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26.或る少女の告白

 パーティションに仕切られた書庫は背の高いスチール棚が規則正しく並んでいる。

 奥の壁際に、合板の組み立て式のパソコンデスクを置いた、第一図書室とは比べようもない殺風景な部屋だ。

 けれど並べられた本が放つ、紙と黴っぽい臭いは共通しており、ここもまた閉じられた空間ではあった。

 もっとも、本校舎にあるから生徒の声は外からも内からも微かにだが聞こえてはくる。

 まだ試験前だから、一時間繰り上がった午後四時の下校時刻まで、グループで教室に残って試験範囲のわからない箇所を教えあったりなどと校内に残っている生徒は多い。

 

 読みかけて中断されたままでいる横光利一は、第二図書室の書庫にもある。

 ただし、こちらは箱入りで活版印刷の近代文学全集の復刻本ではなく、80年代に出ている全集の二巻……ふと目に入ったその全集はあえて避け、別の段に並ぶ本の背表紙を指で辿っていたのを止めて一冊取り出す。

 パソコンデスクの、それだけやけに有機的なラインを見せる人間工学に基づいて製造されたという椅子に深く身を預け、俺は組んだ脚に選び取った本の背表紙を据えてぱらりと頁を開いて読み始めた。

 


 “……私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくしてやれと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭うたれたいとまで思った事もあります。こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります……”

  


 読んでいるうちにうとうととしてきて、瞬きを何度となく繰り返す。

 熱を出していたので飽きるほど眠っているはずだった。

 昨晩も久しぶりに筝を弾いたというのに、まだどこか倦怠感が奥底に残るのを体に感じて早々に切り上げて休んだ。そんな状態でむきになって弾いても意味がない。

 今週に限って、平均睡眠時間は10時間を超えるのじゃないだろうか。

 それなのに何故だろうと考えて、昼休みに飲み忘れた薬を時間をずらして飲んだせいかと考え至った。

 腑に落ちれば、妙な安心感からますます眠気が増す。

 第一図書室にはない、帰宅していく生徒達の不明瞭な遠い喧噪の声が微睡(まどろ)みを誘う。

 とろとろと夢うつつを彷徨う意識の中で、カチャッと書庫のドアが開く音が聞こえた気がした。

 佐竹だろうか……けれどまだ下校時刻には少し早い。

 桟田かもしれない。

 だとしたらこんな場所で本を読み耽ったあげく、うたた寝しているところを見られたら厄介だ。

 きっと面倒な苦言を聞かされるに違いない……けれど、もう瞼をきちんと開けられない。


 ——寝てるの? 委員長……。


 細く途切れがちになる視界に、華奢な手がパソコンデスクに放り出した鍵に向かって伸び、そこで俺の意識は途絶えた。

 

 はっと、目を覚ませば目の前に佐竹が無表情に立っていた。

 きっと下校時刻を過ぎていて、何度か俺を起こそうとして起きなかったのだ。

 過去に似たようなことがあったから、ごめんととりあえず詫びれば「なにが?」と淡々とした問いかけが返ってきた。


「下校時刻……過ぎてるんだろ?」


 頭を軽く振って、やや椅子からずり落ちかけていた身を起こして座り直す。

 膝の上から本がなくなっているのに気がついて、床に落ちたかと下を向いて探ろうとした俺に、こっちと声が降ってくる。

 顔を上げれば、真っ直ぐに立っている佐竹の手に探そうとした本があった。


「心無い委員長が、漱石の“こころ”? ヘンなの」


 そう俺をからかって、指を栞にしていたらしく、たぶん俺が読んでいた頁を開きパソコンデスクの隅に腰掛ける。


「まだよ。たぶんほんの十数分くらいだから委員長寝てたの」

「十数分って……何度か来たのか? 図書室は?」

「閉めちゃった。ま、出入口のドアに閉館札かけただけだけど。誰もいないもの、別に五分十分早く閉めたところで問題なしっ」


 ぱたんと漱石の全集を両手で挟むように閉じて、佐竹はデスクから飛び降りると、立ち並ぶスチール棚へと足を進めた。


「日本文学の棚ってどれだっけ?」


 スチール棚の向こう側に回り込んだ佐竹の声と足音に、俺は椅子から立ち上がった。


「それ、全集だから。普通の本とは別の棚……入り口から三番目の上から二段目。全集あるだろ左から八冊目の次……」

「ほんっと、たまにしか来ないくせに、棚の位置とかよく覚えてるんだから。ちなみに何年度発刊版ですか?」

「2002年の12月……だったかな」


 中途半端にうたた寝したので軽く頭痛がした。

 目頭を指で摘むように押さえながら嫌み半分に質問してきた佐竹に真面目に答えれば、ぺらぺらと紙をめくる音がした。


「あたり。本当に一度読んだ本の情報覚えてるのね。端末いらず」

「読んだ本しかしらないよ」


 佐竹の背後に辿り着き、後ろから本を奪い取ってやや高い位置に隙間をあけた棚へと本を戻した。


「その高さなら届く」

「抜き取ったの、俺だから」

「変なところで潔癖よね」

「大袈裟だな……帰るんだろ?」


 俺の問いかけに佐竹は答えなかった。

 その様子に少しだけ違和感を覚えながらも気に留めず、佐竹から離れて書庫の出入口へと先に立つ。

 その俺の背に佐竹が声がかかった。


「ねえ、委員長。覚えてる?」

「何が?」


 ドアノブに手をかけて唐突な問いかけの意味を問い返す。

 佐竹はまだ全集の本棚のところにいた。


「付き合っていた頃、ここでキスしたの」


 ノブを回そうとしたのを止めて、振り返った。


「……覚えてるけど、それが何?」

「なにも。その時、居眠りしたまま起きない委員長閉じ込めて帰ろうかって言ったのも……覚えてる?」


 覚えてるよと答えながらドアノブを回せば、ガタっと音がしただけでノブは回らなかった。


「一晩くらい構わないって、委員長そう言ったわ」


 コツと靴音がして、本棚の影から佐竹が姿を現す。

 紺色のセーラー服の、それだけが明るい襟に入ったラインと同色の淡いクリーム色のスカーフを握って下に引っ張る。

 シュルリと音がして外れたスカーフを床に落として、一歩ずつ佐竹は俺を見据えて近づいてくる。

 張り詰めた表情の佐竹に、彼女の仕業で書庫に閉じ込められたことは理解したが、その行動の意味がわからない。


「何かあった? 鍵は?」

「いまあたし一組の林田くんに数学教えてもらってるの。向こうが勝手に教えてくるんだけど。鍵はドアに刺さってる、もちろん外側に」

「数学一位の林田なら、どんな塾や家庭教師よりいいんじゃないかな」


 佐竹に向き直って、後ろ手でもう一度ドアノブを軽く振動させて見たが無駄だった。

 半ば鍵を回した状態で内側から閉めたのか……推理小説なんかでよくある密室の作り方だ。ドアを閉める振動で鍵がかかる。けれどトリックとしては不完全。普通はそこから鍵をなんらかの方法で室内に入れる。


「密室トリックって、室内に鍵いれなきゃ意味がないと思うんだけどな」

「だって、室内に鍵があったら閉じ込められないじゃない。委員長ならきっと窓の下を通りかかった人に鍵を落として開けてくれって頼むでしょう?」

「たしかに」

「林田くん、何度断ってもひきさがらないの」

「佐竹……。君が、見かけの真面目さより大胆で刹那的な人間なのは知っているが、こういう手段はよくないと思う」

「そうね、委員長はあたしのことよくわかってる。あたしのこと好きでもないのに……」


 言いながら両腕を後ろに回し、ごそごそと手を動かして佐竹が頭を振る。

 ひっつめていた髪が、ゆるい結い癖のウェーブをつけて肩に落ちた。


「ううん、好きじゃないからかな? さすがにこういう女の子だって知ったら林田くんも離れてくれると思う?」

「……迷惑だ」

「いいじゃない。委員長のスキャンダルなんて、いまに始まったことじゃないでしょ?」

「玲子と付き合ってる」

「本條さんなら、訳を話せばわかってくれるわよ」


 スカーフは床に落としたのに、抜き取ったヘアピンをスカートのポケットに入れるところが、実に佐竹らしいと思った。後で直す時の面倒を考えているのだろう。

 どこまで脱ぐ気でいるのかしらないけれど。


「さっき、誉めてくれたけど……あたしあの日、本條さんを高みから見下ろして哀れんだの。だって」


 俺は溜め息を吐いた。

 佐竹が玲子を哀れんだなど、どうでもいいことだ。

 実際の行動として佐竹は玲子を助けたし、玲子と玲子に悪意を持っていた女子達双方の過ちを諌めたのは紛れもない事実なのだから。


「だって、あの日は委員長と……三橋洋介と付き合い始めた日だったもの」 

「俺は君が言う通りに心無いから、佐竹の行動の結果を重視する。それに、こういった極端な手段で離れてくのは林田だけじゃないと思うから得策じゃないと忠告する」

「建前よ、林田くんは」

「……わかってる。けど、君は女の子だから」


 ぴたりと佐竹は歩みを止めて俯いた。

 俺はドアに背を預けて、天井を仰いで前髪をくしゃりと掴む。

 詩織といい佐竹といい、どうしてこう女の子というのは極端な行動をしがちなんだろう。

 まあ、ひとまず思い留まってくれたのならいいが……と考えた俺が甘かった。


「委員長っていっつもそうっ!」


 スチール棚から本が零れ落ちるんじゃないかと思った。

 空気を振動させるような大声を上げた佐竹の叫びと、後に続いた嗚咽を噛み殺そうとする声に驚く。

 癇癪を起こしても、佐竹が俺の前で泣いたことはなかった。

 彼女から別れを告げたその時も、まるで委員会で割れた意見をさばく時のように冷静だった。


「佐竹……?」

「いつもそうやって落ち着き払って、あたしを扱うの。でもこれ聞いたら、絶対、委員長だって……あたし知ってた……」

「なにを?」

「本條さん。あたしと委員長が付き合う前から、第一図書室にいる委員長のこと時々見てた」


 佐竹の言う通り、彼女の行動に驚きはしても平静ではいた心持ちが微かにざわついた。

 

 “三橋君のことは自分で見つけたの” 


 脳裏に玲子の言葉が浮かぶ。

 同時に、俯いたまま肩を小刻みに震わせる佐竹への言葉が口をついて出ていた。


「いつからか、知ってる?」


 委員長って本当馬鹿ッ!

 はっきり涙声で俺を詰り、ぺたりと佐竹は床に崩れるように座り込んで両手を床について身を屈めた。

 近づこうとすると来ないでっと拒絶される。

 昂奮しきっている女性になにを言っても無駄なのは経験上、身に染みて知っている。

 俺はまたドアにもたれかかって、しばらく佐竹を放置することにした。

 付き合っていたなら、なにか慰めるような言葉をかけたかもしれない。

 けれど、いま佐竹は俺の恋人じゃない。

 たぶん俺の知らない所で、佐竹にも色々とあったのだろう……玲子とはまた違った意味で、佐竹もまた身に起こることを受けて止め続けてしまう少女だ。


 一年の時は委員会の仕事でなにかと骨を折って悩んでいたことも、その度に俺に文句を言うことで紛らわせていたことも知っている。実質の委員長は佐竹だ。

 入学したてで他の委員会と比べても大きな予算を采配する権限と、学園の中でも重要視されている施設を管理する責任を俺の代わりに文句を言わずに背負っていた。

 佐竹は、まだ俺のことを好きなのかもしれない……薄々感じてはいたけれど、佐竹のことだ一度駄目だと思ったことはやがて自分で決着をつけて、いずれ他に好きな人が出来れば忘れるだろうとたかをくくっていた。

 いや、それくらい俺は佐竹を信頼していた。


 エスカレートさせる罪。

 だったら、いまの佐竹は多少迷惑だが嫌悪する理由はない。


 前の委員会の後に桟田が「引導を渡せ」と言っていたのは、きっと佐竹が何らかの形でこうなることを見越していたのだろう。いい加減なようで桟田ほど、よく生徒を見ている教師を俺は知らない。

 しゃくり上げる声がして、ごしごしと両手で目元を擦り佐竹が顔を上げた。


「いつからかは知らないけど……教育実習の先生と委員長が付き合ってた頃にはもう見てたと思う。裏庭から窓越しに花壇と植え込みの世話をしながら。園芸部でもないのにって聞いたら、家でも花壇の手入れしてるからって言ってたけど」

「その言葉通りなんじゃないかな?」


 佐竹が拳を振り上げて空を切ったのに俺は苦笑した。

 たぶんきっともう佐竹は落ち着いている。

 はあ、と泣いた後の放心の溜め息を吐いて、佐竹は猫や乳児が一点を見つめるような様子で俺を見詰める。


「佐竹……君、自分で思ってるほど刹那的じゃないと思う」

「本條さんは?」

「玲子のことはわからない」

「委員長」


 腕を伸ばした佐竹に、望まれるまま立ち上がるのを手助けしようか俺は躊躇った。


「お願い……もう、頼らないから」


 縋るように言われて、ドアから離れて佐竹に近づく。

 好きになりかけていたのかもしれない。

 少なくとも、家の者と三田村以外で俺の部屋と稽古場に足を踏み入れたのは、付き合った中で玲子も含めても佐竹だけだ。


「こういうのじゃなきゃ、別にいいけど」 


 俺より一回り小さい開いた掌を取って、引き上げればふわりと柔らかな髪が揺れて俺の胸に収まった。


「……佐竹」

「ちょっとだけ」


 仕方がないと俺が息を吐き、寄りかかる佐竹が「そういえば鍵どうしよう」と呟いた時だった。

 本式の壁ではないパーティションの向こうで、微かな足音が聞こえた。

 ゆったりしたワルツのように、正しく三拍子を取ってこちらに近づいてくる……足音。


「えっ?」


 あの……と、遠慮がちな可憐な声と共にガチャリと外側で鍵を回す音がしたのと、佐竹が俺の腕を支えに掴んで顔を上げたのはほぼ同時だった。


「——三橋くん?」


 書庫のドアが開かれ、さらりと艶を放つ長い黒髪と紺色のスカートの襞が視界の端に映った。


「本條、さ……ん……」


 俺の腕を掴んだまま、俺の胸元で佐竹が呆然と呟いた。


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