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28.午後五時から六時までの少年

「女の子にフラれてぼろぼろになったからって、それでウチに来られてもねぇ。まだ開店前なんですけどねぇ。お客さん」


 ゴトン、と。

 半ばおどけた嫌味と共に木目も美しいカウンター上で無骨な音がした。

 突っ伏していた目線だけを音のした方へ向ければ、紙製のコースターに無骨なグラスが乗せられていた。

 気泡が入った透明な手吹硝子のグラスに入った水は、まるでソーダ水のように見える。


「……フラれてない。仮にそうだとして、それでぼろぼろなわけじゃない」


 時間がたって、打ち付けた後頭部と額にじんじんと鈍いような熱いような痛みが出てきた。

 顔を(しか)めて、店の人間、もとい三田村の言葉を否定する。

 第二図書室を出て、町をあちらこちらを回ってこの店に辿り着くまで走り通しだった。

 もう初夏といっていい季節に学ランの制服は暑く、腰掛けたスツールの隣に上着を脱ぐ。下に着ていたシャツに汗が滲み、埃っぽい風に嬲られて髪はぼさぼさに乱れている。額にも滲んだ汗に幾筋かへばりついた髪の感触が鬱陶しかったが振り払って手櫛で整える気力もない。

 病み上がりで体力が落ちているところで走ったためか、座った途端に急な疲労感に襲われて全身が重怠かった。


「青春じゃないか、三橋」

「三田村……」


 息切れして荒くなっていた呼吸がようやく整い、区切りをつけるように一つ深呼吸をする。


「桟田みたいなことを言うな」


 クッション代わりに組んだ腕に伏せていた顔を半分だけ上げて、カウンターの向こうで涼しい顔をして、夏向けに新しく仕入れたらしいグラスを拭く悪友を見上げる。

 バーテンダーの黒服姿の三田村はどう見ても学生には見えない。ドイツ系アメリカ人の血を引くという黄色が優った茶髪に、目も顔の輪郭も三角で、おまけにぎすぎすと痩せた、けれど妙に骨格だけはしっかりした180cmの長駆。

 隠語で注文すれば怪しげな薬でも出してくれそうな、危いいかがわしさすらある。

 三田村が実に真面目で品行方正、文武両道の優等生と知っていても、そう思える。

 三叉路に建つビルの半地下にあるこの店だって、一流証券会社の凄腕ディーラーだった三田村の父親が脱サラして半ば趣味でやっている店だ。彼はバイト代という名の小遣いをもらって、ただ父親を手伝っているだけである。


「でっ? 玲子ちゃんに修羅場を目撃された上に逃げられ追いつけなかった、と」

「追いつかなかったんじゃない……家に帰ってなかった」

「なんでわかんだよ」

「……窓」


 出されたグラスに手を伸ばし、指先にひんやりとした冷たさを感じながら、玲子の家、あの洋館の姿を思い浮かべる。

 玲子を送り届けた後、少し歩いてなんとなしに“本條家の洋館”と呼ばれている彼女の家を振り返ったことが幾度かある。毎回、特定の部屋の閉じていた窓が開くのを見た。

 丸く何角形かに張り出したサンルームのすぐ上の部屋。おそらく玲子の部屋に違いない。

 玲子を追って走り、彼女の家に辿り着くまで彼女の姿を見ることはなかった。けれどいつも彼女が帰宅すれば開く窓は閉じたままだった。


「とにかくまだ帰っていない」

「……よくわかんないけど、どっか行っちゃったわけか」


 そう言って。

 それ以上の詮索をしてこないところは、三田村の育ちの良さとこの店の手伝いで身につけた洗練だと思う。


「佐竹とたまに寄り道してるらしい本屋とカフェも覗いたけど……もしかすると途中で行き違ったのかもしれない……」

「で、県道出たついでに脇道入ってオレのとこに来たわけ?」

「どうして第二図書室まで俺を訪ねてきたのかと思って。用件があるとか言ってなかったか?」

「別になにも。廊下でたまたま声かけられて“三橋くんってもう帰っちゃったかしら?”って聞かれたから、たぶん第二図書室の書庫にいるんじゃないかって答えただけだよ」

「そうか」

「すまん、オレもちょっと迂闊だった。切れたとはいえあの副委員長のとこだって気が回ってなかった。けどさ……」


 グラスを拭きながら、両肩の幅を縮めるように寄せて三田村が苦笑する。


「ドア、慌てて閉めて走り去るならともかく……ご丁寧に鍵まで閉め直しちゃう?」

「林田が来なかったら、下手したらいまも書庫の中だ」

「しっかし、あの副委員長も気が強いっていうか、健気っていうか」

「三田村」


 軽くたしなめた俺の言葉に、三田村は背を見せて拭き上げたグラスをキャビネットへ静かに戻した。

 そうして再び俺の方を向いた三田村は、すっと居合いの演技を見せるような凪いだ様子で、それまで半ば面白がるように俺の話を聞いていた軽薄な調子で引っ込め俺を見据えた。


「副委員長も含め、全部、お前の自業自得だ。三橋」

「……わかってる」


 三田村も、いわば玲子と同類だ。

 本当に怒った時は逆上せず、却って冷静になる。

 彼の場合、長年武道を嗜んでいるためだろうか。

 ピンと張った筝の弦を最初に弾きだす手前に感じる、すっと世界が一直線の水平に静止するような緊張を相手に与えた。

 こういったことは年に一度あるかないかだ。

 普段の軽薄さとやくざな見かけによらず真性のフェミニストだから、佐竹を俺が追い詰めたこと、書庫の出来事を話さないことには事情がわからないとはいえ、俺の口から聞いたことの両方に憤りを感じたのだろう。


「わかっているなら、いいけど……で、どうすんの?」


 もう一言二言あるかと思えば、あっさりとまたいつもの調子に戻った三田村に、なんとなくこいつが友人で有り難いような気がした。俺のことを理解できないというが、だからといって三田村は自分の価値観の枠だけで他人を裁いたり切って捨てたりはしない。

 おそらくは幼少期に、多様な国から生徒が集まる外国の寄宿学校で生活したため身についた彼の特性なのだろう。


「とりあえず、七時前にまた玲子の家を訪ねようかと思って」 

「なんで七時前?」

「玲子の家の夕食の時間だ。それが彼女の門限らしい」

「あーじゃあ、あと一時間半ってとこか……」

「色々あって腹も空いたが、鞄ごと第二図書室に忘れて財布が無い」

「三橋……お前の状況は飯食ってる場合じゃないと思うの、オレは!」

「一時間半の時間が宙に浮いてて、それはなにをしてても変わらない」

「鞄忘れるほど慌てたくせに。暢気に飯食いたいとかいうその神経がわかんねーつーか。こう……玲子ちゃんに悪いなあとか思わないわけ!?」

「思わない。そういうことで左右されるものなのか? 例えば空腹を我慢してたら玲子が目の前にやって来るというなら話は別だけれど」


 しばらく渋面で三田村は俺を睨んでいたが、「ったく、しゃーねーなあ」とかなんとか諦めたようにぼやいて、窮屈そうに身を屈めるとカウンターの下に備え付けられているらしい小型冷蔵庫の扉を開けて中を物色し始めた。


「請求書、俺名義で後でくれ」

「そういう勤め人みたいなのやめろって」

おじさん(マスター)は?」

「ん? ああ、なんか用事あるってちょっと出掛けてる。脱サラする前に会社で世話になったって人が近くにきてて呼ばれたとかなんとか言って。ったく、仕込みも途中で。オレ試験前だっていうのっ!」


 どうやら父親の後を引き継いで、仕込んだばかりものの具合を確認しているらしい。

 カウンターの下に痩せぎすな長身を沈ませたまま、くぐもった声で俺や彼の父親へ向けて文句をぶつぶつとぼやく声だけが聞こえてくる。

 バタンと音がして、三田村が再びにょっきりと伸びるように姿を現した。

 牛肉らしいラップに包まれた赤茶けた塊を手にして、俺をまじまじと見下ろすと深い溜め息を一つ落とす。


「なに?」

「……オレ、お前には超絶甘いよなぁ。絶対」


 本当、部員だったら泣いて土下座してもしばき倒してるとこなんだけど……といった三田村の呟きに、それは勘弁して欲しいと思った。三田村は道場破りめいた所業で一年生で剣道部主将に収まった男だ。


「佐々木むつみには?」

「むっちゃんは別格! 和牛のカルパッチョ、ルッコラとパルメザン。レモン風味。血の気ひいてるからとりあえず血肉になるもの食っとけ」

「チーズは薄く削ってあるといいな」

「だあああ!! 文無しのくせに偉そうに注文つけんなっ!」 

「どっちにしたって塊から削るんだろ?」

「あのね、三橋君。手間というものが違うのだよ手間というものが……ガリガリっとやるのとある程度均一に鰹節みたいに削るのとでは」


 言いながら手を動かしているらしい。

 開店当初から、常連客以外のほとんどの客に店主(マスター)だと思われているらしいが、本当にいつでも父親にとって替わりやっていけそうだ。


「適当でいいよ」

「オレの性格上気になるのっ。大体、まだ薬飲んでる病み上がりは家に帰れっての! 倒れる直前までは平気そうにしてるっつーか、自分で自分の状態がわからない鈍感迷惑人間なんだから、お前は」

「酷い言いようだ」

「中一の帰り道。いきなり気を失って土手から転げ落ちたお前がトラウマなの、オレはっ! 半笑いでゴロゴロゴロってホラー映画の“悪魔憑き”みたいな動きで……マジ怖ええ!!」


 乱暴な物言いの割に皿だけは静かに置くところが、実に三田村らしい。


「それ食って休んで、歩いて玲子ちゃんの家に行け」


 おそらく、仕込み途中のものがあるのだろう。

 やっぱ、絶対お前に甘いわオレ……納得いかねぇ……と、ブツブツ言いながら三田村は厨房へと姿を消した。

 開店時間は十八時だったか。あと三十分を切っている。

 仕込みも途中の店を父親に任されて、俺が転がり込むまではたぶん大忙しだったのに違いない。

 俺は突っ伏していた上体をそろりと起し、三田村が出してくれた薄く切った牛肉が数枚緑の葉に囲まれて盛りつけられた皿に手をつける。

 風邪の名残だろう、半生の肉の味がいまひとつ感じられず、レモンの酸味がやたら美味く思える。そういえば、肉を食ったのが久しぶりだ。

 体調が悪くなると途端に食が細くなる。食欲があっても一口なにか食べるとすぐ腹一杯に感じて、それ以上は箸が進まない。

 そうか。どうりでなんとなく頭がくらくらすると思ったら。

 床に後頭部を軽く打ったからじゃなかったのか。

 胸の内で呟きながら黙々と肉を噛んでは飲み下し、最後の一枚を箸に引っ掛けたところでふと思いついた。


「総合病院——」


 いや、あれが玲子だった確証はない。

 しかもそんな三日と空けず、見舞いになど行くものだろうか。

 薔薇色に血が滲み、断面がライトの加減で緑がかった玉虫色に輝いている肉を皿から少し持ち上げ、まるで一門の定演会のパンフレットに使う雲母(きら)引きの和紙のようだと思いながら逡巡し、意を決して肉を口の中に押し込むと飲み込むより早くスツールから下りて、店の奥へと声を張り上げた。


「三田村! ご馳走様!」

「へっ!? ちょっ……おいっ、三橋っ? おいっ!」


 俺の声に驚いた三田村の遠い声が近づき鮮明になった時には、ドアのカウベルの音を背に店の外へと出ていた。

 俺の中学の学区内に立つ病院へと早足で向かう。

 走りたかったが、俺の母親かと言いたくなるほどうるさい時の三田村の言葉は大人しく従った方が身のためだ。

 玲子と会った途端に倒れてしまったら話にならない。

 歓楽街を抜け、県道に出て、学校前の道を西に。

 三田村にとってはトラウマの出来事が起こった、かつて通学路でもある病院へ続く川沿いの道へと向かう。

 こんなに遠かっただろうか病院は……焦れた気分で腕時計を見れば十七時五十分を過ぎたところだった。

 まだ道は明るく、いつの間にか随分と日が長くなっている。

 何故こんなに気が急いているのだろう。

 とにかく玲子がたぶん誤解しただろう状況とは違っていると伝えたかった。それに玲子が何故俺が好きなのかを尋ねたくもあり、また言葉に形容しがたいようななにかの衝動があった。

 前のめりに足下を見詰めて黙々と急ぎ足で歩いていたら、「きゃっ」と小さく驚いたような声が耳を打って、続いて柔らかい壁にぶつかった衝撃にバランスを崩しドスンと道路に尻餅をつく。

 ざりざりと自分とは違う靴の踵がアスファルトを滑る音がした。

 今日はよく後ろに倒れ込む日だと思いながら頭を軽く振り、正面に投げ出された細い足首を認める。

 どうやら女の子とぶつかり向こうも同じように尻餅をついたらしい。


「ああ、ごめんっ……! 前をちゃんと見てなくて。君、大丈……」


 ……夫、という。

 語尾まで言い終える前に、起き上がりながら相手を見て驚いた。

 俯き加減のつやつやと光の輪を見せる黒髪の小さな頭、尖った顎先、華奢な手足を包む紺色のセーラー服。


「え、ええ。あのっ、大丈夫です。こちらこそごめんなさい。考えごとをしながら……あれ、三橋……くん?」


 きょとんと俺を見上げたその人形のように整った顔は、紛れもなく玲子であった。

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