30.七時過ぎ迄
ごく低いエンジンの音と振動が、肘をついた窓から骨を渡って拳を当てているこめかみへと伝わって来る。
「……噂話には聞いていたけれど、本当にお人形さんみたいだねえ」
後部座席から聞こえてくる、機嫌のいい叔父の声と困惑気味に謙遜の返事をする玲子の声が小さく聞こえる。
どうして俺が助手席で、あの人が後ろで玲子と一緒なんだ?
「デートの邪魔されちゃって災難でしたね、若先生」
隣で運転している透さんの小声の囁きに、黙って頷く。
デートではないものの、まったくだ。
「叔父さん、今日は大学?」
放っておいたら玲子に余計なことをぺらぺら喋り出すか、あれこれと詮索しだしかねない。
それを回避するために助手席から叔父に話しかければ、おおと唸るような声が返ってきた。
「授業はないんだが、ちょっと仕事でな」
「例の公開講座ですか」
「いや、改築していた邦楽専用ホールの工事が終わってな。その仕上げの手伝いで」
「仕上げ?」
筝奏者で研究者でもある叔父に、ホール改築の仕上げでなにを手伝うことがあるのだろう。内装の注文でもつけたのだろうか。いやまさかそこまで大学内で権限を持ってはいないはずだと考えていたら意外な声が解答を言った。
「あ、もしかして音響設計のお手伝いですか?」
「おや、玲子ちゃんよくわかったね」
「……玲子ちゃん」
「なんだ? やきもちか洋介」
「違う、いま会ったばかりでと思っただけ」
若い頃から料亭街に出入りしていた遊び好きらしく、可愛いとみればすぐ相好を崩すのが叔父の常ではあるものの、女子高生相手に馴れ馴れし過ぎないかと呆れる。
運転席から聞こえてきた忍び笑いにじっと透さんを軽く横目に睨め付ければ、ハンドルを握る彼はわざとらしい咳払いに喉を鳴らした。
「あのっ、気にならないし大丈夫」
「……だそうだ、洋介」
ならご勝手に、と。
俺は助手席のシートに沈み込む。
「……音響設計の手伝いって、工事終わったって言わなかった?」
「ああ。竣工後すぐいい音鳴らすなんて、どんな名奏者でも無理だからな」
「竣工後も調整なんて丁寧な業者さんなんですね。大抵、竣工後の音響測定を終えたら設計業者さんのお仕事は終わりじゃないかしら?」
叔父の話に興味津々でいるとわかる玲子の声と言葉に、おやと思った。
やけに詳しい……そう彼女に言おうとしたら、先を越された。
「詳しいね、玲子ちゃん」
「劇場とかホールとか、そういった建物の設計に興味があって……」
「へえ、女の子なのに珍しい……って、言ったら失礼か」
「いいえ」
ふふっと、淑やかに微笑む声は社交に慣れた令嬢のそれだった。
俺とはまた違った意味で、大人の世界が近いのだなと感じ取れる。
そういえば、いつか詩織と揉めた時も母親の代理でなにかの集まりに顔を出していると言っていた。
本條家の令嬢——はじめてその言葉が実感を伴って俺の中で響いた。
「小さい頃、祖父に色々な劇場の演奏会やお芝居とか見に連れて行ってもらって。時々、舞台裏なんかにも……」
「ああ、そういえば! 君のお祖父さんにはうちの一門も随分お世話にっ、こりゃ失礼して申し訳ない!」
「あっ、いえ……そんなっ」
慌てた玲子の声に後部座席を振り返れば、叔父が軽く頭を下げており、玲子が困ったように頭を上げてくださいと両掌を叔父に向けておろおろしている。
「知らなかった」
「知らんのか? お前の祖父さんのパトロンと言っても過言じゃないくらいお世話になってるんだぞ」
「そうなの?」
玲子を見れば、ふるふると首を横に振る。
「わたしもいま知って……お祖父様は色んな方を応援していたから。えっと、例えば桟田先生のお母様とか」
「桟田の?」
「桟田依子さんって作家知らない? あっ……」
「知らない。なに?」
「なんでもない」
かあっと、漫画であればそんな擬態語でも書き入れられそうな程、突然顔を赤くした玲子は首を小さく振る。
ああ……と、呟く声がして、いつの間にか顔を上げていた叔父が得心顔でにやにやしていた。
「叔父さん、知ってる?」
「本なら洋介、お前のが詳しいだろ」
「まあ……」
「えっと、話が逸れちゃって……舞台裏って独特の場所ですよね」
「うんうん。そうだねぇ、独特だなあの空間は」
わざとらしく頷いて同意する叔父に、なにか奇妙な連携を感じた。
「なに、二人して」
「なにってなんだ? なにをわけわからんこと言ってる洋介。それにしても建物そのものに興味をもってしまったわけか。玲子ちゃんなら舞台に上がる方でもいいくらいなのに」
「そんなの無理ですっ!」
「いや、無理じゃない。君、かなり美少女だし」
「三橋くんまで……っ」
「でも芸能って感じでもないか。そういえば、理系クラスだった。もしかして大学は工学部とか建築系?」
「……ホテルやレストランの設計とは違うから、少し迷ってるの」
「どうして?」
「お祖父様は個人で色んな方を応援していただけで、会社の文化事業はイベントや賞の協賛程度だから。飲食店舗のコンサルティングはやっているけれど、建築業自体は手掛けてはいないし……」
意外な言葉に唖然とした。
「君、会社継ぐつもりなのか?」
思わず助手席の椅子から後方へ首を突き出して玲子に尋ねれば、きょとんとした表情でううんと彼女は首を振った。
「たまたまお父さんが代表だけど世襲じゃないもの。娘だからって会社に入れるわけでもないし。でも、家業ではあるから子供の頃からなんとなくなにかお手伝いできたらいいなって」
まるで、母親の皿洗いや買い物の手伝いでもするような口ぶりだ。
実業家の娘としての深い考えがあるのだかないのだか……。
不自然な姿勢を続けている首の凝りを感じながら半ば呆けていたら、玲子の隣で袴の両膝を掴んでいた叔父が、首を後ろに伸ばしている俺に向かってずいっと身を乗り出してきた。
「聞いたか、洋介」
「危ないですよ」
「ふん、仮にもセンチュリーだぞ。危ないわけがあるか」
「車より体勢に問題あると思うけど……」
「お前のが危ない格好だろ。話をそらすな。玲子ちゃんは、流石、本條家のお嬢さんだ。お前も少しは見習え」
「見習えもなにも、叔父さんは俺に後継がせたいだけでしょう」
「どう思う? 玲子ちゃん!」
前へ頭を戻しながらの俺の返答に渋面を見せて引っ込んだと思えば、すぐ隣の玲子に訴え出した叔父に俺は額を押さえた。突然同意を求められて玲子が驚いている気配がする。
「叔父さん……」
「いつもこんな調子で洋介は父親の私を困らせるんだ。玲子ちゃんみたく何か考えがあるならまだしも……」
「叔父さんっ、母さんや茜と違うんだ! 玲子にまで泣きつくのは止めてくれ」
「お前の彼女なんだろ? 将来、お嫁さんになるかもしれないじゃないか」
「そんなっ、お嫁さんとかっ絶対ないです!」
「なに!? そんないい加減な付き合いをしてるのか洋介は!」
「あっ、いえっ、違います。三橋くんは……えっと、ただ……」
説明しかけるが、出来る訳がない。
そもそも付き合っているにしてもこれまでお試しめいた感じであったし、それに。
――言わないで!
俺がちゃんと玲子のことを好きになったら……そう言っていたのは、本当に俺が玲子に気持ちを向けることはあり得ないことだと思っていたのかもしれないなどと、考えてしまうような川辺での玲子だった。
「説明しなくていいよ。この人は半ばふざけて言ってるだけだから」
「ふざけてないぞ」
その言い方がもう、十分、ふざけている。
まだ玲子に絡み続けそうな気配にどうしようかと考えあぐねていたら、いいタイミングで透さんが助け舟を出してくれた。
「えー、お取り込み中のところ失礼致します。本條家に到着しました」
フロントガラスの外を見れば見慣れた道で、いつの間にか本條家の垣根の側に停車していた。
「お、もう着いたか」
あっさり玲子から彼女の家へと関心を移した調子で叔父が呟く。
「どうも失礼いたしました。師匠に代わってお詫び致します」
「いいえ、そんな」
「透……お前は座敷でも飲み屋でも、いつも本当にいいとこを持っていって弟子の風上にもおけん」
「悔しければ紳士的に振る舞えばいいでしょう。それに若先生が本気で機嫌悪くしそうなので親子喧嘩を仕掛けるのもほどほどになさってください。若先生、すみませんが……」
透さんに促されて気がつき、車を下りて後ろへ回って玲子の側のドアを開けてやる。
「あ、ありがとう。三橋くん」
「いや、叔父が……ごめん」
ううんと首を振って、なにがおかしいのかくすくすと軽く笑って、玲子は降りたばかりの後部座席を振り返って、叔父に丁寧にお辞儀した。
「送っていただいて、ありがとうございます」
「いやあ、全然。ああそうだ、これっ」
ごそっと音を立てて、玲子がいた反対側に置いた鞄から叔父は一枚の細い紙を取り出し彼女に差し出した。
「洋介からもらってるかもしれんが、一門の定演会のチケット。よかったらお友達とでもいらっしゃい」
渡しているどころか、そんな話すらもしていない。
ぱちぱちと大きく瞬きをして、玲子は黙って叔父の手からチケットを受け取ると再びお礼を言った。
何故かいつまでも叔父の方を向いたまま、車の側を離れようとしない玲子に不審がって叔父が尋ねる。
「ん、どうしたの?」
「あの……三橋くんは心配ないと思います」
律儀な玲子の、俺へのフォローにじろりと叔父が上目に俺を見る。
俺はおそらく仏頂面をしていたに違いない。
家族ならともかく……他人にまでああいったことを言わないでほしい。とりあえず不満の表明にこのまま車に乗らずに歩いて帰り、自宅に戻ってからその理由をまとめて言おう。そんなことを考えながら開いた後部座席のドアを支えていたら、車の中から妙に神妙なトーンで叔父の声が聞こえた。
「そうかね?」
「三橋くんのこと、そんなに知らないけれど。たぶん」
ふと、後部座席の奥へと目をやれば。
玲子の言葉に、腕を組んで俯き苦笑する叔父の姿が見えた。
もう一度ぺこりと頭を下げて、玲子がようやく車から離れる。
「正直なお嬢さんだ……洋介、どうせ文句考えながら歩いて帰るんだろ?」
「まあね」
「じゃあ、さっさとドア締めろ。おい、行くぞ」
「かしこまりました」
ドアを閉めたと同時に、滑るように黒塗りの車が走り出す。
道の角を曲がって見えなくなるまでぼんやりと眺め、まだ隣にいる玲子へと目を向ける。
「本当ごめん。ああいう人で……」
「ううん、楽しかった。定演会って三橋くんも出るの?」
「まあ……恒例っていうか惰性で仕方なく」
袖を軽く引かれて、玲子の方を向いて彼女を見下ろせば、チケットを手に不安げな表情の玲子が俺を見詰めていた。
「行っても、いいの?」
「構わないよ」
「よかった」
ほっと息を吐いてチケットを持つ手で胸を撫で下ろし、玲子は彼女の家の門に向かって歩き出した。
「そう言えば、絶対……ないんだ」
その後ろ姿を見送りながら、ふと思い出した言葉を呟いた。
「え?」
振り返った玲子に、俺も叔父のことは言えないなと思いながらふざけてみる。
「お嫁さん」
「……」
斜向きで黙って表情を固くした玲子に、すぐふざけたことを後悔する。
叔父が言うのと、俺が言うのとでは違うだろう。
「ごめん、冗談が過ぎた……」
「そんなに謝ってばかりな三橋くんって珍しいね」
口調は冗談めかしていたが、表情が違っていた。
怒ってはいないようだが、じっと俺を真っ直ぐに見詰めている。
感情が今ひとつ読み取れない、けれど綺麗な玲子の顔だった。
「例えばね……一生、本が読めなくなってもそんなこと考えられる?」
「なるかな、噂が本当なら君の呪い終わるらしいし」
確かに、触れた……頭の中で川辺でのそのことを反芻しながら、俺を射抜くように見ている玲子の眼差しから少しばかり目をそらす。
「三橋くんは……もう私を好きじゃない、わけではないの?」
「そういった質問は初めて受けるな」
夕闇は夜の闇になりかけていた。
ふと、七時だという玲子の家の門限が気になって腕時計を見る。
しかしどうだろう、なんとなくじっと俺を見詰めたままでいる玲子の視線から逃げるためのような気もした。
「……七時過ぎる。わからないけれど、玲子が家に帰る前に捕まえないといけない気がした」
ただ、聞かれたことにはきちんと答えないといけないだろうと、微妙に言葉が本心とずれていくもどかしさを感じながら玲子の質問の答えになっているのかかなり怪しく思える返答をする。
玲子はやはりじっと静かに俺の言葉を聞いて、そう……と、呟いた。
「……じゃあまたね、三橋くん」
「うん」
長い黒髪が揺れる後ろ姿が遠ざかり。
鉄製の門を押し開く軋む音をさせて、玲子は彼女の家の中へと入っていった。




