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06.静寂との邂逅

 ほこりの匂いがした。

 それから鼻の奥をざらっと撫でるような濃縮された……それが湿った古い木の匂いだと理解するのに数十秒を要した。

 若木の頃は、虫を誘い出す樹液をたしかに持っていたと思える甘さを含む匂い。

 ここが生徒が入っていい場所なのかはわからなかったが、出入口を封鎖している様子もなく、簡単に足を踏み入れることが出来たのだから大丈夫だろうと、人の気がしない木造校舎の板張りの廊下をのんびりと歩いた。

 外から、晴れがましさを伴ったざわめきが、雨に遮られて遠く掠れて聞こえる。

 入学式は雨降りになった。

 しとしとと頼りなく生暖かなようで肌寒い春の雨。

 快晴の青空に桜が咲き誇り爽やかな風に花びらが舞う、そんな入学式のイメージ通りの天気に毎年なるとは限らない。

 こんな天気だったからこそ、ひっそりと時間を止めたように建っている本校舎の端から渡り廊下で繋がった木造の建物と出会えたのかもしれない。

 本校舎前の広場になっている場所で待っている保護者達の中で、叔父が俺を待っているに違いなかった。

 同じ中学から入学した三田村と一緒に一度外に出たあと、人ごみに紛れてまた屋内に戻った。

 叔父は三田村を知っている。

 彼を捕まえきっと俺はどこかと尋ねるだろうが、三田村は俺がいつの間にかまた校舎内に戻ったことは知らない。

 もうしばらく時間がたてば先に帰ったと諦めるはずだ。

 嫌っているわけではない。

 むしろ洒脱で物の分かった大人として好感を持っていたが、保護者として式に出席した彼と共に帰るのは気鬱だった。

 父は小学生の時にすでに他界していた。

 


 それなりに名が通った歴史ある進学校。

 郊外の利点で敷地は広く、施設の数も多かった。

 千人近くの生徒を収容しなければいけないのだから当然だ。

 時間をやり過ごす為、一年生の教室と科目別教室を集めた講義棟から、二年生と三年生の教室に職員室と主要な福利厚生を集めた本校舎へと渡る。

 アカデミックな雰囲気漂うゴシック調で統一されている校舎外観と違い、無機質なパーツで出来たそれぞれの施設の内部をぶらぶらと見て回っていたら、唐突にそれまでとはまったく趣を異とした灰色のコンクリートに彫刻が施された渡り廊下と、その先にイギリスのチューダー様式を彷彿とさせるが明らかに日本の木造校舎が建っているのに出くわした。

 木造校舎は本校舎の影に隠れるようにひっそりと、長年手入れもされていない様子で存在していた。

 教室は教室として使われている気配がなく、アトリエのように大きなキャンバスを床に置きペンキをぶちまけている教室もあれば、石膏像がところ狭しと置かれていたり、グランドピアノ一台だけもしくはアップライトのピアノを数台並べていたりといった教室がいくつかあった。

 ふと窓の外を見れば本校舎の南側は大規模な基礎工事の最中で、後で知ったが、老朽化した施設を吸収し更に新しい設備を入れるための新校舎を建設中とのことだった。

 老朽化した施設とは木造校舎のことだ。

 以前から使われていない教室は、芸術コースに属する生徒の為にアトリエと器楽の練習室として利用されていたが、校舎全体で見れば使っている教室はごく一部だった。

 まだ入学したての学校に対する新鮮さと好奇心で一階部の奥へ奥へと薄暗い廊下を進み、突き当たりの引き違いドアに行き着く。

 ドアの上部、明り取りの嵌めこみ窓のすぐ下に真鍮のプレートが打ちつけられている。 


 ――第一図書室。


 乱暴な情動や焦燥の気配漂うアトリエや器楽室、打ち捨てられた侘しさ漂う机が積み上げられた使われていない教室とも違う気配を嗅ぎ取り、錆びが浮いて塗装の剝げた金属製のドアに手を掛けてみた。

 ガタガタと音を立ててドアは開き、湿った空気が濃くなる。


「これは……すごい」


 思わず声が出た。

 窓のある場所以外が、すべて天井まで作り付けの書棚となっており、本で埋まっていた。

 どれも古い本で圧巻だった。

 焦茶色の革貼りに金で箔押しされた三十巻以上ある百科事典、筆で手書きした和綴じの本まである。

 随分ずいぶん以前に閉じてしまった図書室なのか、書棚にも床にも埃が白く積もっていた。

 本来生徒が本を開いて調べ物や勉強したりするはずの、大きな机を並べるその上にも本が何冊も平積みになって山脈を作っている。

 奥まった位置に、本の貸出を受付ていたらしい司書部屋らしき小部屋とカウンターがあり、そこへ足を向ければぎしっと床を踏む軋み音がして、そこでふと気がついた。

 外の賑やかな声が一切聞こえない。

 立ち止まって、目を閉じ耳を澄ましてみる。

 沈殿したおりが底に溜まってじっとしているような静けさで、それは静寂との最初の邂逅(かいこう)だった――。



*****



「走って来なくてもよかったのに」


 片手を挙げて出迎えた、まだ肩で息をしている玲子をカウンター越しに見ながら言えば、うんでも、と曖昧な返事をして玲子はちらりとカウンターに腰掛けている三田村へ目線を送った。

 その大きな目が遠慮なく誰と声に出すように疑問の色を浮かべているのに苦笑する。


三田村陽輔みたむらようすけ、中学からの腐れ縁だ」

「三橋くんのお友達?」

「そ、数少ないね。おおお、間近で見るとますます」

「三田村、もう行け」


 余計なことを言い出す前に三田村の言葉を遮ったのとほぼ同時に、深々と玲子が三田村に綺麗なお辞儀をした。さらりと肩先から長い黒髪がこぼれる。


「はじめまして、本條玲子です。三田村くん」

「知ってる知ってる。はじめまして玲子ちゃん、あ、オレ溺愛中の彼女いるから安心して」


 丁寧な敬礼を見せた玲子とは対象的に、ひらひらと掌を振って三田村は三角形の目をこれ以上ない程細め、これ以上ない軽薄な調子で玲子に応じる。

 三田村という男は誰に対しても馴れ馴れしい態度を基本としていたが、それがうまく人を畏怖させる容姿の印象を和らげるのか、大抵の場合、強面だが話せば案外気のいい奴として扱われた。俺もその例外ではない。


「三田村……」

「なんだよ苗字より名前の方が好きで、噂が気になってるんだろ?」


 それに占有は犯罪と小声で囁いた三田村に鼻白んで俺は再び頬杖をつき、手元の本の上で右手の指を順番に折り曲げるようにして背表紙を叩いた。そんな俺の様子を見て玲子が三田村を庇う。


「あ、いいの三橋くん。その方がいいもの」

「そう」

「でも、ふふっ」


 愉快そうに軽く握った手の指を口元に当てた玲子に、頬杖をついた左側へと首を傾ける度合いを深くして、カウンターから足を下ろして右膝に左足を乗せるように組み直す。


「なに?」

「二人とも同じ名前なんだなって」

「そ、そのことで中学の入学式の列の後ろにいたこいつに話しかけたのが始まり」

「そうなんだ、二人とも中学校の時から背が高かったの?」

「五十音順だったんだ」


 入学式で身長順にはあまり並ばないだろうと思いながら補足した俺の言葉に、玲子は両手を使ってなにか数えるような素振りをして、ものすごく納得した顔つきで頷く。


「“タ”と“ツ”ね。“ミチ”の人がいなくてよかったね」

「は? みち?」


 さっきの素振りはどうやら三橋と三田村の苗字の読みを拾っていたらしいと理解したが、突然、自分に向けられた暗号めいた玲子の言葉に三田村はついていけなかったようだ。


「道田くんとか道山くんとか、そういう苗字の人がいたら三橋くんがすぐ後ろにならないもの」

「ああ」


 やっと理解が追いついて納得した三田村ににっこり得心顔で玲子は微笑んだが、俺としては玲子の言うよかったとそれに対する三田村の納得の仕方がさっぱり解らなかった。

 前後ろに並んでいなくても同じクラスなら知り合うし、友人になるならないはまた別の話だ。どうやらこの二人は妙に馬が合うようだった。


「本当、オレぐらいだよ三橋みたいな屈折した奴と付き合えるの」

「そうか」


 この場を去らない三田村への当てつけに拍子をとるように本の背表紙を指で叩き、さらっと三田村の自負を受け流すと、なにがおかしいのかくすくすと玲子がまた笑う。いつまでたっても今日の本題に入れそうにない。


「仲良しなのね」

「別によくも悪くもない。それにその理屈なら五十音順に並ぶ度に、俺は前後の人間と友人になることになる」

「あ、そっか」


 呆れた思いで傾けていた頭を軽く振る。母親譲りに軽くうねった伸び掛けの髪が目の端を軽く叩いたのに反射的に目をつむった。

 頭が良いがちょっとだけおっとりお間抜けさん。三田村が伝えた玲子の評はどうやらその通りのようだ。


「きっかけってことだろ」

「きっかけね」

「な、こういう奴だから玲子ちゃ……」

「“マ”の苗字と“三田村くん”と“ミチ”の苗字の人がいなかったら、私も三橋くんの前になるね」


 俺に指摘されて合わない理屈に気が付いた後も名前で遊んでいる玲子は、どうやら無意識に頑固でもあるらしい。そして彼女は気が付いているのだろうか。


「出会って3分経たない内に邪魔者にされるってっ!!」

「あ、違うの、違うのよ! ごめんね、三田村くん」


 目の前で三田村と玲子が漫才じみたやり取りを交わすのを眺めながら喉の奥で笑う。


「“ホンジョウ”、確かにそうだな」


 それにしても、埃が降り積もっていた頃に比べここも騒がしくなったものだ。いや、普段はその頃と同じくらい静かだけれど。

 要は俺以外の人間がここにいるから賑やかなのだ。

 第一図書室を使える状態にしたのは俺自身であるし、人が出入りする以上そうなるのは自然だ。

 彼等は落ち着いた場所とここを気に入るかもしれないが、まったくの静寂は必要ない。

 そんな事を考えながら、どうやら今日も諦めることになりそうな横光利一の背表紙を撫でて本を後ろ手に事務机に置くと、俺は組んだ足を下ろし立ち上がる。


「玲子」

「はい。えっ?!」


 反射的に返事した玲子の大きな目が驚いたように見開かれるのを見て、俺は自分の腕時計へと視線を移す。


「16時34分。君、今日早く帰らないといけないんじゃないのか?」


 あっと小さく息を呑む声が耳に届いた。


「……送るよ」


 閉館時間は17時であったが、放課後の第一図書室は昼よりも人が来ない。

 三田村と玲子だけで十分千客万来の気分であった俺は、司書部屋の仕切りの戸口側に打ち付けられた釘を曲げて作られたフックに掛かった鍵を手に取り、そのすぐ下の床に置いてある自分の鞄を手にカウンターの向こう側へと出た。

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