37.藤の花の頃
※同日に最終話までの3話分を更新しています。最新話にご注意ください。
汗ばむ程の陽気だ——。
春だと思っていたら、いつの間にかもう夏に差し掛かかっている。
埃っぽくゆるやかな陽の光は、地中からじっとりと湿りを含む空気を立ち上らせる熱光線へと変化しつあり、利き手に鷲掴みにしていた大判雑誌のつるつるした表紙に手脂がうっすら滲むのがわかった。
花の房を重た気に垂らす藤棚の下。
着ている着物に似た白茶けた色の蔓と緑鮮やかに茂った葉が眩さを増す陽光を遮る、薄紫のぼかし染めのような淡い影の中に立って、俺はひっそりと彼女の名を呟く。
そうして思い出す。
毎年、この季節に、この花の下に立つたびに。
さらさらと、砂の如く時は過ぎていった。
梅が終われば椿、椿が終われば桜、桜が終われば藤……。
毎年変わり映えのしない周期で咲いては散り去る花同様、時が過ぎてもその日々に大した変わり映えはない。
「もう袷は暑いな」
染め色と着心地の両方が気に入っている、父の形見を仕立て直した着物だ。
履いている袴も同じく。
蔓と葉の隙間からわずかに見える、よく晴れた青空を目を細めて見上げて垂れ下がる藤の花に左腕を伸ばした。
上り坂のスロープの傾斜に合わせ、柱の長さを変える藤棚。
渋みのある甘い香りを漂わせ、揺れる花房に触れかけた指の高さの花の影に見える幻影に目を閉じる。
ふわりと空の上から落ちてきた羽根のように、音もなく現れる濃紺の靴。
靴と色を合わせたワンピースのスカートが揺れ、華奢な肩の上を滑り、風になびく艶やかな黒髪。
「どうして藤の花のイメージなのかな?」
微笑みがそっと空気を揺らすような気配と共に、一陣の風が吹く。
あと少しで指先に触れるところで弓なりに揺れて遠ざかった花房に、風に煽られた袂がぶらぶらとしている揺れを感じる腕を下ろし、目を閉じたまま苦笑する。
「“音”の源泉も、君も——」
閉じたまぶたの裏で、濃紺の靴が自分が知るよりもゆっくりとした小さな歩幅で交互に動く。
「小ホールの設計は私がもっとも信頼している日本人の弟子に任せた——」
俺が呟いた言葉に、ぴたりとこちらに近づこうとしていた濃紺の靴が左右揃って停止する。
きっとそうなると思う。ここに彼女がいたら。
そして目の前に垂れ下がる薄紫の花にその顔は隠れ、襟ぐりから覗く白い首元だけがちらりと見えるのだろう。
片手に鷲掴んでいた雑誌を突き出せば、花の影から現れるのだろう。
目の大きさはそのまま、ふっくらした頬の輪郭が少し細くなっているはずだ。
『本当に、読めば覚えちゃうんだね……』
鈴を鳴らすような、呆れ声で雑誌の記事の文章を口にした俺に答えるに違いない。
聞き覚えがあるトーンから、少し思慮深い響きを増した女性の声で。
「ずっと覚えていられるわけじゃないよ」
肩をすくめれば、再び吹いた藤の花と葉を揺らす風の音の中に、くすくすと耳が覚えているのと同じ笑い声が聞こえて、俺は目を開けた。
いま読んだばかりなら……と、記憶の文面を軽く誦じる。
「劇場設計を手掛けたのは初めてだが、演奏家の私的サロンや教育施設の室内楽向けのスペースで実績と評価を積み上げてきた。音響効果が求められる場の設計に“彼女”はより静寂を意識するのは、私にとっても面白いアプローチだ。実に日本的な感性だと思う――小ホールのこけら落とし、ホール図面付きの打診は君から?」
花の影から小さな頭が頷くように傾いて、ひっそり苦笑した。
これはただの願望と自惚れが見せる、幻影のはずではなかったか……俺の。
「特権濫用じゃないかな? 君の師匠? アントニオーニって建築家も気を遣ったコメントしてる」
明後日から一般にオープンする大規模な商業・文化施設。
壁面の多くは硬化ガラスとセラミックで出来た、それだけなら無機質な建築物だ。
しかし建物を一定の秩序をもって囲む、漆を塗ったような深い黒みがかった茶色の鉄筋製らしい格子が、奇妙に有機的な面立ちを添えていた。
江戸時代の雰囲気をまだ残す明治初期から……移り行く時代の流れのなかで文化継承を大きく断った要因の一つと考えられている二度の大きな戦争にかかわらず、歴史とは少し違うベクトルで発展していたら——というのが、全体的なイメージコンセプトであるらしい。
少し以前に流行った和モダンや和洋折衷のレトロ趣味とも違う。
ぱっと見は、むしろ非常に現代的で懐古的な雰囲気はない。
けれども古い時代から残ってきた楽器にも通じる、歴史を渡ってきた佇まいを感じさせる。
そんな……ある企業グループが出資して手掛た、新しいランドマークを紹介する建築専門誌のインタビュー記事だった。
「師匠に気を遣わせるようなお弟子さんなんて破門にしちゃう?」
「……時と場合による、かな? 弟子なんていないけど」
「そうなの?」
「入門してたった十一年のインスタントだから。発売日が昨日の業界専門誌って宣伝効果あまりないと思うけどな……第一図書室に、似ていた」
「それで、電話を?」
問いかけに沈黙で答え、背後にそびえ立つ建築物を振り返る。
じゃりっと、小さく地面との摩擦の音がして頭を戻せば、紺色の靴がくるりと踵を返した。
小さな頭が、すらりと細い紺のワンピースに包まれた姿がまた隠れていく。
微笑みの気配だけを儚い香りのように残して、花影の中に沈んでいくように……実際はゆるやかな坂道を上っているのだけれど。
“さようなら、三橋くん——”
十一年前、同じような季節。
なんでもないただの別れ際の、ありきたりな言葉と微笑みを残して、それきり。
休日が明けたら、彼女はいなくなっていた。
随分前から留学することを決めていたらしい。留学先で大学まで卒業して、卒業前から出入りして働いていた場所にそのまま就職した。
随分と後になって、あれは体よく振られたのだと気がついた。
いつも一門の人間に任せているのに自ら電話したのは、こけら落としの話をもってきた会館ホールの運営管理事務局の担当者が、施設を手掛けた出資企業から出向されている人だったからだ。
もしかしてと事務的な会話の後の雑談に少しだけ彼女のことを尋ねた。
「帰国してたなんて思ってなかったけど、するよな。自分が音響設計したホールなんだから」
ジャリジャリと、慌ただしく乾いた地面の土を蹴って背後から近づいてくる履き物の音に、俺は再び後ろを振り返った。
「お待たせしましたっ……」
ぜえはあと息を乱してやってきた一回り以上年輩の内弟子の男性に、思わず苦笑いを浮かべてしまったのを雑誌を持った手で隠す。
「そんなに慌てなくてもよかったのに、透さん」
「相手さんがっ……来ないうちに……なんて、言ったの、誰ですかっ」
俺と同じく袴を付けた曲げた両膝を両手で掴んで腰を落とし、肩で荒い呼吸を繰り返している透さんにそう言えばそうだったと今度は自嘲する。
「で、管理? 警備? どちらか知らないけど、どうだった?」
「開けてくれるそうです……そりゃ、ここまで来てしまってる我々を、外に待たせたまま放置プレイはできんでしょう」
「だろうね」
「わかってやってるんだからタチが悪いですよ、若先生もっ……と、いえ」
言葉の途中で、落としていた腰を持ち上げて真っ直ぐに姿勢を正し、襟元を直して俺の顔を見た透さんが淡く苦い笑みを浮かべて表情を引き締めた。
初夏の爽やかな風がまた吹いて、咲いて日の経った藤の花弁をはらはらと散らす。
「失礼しました。行きましょうか、家元」
わざとらしく改まった口調で促した透さんに、吹き出しそうになったのを飲み込み頷いた。
澄み渡った青い空、ここ三日程晴天が続いている。
頬に触れる空気が、歩く度に指先に戯れる空気が、音を放つのに絶好だと囁く。
「しかし……緊張とか、そういったの無縁だと思ってました」
「ん?」
「リハーサルの前日に人が入ってない状態の会場見たいなんて。気負いますかやはり。家元になって最初のお披露目公演じゃ。家元も人の子なんだなあと思いましたよ」
「どちらも少し違うかな」
「ん?」
きた道を二人で戻りながら、怪訝そうに顔を向けてきた並んで歩く透さんに軽く目を伏せる。
ふと肩先に留まっていた薄紫の花弁に気がついて、十代の頃と比べ節が張って皮が幾分厚くなった指でそっと柔らかな花弁を傷つけないよう摘み上げる。
時が過ぎていく間の出来事といえば、なんとなくまともな修練してみる気になってし続けて……それだけ。
また吹いた風に摘んだ花弁を流せば、ひらひらとどこかへ消えてしまった。
花弁が消えたのを見届け、顔を上げる。
向かう先には真新しい、まだ誰も演奏をしていない音楽ホールを有した建物。
陽光を受けて、鈍色の渋い輝きを放っている。
「ああ、そうだ。管理人の方が約束の時間より二時間も前に来ていたなんて、本條会長にはくれぐれも知られないようにしてくださいって。勝手に好き勝手見せたなんて知れたら責任を問われると……」
「そんな人じゃないと思うけど。まあ規則もあるだろうし、わかった」
返事をしながら、頭の中は十一年前の過去の時間への物思いに彷徨いだす。
つやつやした長い黒髪、細い手足。
俺を振り返って微笑んだ、可憐な顔。
鈴をならしたような澄んだ声音。
下見じゃない、緊張や気負いでもましてや過去への感傷でもない。
彼女の恋が嘘なのか、本当だったのかなんていまとなっては思い出話にもならないことだけれど。
あの時、たしかに彼女と共に同じ静けさの中にいた。
ほんの一瞬の、無音。
けれどそれは“永遠”に指が触れそうな、静けさで——。
「音は——常に、静寂を伴う……」
胸の内で呟いたつもりが、低く籠った自分の声が思いのほか強く響いてはっとする。
どうしましたと尋ねてきた透さんに、なんでもと俺は静かに答えた。




