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32.何者

本日3話更新です。こちらは更新2話目です。

 高い建物の側を歩いていたら、不意に銀色の珠のような雫が頬を小さく濡らす。

 見上げた遥か上空から羽根のようにゆったりと下りて来て、建物の先端に差し掛かったところで急にぱらぱらと糸が切れたような勢いで散らばり落ち、灰色の固い石畳の地面を濡色に染めていく。

 その緩急と絶え間なさ、降りしきる雨の音。


 雨は苦手だ、好きではない。

 その湿りは音の響きに影響する。

 けれど、雨音は嫌いじゃない。


 “ロンドンの夜の雨”


 正月の時期、テレビやお店でよく流れる定番曲ともいえる、“春の海”と作者を同じくする箏曲。

 地面に落ちた雨が跳ね返り分散する、その飛沫(しぶき)の様を奏法を駆使した音で奏で切る。

 瞬間瞬間の印象を音に写し取ったような旋律は、詩情に富み激しいが——。


 ガジャン……ンッ……。

 でたらめな流し爪。


「……酷い」


 曲の途中で弾くのを投げ出した。

 自分で出した音ながら、その濁った割れ方と音量に思い切り顔を(しか)めてしまう。

 これで何度目だろう。

 弾き出してから小一時間、ずっとこんなことを繰り返している。

 指は正確に動いているし力加減も悪くない。爪が弦を弾く具合も。


「どこか傷めたかな」


 台に置いた箏本体を注意深く見たものの、特に異常はなさそうだった。

 そもそも一音一音はきちんと鳴っている。

 調和と統率が取れていないだけだった。

 西洋音楽の楽譜ならスタッカートでもついていそうな弾き初め。


「違う」


 一小節に当たる分程度、鳴らしながら呟く。

 違う、そうじゃない。

 まるで埃の溜まった雨どいから漏れる濁った水だ。

 だらだらと汚らしく垂れている……そんななのに、歪んだ音は絡みつくように深淵に誘ってくる。


 濁った暗闇……なにも無い暗闇。  

 底なしの、なにかが蠢いている暗闇……。

 頭の奥がぐらぐらする。

 いま……なにを弾いてる? 


 目眩がしそうだと思った刹那、どすどすどすと近づいて来る荒っぽい足音が、暗闇へ沈みそうな俺の意識を引き止めた。遠慮の欠片もない音を立てて、稽古場の襖が開く。


「ひっどっ! なぁに!? その音っ!」


 耳をつんざく高音域の神経質な声が、俺の手元で流れ続けていた音の濁流を止めた。

 はっと、我に返れば。

 ふてぶてしい様子で腕組みした少女が、俺の目の前に立っていた。


「詩、織……?」

「なんなの? 洋ちゃんってば、前衛奏法でも編み出す気?」

「いや。それはない」


 あっ、そ。

 そう言って、詩織は白いソックスの足裏を見せて、丈の短いプリーツスカートを翻した。

 灰色と臙脂(えんじ)のタータンチェック柄のスカート。

 ベージュを基調にした、ブレザータイプの真新しい制服。


「それ、新しい学校の?」

「そっ、どう?」


 見せつけるようにくるりと一回転した詩織に苦笑しながら似合っていると答えれば、心が込もってないと不服そうにむくれて、稽古場の床に腰を下ろし、膝を崩して横座りに座った。


「あれからすぐ決めたのか?」


 筝の前に回って、斜めに足を投げ出して詩織のほぼ正面に腰を下ろして、寝巻き代わりのくたびれかけた木綿の単の袖の腕組んで尋ねれば、まあねと彼女は肯定した。


「ついでに向こう一年の公演予定もキャンセルしちゃった」

「は?」

「直近のは過労による体調不良ってことで。来月に、学校行ったり、落ち着いてお稽古をしたりといった生活を大切にしたいとかなんとか言ってる休業宣言インタビューが雑誌に載る予定」


 しれっととんでもないことを詩織は悪びれもせず言って、意地の悪い笑みを見せた。


「よく許してもらえたな」


 ある意味、一門の広告塔だ。

 詩織のマネジメントを引き受けている事務所の絡みもあるだろうし、彼女のわがまま一存で、はいそうですかと融通が利く話ではない。


「去年あたりから休みたいって訴えてるのに、大人にうやむやにされるのにいい加減うんざりして! 幹部会に乗り込んで一門の面々の前でパパに頭下げて頼んだら、一発」

「なんて無茶なことを……」

「滅茶苦茶叱られたけど、もともとパパもママもわたしが表に出るの反対派だし」


 昔から、決めたらなにもかも一息にやってしまうところはあったが、随分と思い切ったことをしたものだ。

 それに、嬉々として実の娘のわがままを通すために動いただろう叔父の様子が目に浮かぶ。

 奏者としての詩織には厳しいが、娘としての詩織には叔父はものすごく甘い。

 詩織本人にはいまひとつ伝わっていないところが、報われないところではあるけれど。


「なにしにここへ? 制服見せびらかしに?」

「まさか。パパに呼ばれたの」

「こんな時間に?」


 もう夜の十時を回っている。


「呼ばれたのは明日の朝十時だけど、退屈してたし。ほら、体調不良じゃない? だからいま軟禁状態で」

「汚職が発覚した途端、突然体調崩して入院する政治家みたいだな」

「洋ちゃん、すごい失礼っ! でもって、なによさっきの」  

「さっきて?」

「前衛奏法じゃないんならなんなわけ。遊びでって感じでもなかったし……」

「……調子悪いだけだよ。風邪引いてしばらくまともに弾いてなかったし」


 両手を二三度、結んでは開いて、それを見詰めながら呟くやくように答える。


「ふうん。さっきのって定例会の?」

「まあね」

「久しぶりに聞きに顔出そうかなぁ」

「体調不良なんだろ」

「そうだけど」

「お前が来ると教室の人達が集中できなくなる」

「ふん、なによ、パパみたいな事言っちゃって。玲子さんは誘ったくせに」

「どうして知ってるんだ!?」

「本人から聞いたの。洋ちゃん出るしチケットあげるって言ったら、洋ちゃんに誘ってもらったからって」

「だから……」

「だって、電話番号交換してるもん。外に出られないから時々電話かけてお喋りしてるの。彼氏の洋ちゃんより仲良しなんだから」

「ちょっと、待って……」


 詩織の言葉に理解が追いつかず、額を押さえる。

 ついこの間、“あの人”とか言って反発していなかったか……?


「どうして、玲子と」

「いいじゃない、そんなこと。それより洋ちゃん! 玲子さんとこのまま付き合い続けて結婚してよ。そしたら玲子さんお義姉(ねえ)様でしょ、わたしお姉さん欲しい」


 まったくもって女の子はつくづくよくわからない。


「無茶言うな」

「無茶なの?」

「当たり前だろ」

「どうして?」

「結婚なんて、そんなのは大人になったずっと先のことだし」

「じゃあ、洋ちゃんはそのうち別れるだろうなって思いながら、女の子と付き合ってるの?」

「っ……そういうわけじゃ、ないけれど」


 けれど玲子は……。

 俺の目の前で首を傾げている詩織に、続けようとした言葉を言い淀む。


「とにかく、そんな先のことはわからない」  


 立ち上がって、再び筝の前に立った。

 もう一度だけ。

 もう一度弾いて駄目なら今夜はもう終わりにしようと考えながら、弦に触れる。


「ねえ、アレ弾いてよ」

「詩織、俺は定例会の曲を……」

「いいじゃない、ダメな時はダメだって」


 詩織こそ、調子が悪い時に誰がなにを言ってもむきになって弾き続ける癖に、と少々疎ましく思いながら床に座っている詩織を見下ろす。


「あれって、なに?」

「去年のこーかいこーざっ」


 亜麻色の髪の乙女——。

 曲名がひらめいたと同時に、“夏の明るい陽を浴び、雲雀とともに愛を歌う、桜桃の唇をした美少女”と、調子っ外れにその詩を暗唱する叔父の声。川原で見下ろした玲子のふっくらした唇などの記憶がぞろぞろと繋がって脳裏を横切っていく。


「評判良かったんでしょ?」


 らしいなと答えながら、最初の音を出す弦に触れる指の位置を変えた。

 詩織は言い出したらきかない。


 ピンッ——。


 かそけき音が消えてしまう前に、続く旋律を流れるように奏でる。

 ゆったりと、水がゆらめくような抑揚と僅かな震え。

 恋する乙女を見詰める男の躊躇いと抑える事の出来ない想いと、夏の光の中の完璧に美しい少女の姿……。


“ 生い茂る牧草に腰をおろして、朝まだき歌うは誰?

 それは亜麻色の髪の乙女、桜桃の実のくちびるをした美しき少女……”


 なんだ、全然調子いいじゃない。

 ぼやく詩織の声が聞こえた気がしたが、もうその頃には音に捉われかけていた。

 

 “お前の唇は神聖さを湛え

  嗚呼、愛おしき君よ

  口付を誘う

  長き睫に、美しきお下げ髪の乙女よ……”

 

 白っぽい光の中に人影が見える。

 はっきりしない少女の横顔——。

 ルノワールの絵のように滲む色彩。

 変調する一音。 


(こう)くん……?』


 不意に、玲子の声が音に紛れて耳の奥に甦る。

 今日の帰り道、玲子の家の門の手前。

 突然立ち止まった玲子の口から小さく漏れた呟きだった。

 セーラー服の肩先に揺れる髪の艶に目を落していたのを持ち上げて、半歩、玲子より先を進み前を見れば、本條家の門の側に人影が見えた。


『誰……』

『——三橋くん』


 やけにきっぱりした響きで玲子が俺を呼んだのに、振り返る。

 いつもと変わらない、真っ直ぐに俺を見詰める玲子だった。


『今日は、ここで』


 やはりいつもと変わらない、おっとりと落ち着いた口調。

 それなのに、有無を言わせない気圧されるような力をその声の響きに感じた。

 なにか戸惑うような震えも。


『玲子?』

『じゃあまた、連休明けにね』

『定例会がある』


 とっさに、そんな言葉を返した自分に驚いた。

 玲子もそうだったのだろう、ただでさえ大きな目がもう一回り大きく見開かれ、黒い瞳が揺れたように見えた。

 試験明けは、開校記念日と土日が連続した三連休だった。

 定例会は日曜日。


『でも、舞台から客席に誰がいるかなんて見ないでしょう?』


 たしかにそうだった。

 舞台から客席は、たぶん客が思っているよりよく見える。

 だからといって玲子の言う通り、一人一人が誰かなんて見ない。

 筝を奏でているならなおさら。

 けれど。


『見ないけど、わかる気がする』

『え?』

『君は、独特のテンポだから』


 客席から返ってくる、こちら側が放つ音と交感する気配やうねりがあるのだ。

 ピアノの楽譜に小さく記載される装飾音のように、玲子の気配はそのうねりとは異なる気配でけれども寄り添って感じられるに違いない。


『たぶん、どの辺りにいるかわかるのじゃないかな』

『三橋くん……』


 そう言って黙った玲子だったが、まだ続きがあるように唇は薄く開いている。

 まるで、口付けを誘うように……そうでないのは明白だけれど。


『なに?』

『ううん、楽しみにしてる。まだ、実際に弾いているところ見たことも聞いたこともないし』

『うん』

『それじゃあ』


 にっこりと柔らく微笑んだ玲子は、するりと俺の側を横切って彼女の家の門へと歩いていった。

 余韻の欠片もない。

 微笑みがそれまでの時間の区切りをつけ、それからあとはまるで無関係な他人であるようなすれ違い方だった。


「誰なんだ……」


 奏でながら、玲子の家の門の前にいた人物に向かって知らず呟いていた。

 誰なんだ……門の影にいた人影は。

 いいやそれよりも。

 光の中に滲む色彩。

 はっきりしない横顔、微笑む少女は——。


 甲高い高音から柔らかな低音へと流れる旋律。

 冒頭のフレーズを繰り返し、やにわに激しさを見せたそれが緩んだ後、曲は透明な音の響きに終わる。

 透明な……美しい、けれど。  

  

「お見事!」

 

 能天気な詩織の声に、はっとする。

 なにが調子悪いよなどと文句を言いながらも、誉め言葉を口にする詩織に。

 いや、正確な曲のイメージとはブレていた、とは言えなかった。 


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