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36.静寂

※同日に最終話までの3話分を更新しています。最新話にご注意ください。

 舞台の匂いは独特だ。

 冷たく乾いた埃っぽさと木の匂いと微かな金属の匂いが混じる。

 搬入口周りのコンクリートの通路と壁。そこかしこにカバーに覆われた筝があるのは、この定演会で演奏する各教室の生徒の物だろう。俺に会釈しながら行き交う一門の関係者、どこか楽しげに緊張や不安を言い合い励まし合っている門下生の人達。

 そんな廊下をひしめく人々の合間から、明らかに体つきががっしりと異なる黒っぽいTシャツを着た男達が作業している姿がちらちらと見える。

 開け放している重く分厚い鉄の扉の内側へ、薄暗い舞台袖。

 いくつも垂れ下がる幕の端、太い綱、物々しい合金製の鎖がじゃらじゃらとぶら下がり、それらは鉄の格子が張られた高い天井の上を伝って壁際に纏められていた。近くには分電盤があり、その側に無数のスイッチやレバーがあり赤や緑の光が薄く灯っている。

 どこか人を緊張させる、威圧的な雰囲気を漂わせるそれらの装置に触れていいのは荒っぽい声を掛け合っている男達だけだ。

 舞台は、出演者だけでは成り立たない。

 なにか設置するのも、幕を動かし、照明や音響を制御し、演目を滞りなく行えるように支えているのは彼等だ。

 仕事に厳しく、真剣で、不測の事態に対して常に危機意識を持っている。

 ほんの些細な操作ミスが大事故につながる恐れもあるのが舞台裏の仕事であり、舞台は生き物であると彼等はよく知っている。

 そんな彼等の仕事を、俺は舞台袖の隅に佇み眺めていた。

 ライトの熱が空気を乾燥させるため目が乾く。目を閉じれば、途端に他の感覚が鋭敏さを増す。

 舞台裏の匂いは独特だと思う。そして裏方の人々が舞台の床を踏む足音でわかってしまう。

 一門の定演会を行うホールは決まっている。

 けれどどんなに空調を、反響板を制御しようと、毎回同じ響きで鳴ることはない。

 音が内側を巡っている——悪くない、舞台の床を踏む足音、幕を、照明を、背景(ホリゾント)を吊り下げる合金製のバーを支える天井に張られた格子、照明機器の位置と傾きを調える金属の杖が触れ合っている、それらが立てる音。その響き。

 その合間にある静寂。音は常に静寂を伴う。


“そうだ洋介、音から逃れたいのなら——”


 俺は閉じていた目を開け、踵を返して舞台袖から退散すると搬入口から外へと出た。

 汗ばむ程の陽気で、春だと思っていたらいつの間にかもう夏に差し掛かかっている。

 まだ夏程激しくはないが、ゆるやかな陽の光は地中からじっとりと湿りを含む空気を立ち上らせる熱光線へと変化しつつあった。

 さわりと吹く風、目の端を横切った薄紫色をひとひらをなんとなく手の上に受ける。


「藤、か」


 首を巡らせば小規模な音楽ホールの庭の藤棚から重たげな花の房が垂れていた。


「もう袷は暑いな」


 花弁を吹く風に流し捨て、手の人差し指を襦袢と着物の重なる襟元に軽くかけて呟く。

 白茶けた染め色と着心地の両方が気に入っている、父の形見を仕立て直した着物にやはり直した袴を着けた姿でホールの裏手を巡る回遊式庭園になっている敷地をぶらりと歩きだす。


「そういえば、あの時の玲子は藤尽くしだったな」


 “三橋くんに詰まってる音、こっちに移せたらいいのにね” 


 陶酔の誘いに満ちた、あの純度の高い響きを聞かせられたら、玲子もその虜になるのだろうか。

 ずっと俺を埋め尽くそうとしている音の……そこまで考えて、俺は苦笑した。


「変だな」


 微かに異なる曲を別々に合奏する音かホールの建物から聞こえる。舞台でのリハーサルと楽屋や搬入口付近で生徒の人達が練習する音だろう。俺とは、多分、音の出所が異なる人々。


「人に聞かせてやりたいなんて、いままで考えたこともなかったのに」


 奏でるのは吐き出すため、逃れるため、掴もうとするためでしかない——。


「ここにいたか、洋介」


 振り返れば羽織袴を着けた叔父がいた。

 ちなみに今日は弾かない。定演会で叔父が弾くのは年明け最初の時だけだ。生真面目にトリを務め定演会の撤収作業まで見守って裏方へ挨拶に回っていた父とは正反対に、冒頭だけひょいと挨拶して後は直弟子や支部長任せですっとどこかへ出てってしまう。

 柄じゃないというのが、理由らしい。

 また、先代——つまりは俺の父であり、叔父の敬愛する歳の離れた兄である人の演奏と比べられるのもおこがましく、単純に嫌だとも。

 だからって、先代の息子という理由で俺をトリに据えるのもどうかと思う。しかし一門の正式な奏者でもなく好きに弾いているだけと皆知っている俺であれば、先代の位置で弾くことにプレッシャーなどない。

 一応息子であるということで概ね人々は大目にみてくれる。

 父の喪が明けた年から引き継いでいるが、全体丸くおさまるからかこれと一門から反対の声はなかった。

 ちなみに叔父が弾くときは、嫌なことはさっさと済ませると一番最初の演奏だった。


「なに人の顔見て仏頂面してんだ」

「いえ、別に……なにか用ですか?」

「お前、今日、兄さんのじゃなく自分のなんだなと思って」


 持ってきた筝のことかとすぐさま思い至りああと呟いた。


「こないだ叔父さんに言われてメンテに出してまだなんですよ。俺は詩織みたいにいつものじゃないきゃ嫌だってこともないから。どちらも使っているし。それでわざわざ?」

「いや……詩織がお前が不調らしいようなことを言ってたからな。まさかと思ったし、途中からはそんなことなかっただの詩織も矛盾することを言ってはいたが」


 どうやら父娘の確執は改善しているらしい。何故か罰が悪そうに腕組みして不機嫌そうに言う叔父に思わず苦笑すれば、すかさず笑うなと叱られた。


「これでも心配しているんだ」

「演目なら問題ないですよ」

「そうじゃない……父親だからな息子の心配くらいする」


 あまりに不意打ちだったので、思わず瞠目して俺からそっぽ向く叔父をまじまじと見詰めた。

 ずっと無理して父親と呼ばなくていいと言っていたのは叔父だった。それに彼には詩織という血のつながった娘もいる。俺は彼が心底尊敬していた兄の息子でだから守るべき対象ではあったが、そこは一線引いていると思っていた。


「なんだよ、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して」

「いや、だってそういうこと言う叔父さんじゃないし」

「柄じゃないのはわかってるよ……ったく、もうちょっとはお前に父親扱いされてると思ってたのに」

「父親扱いしてますよ」

「嘘つけ、お前は誰に似たんか全体薄情だ! 肉親より音に夢中で」

「そんなことない」

「いーや。透や詩織に聞いたが、お前あれを覚えてないらしいからな。信じられんよ、こっちは全員トラウマだってのに」

「は?」

「小さい時に詩織から筝を遊び半分に習ってたろ」

「はあ……らしいですね。叔父さんに習ってたんだと勘違いしていたのですが」


 先日、上京直前に透さんと交わした会話を思い出しながらそう応じれば、自分が教えていたらいとっくに首でもくくってると穏やかでないことを言い出したので、俺は一体子供の頃になにをしたんだと不安になった。


「俺、何したんですか?」

「六段弾いただけだ」


 なんだそれだけかと俺は短時間詰めていた息を吐いた。


「いま、なんだそれだけかと思っただろ。お前はな、弾く前に兄さんや詩織を前にこう言ったんだ。“違うよ詩織ちゃん、いつも聞こえるのはもっとこんな感じ”って」

「え?」

「それでその場にいた全員苦悩のどん底に突き落とすような音で弾いて、弾いたと思ったら褒める間もなく眠いなんて言って稽古場に寝転んで昼寝はじめて……」


 まったく覚えがない。

 稽古場で昼寝したことは何度かあって覚えているが。


「えっと……」

「お前、新しい曲覚えてはそんな感じで弾いてはすぐ昼寝して、その度に詩織は自信なくして泣き出すし、大変だったんだぞ。そんな事が二三度続いて、とうとう兄さんが“遊び半分でも稽古はさせるな。しなくていいし必要ない。本気で稽古する気になれば別だがそうでなければ本人も周囲にとってもよくない”って」 

「……初耳だ」

「当たり前だ、お前が覚えてる前提でみんないたんだから。どうりでこれまで話が通じないと思ってたよ。そのことすっぱり忘れてたら、お前に才能云々言って聞かせたところで逆効果になるのもわかる」

「はあ」

「詩織にぎゃんぎゃん言われたぞ。洋ちゃんあのこと全然っ覚えてない、それであんなふざけたこと言ったりしたりしてるのっ、て。こっちに訴えられてもなあ……そんなお前が不調らしいなんて、こっちにとっては尋常なことじゃない」


『小さい頃、洋ちゃん一度弾き出すと止まらなかったの』  

『嫌いよ……洋ちゃんも、洋ちゃんの弾く音も——』

 

 東京で詩織に言われた言葉を思い出す。 

 あの言葉はそういうことだったのかという思いと、だからなんなんだという思いとがない交ぜだった。

 そうしてふと、さっき舞台の袖で脳裏に浮かんだことを叔父に尋ねたくなった。


「あれ、いつだったかな?」

「なにがだ?」

「父さんが入院中に病室に俺だけになった時があって、本を読んでいた俺に、急に掠れた声で“ここでも聞こるか”って言ったんです」


 もう遠く霞んだ記憶だ。

 明るい病室、呼吸器が着けられる寸前の浅い呼吸で少し苦笑を滲ませて父は言った。

 いや、場所は関係ないな——と。


『洋介』

『なに? どっか違和感ある?』


 めくっていた文庫本をベッドの端に置いて、椅子から立ち上がろうとすればいいと言った。


『音は静寂を連れてくる』

『……?』


 父が時折口癖のように口にする言葉であったが、何の脈絡もない唐突な言葉に俺が身を乗り出したまま首を傾げれば、浅い呼吸を数度繰り返してまた俺の名前を呼んだ。


『音から逃れたいなら弾き続けるしかない……いずれそのうち——』


「弾き続けるしかないって、本当かな……?」


 ざりっと玉砂利を踏む草履の音がして、叔父は俺の隣に並んだ。父よりやや背が低いから俺より低いが、父とはまた違う懐の深い存在感があった。


「さあ、わからんが……お前ほどでないにしろ、兄さんも似たようなものだったんじゃないかとお前を見ているうちに思うようになったかな。寡黙な人でそんな事は言わなかったし、綾乃さんと結婚してからは……いや、どうかな。ただ、兄さんはお前の奏でる音を大事にしていたそれは間違いない。兄さんがお前に何か言ったのならそれは信じて良いのじゃないかな」


 洋介——。

 脳裏に繰り返しかけた記憶に叔父のそろそろかと呟く声が被さり、お前も適当に戻って来いよと俺に声を掛けて叔父はホールへと戻っていった。

 いずれ、そのうち——ただ弾いて吐き出すだけでは詰まらなくなる。

 ざわざわと強く風が吹いて目を細めた。

 はらはらまばらにさっき掴み取った藤の花弁が吹き飛ばされて、狭い視界を横切りその吹けていく方向を目で追えば、飛んでいった花びらがそこに吸い込まれたような友禅の柄が見えた。


「……玲子?」


 以前ホテルで見かけたような大時代な豪奢さではなく、若いお嬢さんのよそゆき着といった風情の柔らかな生成りに近い白地に控えめな色彩で藤を描いた着物姿の玲子が、結い上げない普段見るおろし髪のままで数メートル先に立っていた。


「こんにちは」

「ああ、こんにちは」

「やっぱり三橋くんだった。入口の列に並んでいて、ふっと庭園に向かって歩いていくのが見えたから」


 なにがそこまで嬉しいのだろうかと思ってしまうほど、にっこりと微笑んだ玲子になんとなく苦笑が漏れた。

 そんな俺をやや離れた位置から眺めて首を傾けた玲子に、俺は首と軽く持ち上げた右手を横に振った。


「いや、なんでも。わざわざ着物で?」


 玲子に近づきながら尋ねれば、どうしてそんなことを聞くのかと言うように二度瞬きをして、両袖と胸の間に挟んでいる入口で貰ったらしきパンフレットを見下ろした。


「お琴だから」

「正確には、筝と琴って違う楽器なんだけれどね」

「え、そうなの?」  

「よく混同される。もう、開場時間か」

「うん……えっと」

「何?」

「演奏……するんだよね?」

「うん」

「いいの?」

「何が?」

「えっと……ここに、いて」


 ああと、そこでようやく玲子の言いたいことを理解した。   


「挨拶は叔父がするし、俺の演奏順は最後だからあと一時間は大丈夫かな?」

「そうなんだ」

「うん。でも透さん、君が来た時にお茶出した内弟子の人なんかも出ているから、よかったら聞いてあげて。ああ、そうか」


 ふと、思いついたことに俺は握った手を口元に当てた。

 いつもは楽屋で本を読んで過ごしていたけれど。


「別に、客席で時間潰しててもいいよな」

「え?」


 丁度、プログラムを半分過ぎたところで休憩も入る。その時に出ればいい。

 客は大体が出演者の身内か友人知人か一門の関係者で、ホールの客席は盛況な賑わいとはお世辞にも言えないのが常であった。


「いままで思いつきもしなかった」

「えっ、あの……っ、み、三橋くん?!」


 ホールの入口へと向かいながら玲子に手を伸ばし、彼女の手を取って歩き出せば狼狽した声を上げた玲子に振り返って告げる。


「いつも弾く側からでしか聞いたことないんだ。どうせならよく見える位置がいいだろうし。行こう」

「あ、はい……」


 一般客と同じように入口から玲子と連れ立って入れば、受付をやっていた事務局の人がぎょっとした顔をしながら「若先生?! 客席にですかっ?! そちらはお友達で?」と三段階で尋ねかけてきた。

 学校の友人を招いたので前半だけ客席で聞くと説明すれば、その場で待つよう言われた。急に係の人が慌ただしくなり、五分程後にどうやら急拵えに追加されたらしい“関係者席”に律儀にも誘導付で案内された。


「本当に……三橋くんって偉い先生なんだね」


 席に腰掛けて、ぽつりと玲子が呟く。


「いや、そんなわけじゃ……」

「生徒さん、びっくりするんじゃないかしら?」

「先生じゃないし、びっくりもしないと思う」

「そう?」


 無言で頷き、そうかなあとまだ呟いている玲子の横顔を見て、それからホール全体を見渡した。

 幕が上がる前。客席照明もまだ消されていないホールは、ざわざわと人々の話し声が空気を震わせていた。

 連休半ばであるせいかまずまずの客席の埋まり具合で、ワンボックス形式を取る三百席程の小ホールの少なくとも中央列の大半は埋まっており、満席ではないものの空席が目立って寂しいといった感じではない。


「会場って、いつもここなの?」


 不意に質問してきた玲子にそうだと答えれば、やっぱりちゃんと選ぶんだねと感心したように言う。


「邦楽専用ホールでしょう、ここ」

「え? ああ、うん……そうか、そういえばホールや劇場に興味あるって」

「ええ」

「どうして?」

「え?」

「どうしてホールに興味持ったのかなって。性別でどうって考えはあまりないけど、珍しい気がするから女の子で」


 玲子の顔を見れば、彼女もこちらを向いていた。

 少し上目に俺を見上げる玲子の考えが掴みづらい表情をしばらく眺め、どうしてと重ねて尋ねる。

 なんとなくではあるが、俺を見ているアーモンド形の大きな目の澄んだ瞳は、俺を通してなにか別のものを見ているような気がした。そんな俺の考えを読み取ったように、玲子はすっと顔の向きを変えて舞台へと目線を移した。


「直前の静けさが好きなの」

「直前の静けさ?」


 うん、と玲子が頷いた時に開演前の一度目のベルが鳴る。

 客席のざわめきが一瞬静まったが一度目のベルだ。まだ照明も消えていない。一度引いたざわめきはすぐに波の様に戻ってきた。


「小さい頃にね、お父さん達と一緒に出掛けたパーティではぐれちゃったことがあるの」

「うん」

「大勢の知らない大人の人達の森に迷い込んだみたいで、賑やかなお喋りの声とか会場に流れているBGMやキラキラした照明がいっぺん押し寄せてきて、お父さんもお母さんも見つからないし、すっかり怖くて動けなくなって泣きそうになって……」


 両親とはぐれた幼い玲子を想像した。

 何歳と言わなかったが、話しぶりから随分と小さな頃のようだった。

 煌びやかな会場の音と目に映るものに感覚を塞がれて、処理しきれない刺激に恐怖を覚えたというのは、想像できないことではなかった。誰だって子供の頃に迷子になったことぐらい一度や二度はあるはずだ。

 親とはぐれて一人、世界に放り出されたような心細さと恐怖。

 わかるよ、とか。

 泣いたの、とか。

 いくらでも間に言葉は挟めたが、俺は黙って玲子の話に耳を傾けた。


「その時にね……」


 二度目のベルが鳴り、すっと客席が暗くなる。

 ひそひそと話し声。幕が上がり拍手の音が玲子の声を遮った。


「あ、三橋くんのおじさま」

「挨拶くらいはね……一応」 

「演奏しないの?」


 叔父の挨拶の口上を聞きながら、玲子の問いかけを肯定するように頷く。


「どちらかといえば奏者より指導者な人だから、生前の父と比べられるのを嫌って一門の演奏会では滅多に弾かないんだ」

「そう」

「その分、俺に押し付けてくるから困る……」


 腕組みをしながらシートに深くもたれてぼやけば、くすくすと小さく玲子が笑った。


「楽しみ、三橋くんの演奏」

「そんな大層なものじゃないよ」


 ううんとすぐ隣で黒髪が揺れる気配がして、楽しみともう一度玲子は繰り返し呟いた。


「そう?」

「うん、三橋くんきっととても静かだと思うから」

「静か……?」


 もたれていた背を起して俺は玲子を見た。

 叔父の言葉が終わって、再び拍手の音がホールの空間を埋め尽くす。

 最初に演奏する支部の紹介のアナウンスの声が、マイク慣れしない素人のややたどたどしい調子で流れる。

 玲子を見る俺に、玲子は舞台へと視線を向けたまま、長い睫毛を伏せゆっくりと首を上下させる。

 華奢な肩を包む繻子織の絹の上を、さらさらと黒髪が流れるのが薄暗がりでも光る艶にわかった。

 こうして小声でお喋りしているから人のことは言えないが、客席はお世辞にもしんと静かではなかった。身内同士、教室の仲間同士で連れ立ってきている客が多いからだろう。

 舞台の上には十人程の門下生が横に三列左右から交互に並び、目配せしながら一斉に頭を下げる。

 同時に複数の手が各々の筝へと添えられる。


「ほら、もうすぐ」

「え?」

「しんと静かになる。演奏直前になにもかもが沈黙するような……ホール独特の静けさが好きなの」

「……え?!」


 音は——。

 常に、静寂を伴う。

 

『洋介』 

『音は静寂を連れてくる』 


「れ……」


 伸ばしかけた手の、指先十数センチ離れて玲子がそっと目を閉じる。

 舞台の上から門下生達が呼吸を合わせ気配がし、それまで(さざなみ)のように絶え間ないどこからか聞こえていた話し声がほんの一瞬だけ凪ぎ、ジャラン……ラン……と微妙なずれで重なる複数の絃の同じ音が鳴り響く。

 俺は途中で止めた手を戻し、玲子に声をかけるのを止めて舞台の演奏を聞くともなく眺めた。

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