34.鍵
手の中でシャラリとかそけき音が鳴る。
離れの稽古場。広縁の廊下に寝転んで、銀色の細い鎖を通す真鍮の鍵を顔の真上にゆらゆら揺れるのを眺めながら、三叉路で別れた桟田とのやりとりを反芻する。
三田村の店から家に帰り、日付が変わって一時間はゆうに過ぎているのに一向に眠くならない。
『おれのだよ』
乾いた靴音だけが響く、静まり返った夜の路上。
影になって見えなかったのに、微苦笑を浮かべた桟田の荒く削ったような輪郭をした顔が鍵が描く孤の中に浮かび消える。
『おれが昔作った合鍵だ』
たしかに桟田は緑風の卒業生で、彼が生徒だった頃にはまだ、第一図書室も図書室として運営されていたのかもしれない。その頃に作ったものなのだろうか、何故そんな……。
思えば、桟田が第一図書室に対してなにか思い入れを持っているのは明らかだった。
少なくとも長く締め切っていたらしいあの場所を、旧校舎が取り壊されるからといって、ふらりと迷い込んだ新入生を強引に図書委員に引き入れ、誰も望んでもいないのに図書室として束の間の復活をさせ、預けるぐらいには。
忘れ去られた旧校舎の中にある、黴臭い本ばかりの図書室を利用する者なんてほとんどいない。
強いて言えば、桟田がやってくる唯一まともな利用者だった。
まるで暇潰しに来たようななんでない様子で、けれどその足は真っ直ぐにいつも“哲学/思想”の書を集める書棚へと向かう。奥まった壁際の棚なので司書部屋からは林立する他の本を集める書棚に隠れ、桟田の姿は見えない。
倫理教師だから、授業のプリントかなにかの参考資料を見にきているのだろうと思っていた。
しかしよく考えたら、その手の資料なら第二図書室の方が余程充実している。
初めて桟田と出会った時も、桟田は哲学書の棚の辺りから姿を現した。
入学式の日なんかにどうしていたのだろう。
「昔作った、合鍵……」
鈍く曇った真鍮の鍵は年季が入っている。
銀色の鎖も、よく見れば小さな鎖の輪の内側がうっすら煤けている。
時間が澱のように沈殿しているようなあの場所にぴったりな、古風な意匠の鍵。
三田村から聞いた話では、桟田は大学ではフランス哲学をやっていたらしい。
単に趣味で、第二図書室のように生徒達や他の教師がいないことを好んでいるだけと考えれば、そんな気もする。
一、二冊の本を手に、並び立つ本棚の間から出てきて、それまでいた場所を眺めるように自習机の端に腰を引っかけて本を膝の上で広げぱらぱらとあまり気のない様子で頁をめくる。
俺以外に、他の生徒の姿がない時は一服することもある。
そういった時の桟田は、司書部屋から姿が見えていても気配が希薄というか、そこにいるといった感じがしない。
俺はすぐ訪ねてきた桟田から手元の本の世界へ意識を戻し、ふと気がついた時には、カウンターの上に貸し出しカードだけが残されている。
いくら読書に没頭していてもそれくらいわかりそうなのに、いつの間に司書部屋のカウンターに近づいて第一図書室を出ていったのかさっぱりわからない。
新しい図書室へ移す本の選書にはうるさいくせに、利用者の少なさに言及したことは一度もない。
まるで自分が気まぐれに出入りできれば満足であるかのように、しかしそれではわざわざ生徒を置いて開館させている意味が無い。そもそも鍵を持っている桟田は第一図書室に自由に出入りができるし、俺に蔵書整理させるのが目的なら別に開館する必要はない。
『もう必要ないからな......』
もう必要ない。
その言葉は、それまでは必要だったとほぼ同義だ。
そして彼はこうも言った。
『お前もいらなくなったら、譲ろうが捨てようが好きにしろ』
取り壊しが決まっているはずの場所なのに、譲るだなんて。
そういえば、旧校舎の一部を残すとかいった話もあったけれど……それがまとまったのだろうか。
「……寝るか」
日が変わったから、明後日には定例会だ。
またここで眠って体調をすわけにはいかない。
俺は起き上がると、自分の部屋に戻った。
眠気はなかったのに、布団に潜り込んだら案外簡単に眠れた。
夢も見ないほど深く眠って、時間は過ぎて、夜は明け、いくらか寝過ごしたらしい。
「う……ん……」
近づいてくる靴下で床を歩く足音が耳に聞こえて、眠りから覚めた。
障子越しの仄明るさを閉じた瞼に感じながら、軽く指で擦って薄目を開けたところで部屋の襖が開いた。
「ねー、洋ちゃん」
「……詩織? どうして」
「寝ぼけてるの? 昨日稽古場であったのに」
「ああ……そういえば」
額を手で押さえながら、布団から身を起こして軽く頭を振った。
障子越しの外の明るさや、すっかり身支度している詩織の姿が目に入って、少なくとも平日学校へ行く時間は過ぎているなと思いながら枕元に置いている時計を取り上げれば十一時半を回っていた。
どうりで、よく眠ったにしては頭がぼうっとして体が怠い。
夜更かししていたとはいえ、完全に眠り過ぎている。
叔父に十時に呼ばれて詩織は昨晩からいるはずだから、どうやら叔父の用も済んでいるらしい。
「なに? 茜が起こしてこいって?」
部屋に入ってはこずに開いた襖の柱に寄りかかり、なにか物言いた気に俺を見下ろしている詩織に、顔にかかる髪を両手で梳き上げるように後ろへ流しながら言えば、「お客さん......」と詩織は呟いた。
「客……? 三田村?」
試験明けの連休だというのに、連休だからと宿題がやたら出ている。
開校記念日で休みの今日のうちに宿題は済ませ、土曜日は一日、定例会の稽古に充てたい。
だから三田村と午後に手分けして片付ける約束をしていた。
しかし、まだ昼前だ。
約束した時間を勝手に変えるような気紛れはしない奴なのに、珍しいと思いながら詩織に尋ねれば、三田村と面識はある詩織は首を横に振った。俺は首を傾げる。
「なんか、洋ちゃんの学校とは違う制服着た人……ていうか、洋ちゃんなんで寝てるの? サボり?」
「開校記念日なんだよ」
「ふうん」
「三田村じゃないなら、まったく心当たりないんだけど……」
第一、緑風じゃない制服を着た客ってなんだ?
他校は休みではないし、それに俺が学校休みで家にいるって知っているんだと思いながら立ち上がる。
「たまたま庭にいたら声掛けられたの。じゃあ教室の子とかじゃないの? 洋ちゃんの友達って聞いたら、イワキって言えばたぶんわかるって言ってたし……」
「“岩木”!?」
詩織が告げた名に、まだ寝起きを引きずっていた意識が一気に覚めた。
慌てて箪笥へ、引き出しを開けてシャツを取り出しながら寝巻きを脱ぎ落とせば、「ちょっと、洋ちゃん!?」と、若干上擦った詩織の声に振り返る。
「なに?」
「いきなり目の前で脱ぐ!?」
「着替える。待ってるんだろ……」
「知り合いっぽいと思ったから応接に通したけど……」
「十分で行くって、悪いけど、誰かに言ってお茶でも出してもらうように頼んで」
「……わかった。本当、洋ちゃんってデリカシーとかゼロなんだから」
ちょっと前に、寝込みを襲うかのように人の寝床に潜り込んでおいてデリカシーもなにもないだろ、それも従妹の兄妹間でと思いながら、襖を開け放したまますたすたと廊下を母屋へ向かって歩いていった詩織にため息をついて、着替える。布団を畳んで部屋を出て、顔を洗い、一通りの身支度を済ませて早足で母屋の応接室に向かう。
途中、廊下を掃除や稽古場になにかしらを運ぶ内弟子の人達に挨拶されたり、ぶつかりそうになって謝られたりしながら、玄関脇のコート掛けと猫脚のテーブルに椅子二脚が置いてある応接室に辿りつく。
ドアのない部屋に一歩踏み込めば、胸元に淡い灰色でエンブレム刺繍がされた白シャツに灰色のズボンを履いた少年が涼しい顔して椅子に腰掛けていた。
テーブルの上に、紅茶の入ったカップが二客。白い湯気が薄く揺蕩っている。
やってきた俺にすぐ気がついて、少年は俺に視線だけをゆっくりと向けて軽く笑んだ。
「やあ、初めまして。三橋洋介くん。休日の朝はゆっくり? 失礼にならない時間のつもりでいたけど」
「いや......えっと」
時間よりも突然訪問してくるのはどうかと、戸惑いながら言えば、気を悪くするでもなくそれもそうだと苦笑する。
俺は、詩織に“イワキ”と名乗った少年の正面の椅子に腰を下ろした。
「そうだね。突然訪ねたのは悪かった。試験が終わって教室を出て思いついたものだから……」
「試験でも早過ぎないか?」
「今日は昼迄で、最後のは思ったより簡単で早く終わったから」
壁に据え付けられた柱時計の時間を見ながら俺が訝しめば、彼はそう答えて軽く肩をすくめた。
どうやら試験が解けた者から、教室を出て帰っていいことになっているようだ。
難関大学へ進学する数は県内随一の男子校の制服を着て、嫌味なことを言う。
「あらためて、岩木浩です。岩石の岩に樹木の木で“岩木”。さんずいに告白の告げるで“浩”。玲ちゃんからたぶん聞いてると思うけど」
「いや、聞いていない」
反射的に返せば、そうか...…と、神妙な表情を見せて岩木は、テーブルの上の紅茶のカップを取り上げてゆったりとした動作で足を組んだ。
髪は短く、背はやや小柄で、育ちの良さを感じさせる穏やかさ。それでいて妙に堂々と気負いのない様子の岩木は、濃紺の絨毯敷きのやや時代がかった調度の応接間の風景に妙にしっくり似合っていて、まるで彼がこの家の者で自分が不調法な訪問客のように錯覚しそうになる。
久生十蘭かなにか奇妙な事件の世界に巻き込まれでもしたような気分になった。
あるいは中井英夫の耽美な不条理劇。
この神童めいた雰囲気を纏っている少年によって、謎解きがこれから始まるような。
そんなくだらないことを考えながら、俺も紅茶の砂糖を三つ入れてカップを口に運ぶ。
寝起きたばかりで、なにも口にしていない体が糖分を欲している。
「甘党?」
「そういうわけでは」
「そう。僕は聞いているよ。玲ちゃんと付き合って約一ヶ月の相手だって」
「はあ。ここ、ひとまず来た人を通す場所で……」
「なら、違う部屋へ案内してくれるのかな」
「……いや、悪いけどここで」
「いいよ。僕もこんな大きな家のお座敷に通されても気後れする」
話をするなら手短に願いたいというだけで、座敷に通すつもりはなかった。
それにしても、やけに彼に指図される側の気分になるものの、だからといって嫌な気分にはならない。
なんとなく人に指示し慣れている感じがある。生徒会長とか部活動の部長とかやっているのか……いやそれよりも、イワキコウ、イワキコウ……相手から教えられるまでもなくやはり名前の漢字が思い浮かんだ。
玲子からは聞いていない。なら何故、どこでと記憶を探るが……やはり接点を持った覚えがない。
「しかし伝統芸能の家ってやっぱりすごいね。僕みたいな高校生に、案内やらお茶出しやら人が代わる代わる……玲ちゃんの家はあんな門構えで建物だけど、ご両親とお手伝いのおばさん一人しかいないから案外普通だったけど」
「そうなのか?」
「うん。昨日、門の前で彼女と一緒なところを見かけたけれど、訪ねたことはない?」
岩木の質問に、俺は頷いた。
「玄関の前までしか。それから、うちは伝統芸能じゃなく邦楽――筝の一門ってだけで。いってみれば西洋楽器の教室みたいなもので、そんな大層なものじゃない」
「全国七支部もある楽器教室の親玉は十分大層だよ。僕のことを聞いていない可能性は想定していたけれど、なにから話せばひと繋ぎになるだろう」
「ひと繋ぎ......」
まるで会話を、パズルかなにかみたいに捉えているような口ぶりだ。
頭の構造か思考のプロセスがまったく別次元の人物のように思える。
そんな印象を受けた人物は過去に一人で、三田村の友人だった。
どこかヨーロッパの国の金髪の大学生。
京都の大学にいて、昨年の夏に関東に遊びに来たからといって紹介された。
目に映る物事すべてになにかしら法則を見出そうとしているような人物で、奇異の感に打たれたのと似ていると思いながらテーブルにカップを戻す岩木を眺めていて、突然ひらめいた。
「……全国模試」
そうだ、中学の時に受けた全国模試の結果表だ。
同学年の、常時トップに記載されていた名前が、岩木浩だった。
「いま君が受ける模試の結果には載っていないはずだよ。学年が違うから」
俺が呟いた言葉の意味を、岩木は正確に拾い上げた。
そして俺は、岩木の言葉で彼のこととは知らずに彼について知っていることにも気がついた。
「家族全員、東大出の中学浪人」
「なんだ知ってるじゃない」
「噂で......玲子の......」
三田村はなんて言っていた?
中学での玲子の三番目の恋人。
たしか、事故で生死の境をさまよった末、現在、中卒にして浪人生活の真っ最中とかいった……他二人いる、彼女と付き合っていたらしい男と違って、彼が見舞われた不幸の詳細は省略されていたことを思い出す。
「受かってはいたらしいんだけどね……」
「え?」
そこまで知っているなら話が早いと、岩木は彼自身について語り始めた。
始終にこやかだったが、とんでもない話だった。
「試験会場の階段から落ちて、頭を打って、半年近く自分が誰なのかもすっぱり忘れてしまったんだ」
「半年……自分が誰かもって……」
学生証や受験票を持っていた時で、大勢他の受験生や試験官の教師がいる場だったのが不幸中の幸いだった。
そうでなければ救急車すぐ呼んでもらえたかわからず、家族にもすぐ連絡が取れたかどうかと、まったくの他人事のように両手を軽くあげて岩木は言った。
「一番最初に、薄っすらと思い出したのは玲ちゃんのことだった。母が側についてリンゴを剥いてて……ほら、ウサギみたいにするのあるだろ? 塾の夏期講習の昼休みに、休憩室で彼女のリンゴの入った容器を鞄の端に引っ掛けて床に落としたのが知り合ったきっかけで」
「林檎……」
「悪いのは僕なのに、彼女の方が気の毒になるほどおろおろ慌てて気にしないでって、彼女には悪いけどなんだか可笑しくてさ。すごい綺麗な子なのに動作が」
「わかる、気がする」
ねじ巻きの玩具のように動く玲子の姿が目に浮かぶようだ。
「ああ、話が逸れた。玲ちゃんのことを思い出した僕を見て、母が彼女に連絡した。見舞いにやって来た彼女と話しながら蔓を手繰るように記憶を取り戻していった。玲ちゃんも、僕も、家族も、主治医もほっとして色々検査して退院したけど、もう夏の最中で……それに完全に回復したわけでもなかった」
合格はしていて、入学手続きは一応していたらしい。退院して二学期から登校を目指していたが、或る朝起きたら取り戻したはずの記憶がまた失われていたり、混乱した。
特に、事故で頭を打つ前、玲子と付き合って別れるまでの間の期間と自分が何者であるかの記憶に支障が生じて、錯乱状態になるなどとても学校に行けるような状態ではなくなった。
結局、一度も通うことなく、学校側は配慮で退学ではなく入学取消しで処理したそうだ。
それが、中学浪人といった噂の真相だった。
「記憶が混乱すると頭も割れるように痛くて、入退院を繰り返して……玲ちゃんはそのたびに来てくれて、順序立てて記憶を整理してくれた。そうしているうちに段々そんな症状も落ち着きて冬にはすっかり回復した。思うに、夏の間だけで家族への体面を優先して、彼女と“別れたこと”に罪悪感があったんだろうな」
岩木の言葉に、えっ、と俺は声に出してしまっていた。
「事故が起きた入試の前に、別れてた?」
俺の問いかけに、岩木はまるで打った頭が痛むように顔を顰めて苦笑いした。
そうして、ため息を一つ吐くと冷めかけた紅茶を口へ運び、組んでいた足を戻して俺に向かって身を乗り出すようにカップをテーブル置いた手を膝の上で組む。
「夏期講習の間だけだった。付き合っていた間もなにも起きていない。彼女の噂はただの偶然。そもそも呪いだなんてばかばかしい。君も噂を信じてた?」
「いや、そんなわけじゃ」
「彼女目立つから、親しくなる前から僕も噂は耳にしていたけど。親しくなってよくよく確認すれば、起こるべくして起きたようなことばかりだった」
バスケ部の先輩とやらは少々素行の悪い友人もいて、接触したバイク事故はそんな友人達との間で起きたもので、病院での事故も、漢字はことなるが読み仮名が同姓同名の患者で、新人看護師によるミスを指導役の先輩看護師が気がついて未然に防いだが、そのやり取りを見ていた本人が騒いだだけ。
退院して絡まれたのも事故がらみの悪い仲間内のいざこざだった。
「もう一人の科学部の部長って人も、なんていうか……思い込みに過ぎないよ。舞い上がる気持ちはわかるけどさ、いいところ見せようと四徹とかしてたら体調も崩す。それに他のことに気を取られて化学実験なんて危険なのは教科書にだって書いてあるようなことだ」
呆れて物も言えないといった表情で、岩木はゆるりと首を横に振った。
俺も、彼の話に本が読めないのは彼女の……なんて少しばかり思いかけてどうかしていたと、内心反省していた。すべて原因はあったし、それは玲子となんの関係もない。
「けれど事実がどうでも、心はままならない」
「岩木……?」
「玲ちゃんは、一連の出来事が彼女と直接因果関係はないと頭では理解しながら、檻の中に入ってしまった。“恋を叶えてはならない”という罰で出来た檻に」
「それはおかしい!」
岩木の言葉に、俺はすかさず反論した。
何故なら、俺と玲子が付き合い始めたのは、他の者達と違って玲子が俺に告白してきたからだ。
そのを説明すれば、岩木は頷いて、俺を見て少女のようににっこりと微笑んだ。
俺を憐れむような微笑みだった。
「ところで、三橋くん」
まるで。
探偵役の人物が決定的な一言を告げる前のように、呼びかけてきた岩木に彼の顔を見詰める。
「そもそも何故、玲ちゃんは君を好きになったんだろう? 君は尋ねたことはある?」
「何故」
それは度々思いかけたことはあった。
けれども深く考えたことも、玲子に尋ねたこともなかった。
いつの間にか、無意識に避けていたのかもしれない。
「やはり……思い当たることもなく、尋ねたこともないんだね」
会話の主導権は岩木のものであった。
「僕はね、つい最近彼女に振られたよ。落ち着いて半年くらい経っての検査入院でお見舞いにきた彼女に、僕の罪悪感と後悔を伝えたけれど。君がいるからって取り合わなかったな……彼女」
至極穏やかで良い奴だと思える岩木に、俺はどうしていまこんな後ろめたいような慈悲を願うような気分になっているのだろう。
これとなにもしてはいないのに。
なにもしていないのが、いけないのだろうか。
「玲ちゃんは君が好きだよ。まったく相手にされなかった元彼として腹立つけど、同時に気の毒にも思う」
「気の毒?」
「人に聞けば、君も結構色々噂があったからね。来る者拒まず、取っ替え引っ替え。付き合っている間は優しいけれど本気で好きになることはない」
「それは……」
「不実だからではないことは、玲ちゃんから聞いて知ってる」
「そんなことまで話しているのか?」
「玲ちゃんは、僕の質問には答えるから」
岩木のその一言に、何故かひどく腹が立った。
いい奴なのだろうとは思うが、どうにもなにか引っ掛かるものを感じていた。
そう、どうしてこの男が玲子自身のことについて、まるで自分の手の中にあるもののように話しているのかと。
「君は絶対に手が届かない相手。玲ちゃんが自分を罰するために好きでいられる相手なのだから」
違う。
『三橋くんは、わたしを好きなわけではないから......』
『なるほど、つまり俺から言い寄った訳ではないから大丈夫だろう。そう君は考えた訳だ』
岩木の言葉を裏付けるように、脳裏にフラッシュバックした記憶を、同時に違うと俺は否定した。
つい最近、捕まえ損ねた違和感と一緒に。
「話はそれで終わり?」
「そうだね」
「ならもう用はない?」
「気を悪くしたのなら謝るけれど、でも玲ちゃんの呪いは君じゃなく玲ちゃん自身が解くものだと思う」
「呪いなんてばかばかしいと言って、それはなんだか矛盾してないかな……」
「……失礼するよ」
心底気の毒そうな一瞥を俺に残して、岩木は出ていた。
応接室の椅子に座ったまま彼を見送りもせず、俺は俯き両手で額を掴むように持ち上げ、深く息を吐いた。
ややあって内弟子の一人がやってきて、お友達はお帰りですかと尋ねてきたのに友達じゃないと答えて、応接の片付けと昼飯を運んでもらうよう頼んで俺は離れに戻った。
『三橋くんのことは、自分で“見つけた”の』
あれはいつかの帰り道。
玲子のピアノ、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番“悲愴”を聞いた。
俺を見上げふるふると首を振り、そうして彼女は俺を真っ直ぐに見詰めた。
告白した時と同じ、きっと睨むような強い眼差しで。
その、見つけたという言葉が、岩木のいう意味であるようには。
俺には思えない。




