んでしまった、自分自身が腹立たしくて悔しくて悲しい。
「怒るな怒るな。結果的にはちょいとした荒療治にするから。そっちのお嬢ちゃんがそのままトラウマ抱えてたままじゃ、実際こっちも困るし、あんたも困るからな」
殺気さえ篭もった美月の鋭い視線を前にしても、三崎は困り顔で笑いその飄々とした態度を崩さない。
姿を見せていないときは、この男が何を考えているのか美月には判らなかった。
しかし姿を見せても、さらに判らなくなるばかりだ。
その隠された真意。狙いが美月には判らない。
何故自分が死ぬVR映像を見せた。
何故偽物のVR映像のはずなのに、自分はそれを強く否定できない。
アレが本当に起きた事だと、心が認めてしまう。
しかし。しかしだ。本当に起きたのなら、この男は誰だ?
あんな状態で生きている人間がいるはずがない。
それに自分達の記憶はなんだ。
自分がつい今先ほどまで覚えていたはずの、確かなはずの記憶はなんだ?
ただ意味が判らず、平然とした顔の三崎に対して不気味さを感じ嫌悪感を抱くのみだ。
「巫山戯ないでっ! 人を傷つけて何が面白いのっ!?」
「それについては本当に申し訳ないと思ってる。悪気は無いとはいわんが、本人的には敵討ち気分らしいんで俺もあんまり強く言えないんだが……ただ、やり方がな。悪い所ばかり真似するって相棒が怒り心頭だから、あっちがちょっときつめに叱るんで勘弁してくれ」
噛みつく美月を、三崎は頭を掻きながら飄々と受け流す。
まるで自分が仕掛けたわけじゃないとでも言いたげな台詞だ。
では誰が?
誰がこんな事を仕掛けてきた。
「…………」
判らない。どうすればいい。どう問い詰めれば良い。
なにも手が見つからず、麻紀にこれ以上変なことをするなとただ睨み付けるしか美月には出来無かった。
「あーあんまり睨まないでくれ。怖い顔をされても、これ以上の説明は守秘義務があるんでどうせ言えないしな……それに時間が無くなる」
そういって三崎はホームの屋根から下がったデジタル時計を指さした。
本来なら時刻を表示しているはずの時計は、美月達がフルダイブ可能な残り時間を表示している。
残り時間はあと5分も無い。
「さてちょっと思惑とは違ったが、今日の本命だ…………お二人さんに渡したパッチは言うなれば体験版だ。本番前にちょっとばかり雰囲気を味わって貰うってやつだ」
そういった三崎が背後に手を広げると、無数の仮想ウィンドウが展開され、映像が表示され始める。
月面へと降りていくアルタイルⅢ。
アルタイルⅢからルナポートへと降り立った美月達を向かい入れる職員。
王の説明を聞く美月達の姿。
先を進むカーラの背を追って地下道を歩く美月達。
素晴らしい身のこなしでカーラを追う猟犬のような麻紀の姿。
トラップを知恵を絞ってくぐり抜けていく美月の姿。
フルダイブしてからの美月達の映像がそこでは映し出されていた。
「…………」
自分達の映像を集めてこの男は何を企んでいる。
さらに何らかの悪意を持って、罠でも仕掛ける気か。
警戒心をあらわに剣呑な目を浮かべ続ける美月に、三崎は肩をすくめる。
「うん。嫌われてるな俺。これもゲームマスターの宿命ってか」
何が可笑しいのか、憎たらしい余裕ある小さな笑みを口の端に浮かべた三崎は、もう一度手を振る。
「今体験したのは、あんたらも知っている近々正式オープン予定のVRMMO『Planetreconstruction Company Online』のID、インスタンスダンジョン。分かり易くいえば個人もしくは少人数専用ダンジョンの生成プログラムを使っている。ランダムマップダンジョン+プレイヤー情報の蓄積から得意とする行動や、苦手とする行動を統計、設定難度によって仕掛けるギミックレベルをAI制御で変化させていく」
1つの罠ごとに正解をいくつか用意しダンジョンをクリアするごとに、そのクリア傾向や通過タイムを個人ごとに蓄積。
低難度選択で得意傾向の罠を多めに、高難度では不得意傾向を多めにしつつも、得意傾向も紛れ込ませ、その中に時折即死トラップを織り交ぜたミックスタイプに。
ゲームシステムの解説をする映像が流れはじめる。
「どうしてってこんな事をって顔してるな。そりゃ俺はゲームマスター。ゲームをやって貰いたいってのが大元だからな。それならこの先いきなりゲーム世界に飛び込むよりも、感じだけでもつかめておけば大分違うから。体験して貰ったしだいさ」
「……私たちは貴方の思惑になんて乗るつもりはありません!」
「まぁ、普通はそうくるわな……んじゃ切り札を使わせて貰う」
はっきりとした拒絶をみせる美月に対して三崎は自信ありげに笑ってみせ、胸元からカード大のプレートを1枚取りだした。
メーカ名は入っていないが、それはよくある形式の立体表示式映像メッセージカードだ。
「本当は禁止なんだが、盛り上げるため仕方無しってな。これでも苦労してるんだぜ。ばれないようにするには」
そう嘯いた三崎がカードを起動させると掌の中に中年の男性の姿が浮かび上がった。
身だしなみに無頓着でいい加減な所為か髭のそり残しのある顔。
肩書きは学者なのに、どちらかというと柄が悪く筋肉質なワイルドな冒険家めいた野性的な風貌。
それは美月の父。高山清吾の姿だ。
『ミーコ。元気にしてるか。戸室工業高校への入学おめでとうな。勉強は大変だろうが頑張れよ。父さんはなんやかんやあったが元気だ。こっちはすごいぞ。お前も早く来てみろワクワクするぞ。だから今目の前にいるにやけ面に負けるなよ。お、それと友達も一緒なんだろ。麻紀ちゃんって子だったな。高校の友達は一生物だからな。大事にしろよ。それとな……あぁ時間だ? てめえシンタ! 久しぶりの娘へのメッセージなんだから、もうちょっと都合を聞かせろや。そんなんだからアリスの奴に家族のことも……』
父は一方的にまくし立てる変わらない何時もの口調で早口で話していたが、途中で終わりといわれたのか柄の悪い目付きで撮影者の方を睨み付け、大股での近づいてきた。
映像はそこで途切れていた。
「この後、清吾さんからは娘を持つ父親としての心構えっての延々と説教されたんだぞ。放置しすぎると反抗期になるぞとか云々と。まぁ現状じゃぐうの音も出ないほど正論だったわけなんで、早く言ってくれよて感じだけどな」
突然の映像に驚き固まる美月に、三崎は父に絡まれて大変だったとウンザリ顔を浮かべている。
だが今の映像はあり得ない。あるはずが無い。
何故父が入った高校を知っている。
何故麻紀の名を知っている。
それは全部サンクエイクが起きてから起きた事なのに。
「い、今のも偽物なんでしょ! だって! おかしい」
信じられず、否定しようとする美月に、三崎はいたずらっ気のある顔を浮かべた。
「ミーコって呼ばれるのは猫みたいでいやなんだってな。清吾さん的にはお気に入りの呼び方らしいけど、絶対に家族の前以外では呼ぶなって幼稚園の頃に怒りながら泣かれたって、懐かしそうに笑ってたわ」
「な、なんで……その話を……パパ以外は知らないのに……」
「秘密の暴露ってやつ。うちの娘は俺と違って真面目で頭が堅いからそうでもしなきゃ信じないってのが清吾さんのアドバイス……おっと、証拠隠滅と。なおこのカードは自動的に消滅するってか、さすがアリス悪趣味だな」
人の悪い顔で笑う三崎は、美月に見せつける様にメッセージカードを空中に投げると、カードは霧散するように光の粒子となって消滅した。
「なんでとか、何時の映像とかは聞かないでくれ。守秘義務だ。これ以上は答えてやれないからな」
「ふ、巫山戯ないで! なんで! どうしてパパの!? 生きてるんですかパパは!?」
「だから言えないって言ったろ。知りたきゃうちのゲームをプレイすることさ。それもただのプレイじゃなく、オープニングイベントで入賞する事。そうすりゃいくらでも話してやるよ」
ゲームをプレイしろ?
しかも入賞しろ?
なんでそんなへんてこな条件を出してくる!?
思っても言葉に出てこない美月は意味が判らず、頭が混乱していた。
「アカウントをあとで二人分贈る。コンビプレイってのは楽しく心強い。素人2人でもどうにか形になりゃ、少しは芽が出るだろ。つっても相棒がそれじゃただでさえ難しい入賞は、無理だろうな」
動揺している美月に対して、三崎はその余裕綽々の態度を崩さず性格の悪い笑みを浮かべていたが、美月の腕の中で震え、心ここにあらずな麻紀へと目線を移し、少しだけ真剣な顔を浮かべ思案する。
「しゃーあない。変な希望を持たせちゃ可哀想だったからクリア後のおまけにするつもりだったんだけど……娘の不始末は親としちゃどうにかしないといけないしな」
小声で何かをつぶやいた三崎は、新たな仮想ウィンドウを展開させ、うつむき震えている麻紀の前に移動させた。
『ケーコお婆ちゃん。ひぐっ……まーちゃんが……』
そこに映ったのは、5,6才だろうかまだ幼い少女が泣きじゃくっている映像だった。
美月にはその映像が何を意味しているのか判らない。
だが麻紀は違った。
びくりと身体を動かし、より大きく震えだした。
麻紀の顔を青ざめ、今にも気絶しそうなほどに血の気が引いている。
しかし、先ほどまでの虚ろだった目には感情が戻っている。
その目に浮かぶのは恐怖とおびえではあるが、麻紀の意識は現実に戻ってきたようだ。
「……ひーちゃん……な、なんでひーちゃんが……っ!」
震える声でその少女の名前らしき物を口にした麻紀がおそるおそる顔を上げるが、三崎を見た瞬間、幽霊でも見たかのように怯えて後ずさった。
「こっちは10年以上前の映像。当時神崎さんが同じホスピスに入院していた女の子から相談を受けたときの物だ。正確な日付は11月13日の午後……意味は判るだろ。続きを見たければ隣の親友と一緒に頑張ってみな。と、この顔はまずいな」
麻紀に一瞬だけ優しげな笑みを浮かべた三崎だったが、意味不明なことを呟きすぐにまた人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを再度浮かべる。
「まぁ、ともかくだ。色々なことを知りたきゃうちのゲームに参加してみな。ただ入賞は難しいけどな。ましてや賞金を稼ぐつもりなら諦めとけよ……そうじゃなきゃ目はあるだろうよ」
「っまって! 意味が判りません! それに麻紀ちゃんに何を見せたの!?」
「悪いな時間だ。といってもさすがにチュートリアルも無しにいきなりゲームをやれは不親切だわな。最後にゲーム上達のヒントだけやるよ。まずは先人を頼ってみな。特攻ハムタロウっていい師匠があんたらの側にはいるから探してみることさ」
人の悪い笑い声を上げる三崎の声が幻のように響く中、VRフルダイブ制限時間を超えた美月達の意識は急速に現実へと復帰するために、ブラックアウトしていった。
このエピソード分までの裏までかき終えていますが、改めて表裏を読み直したらネタバレしすぎでした。
表に支障が出るので、時が来るまで未公開にしときます。
半年近く書いて修正施して調整してやった末に、これ出したらまずいだろと書き上げてから気づく辺り、間抜けすぎましたw




