22.風邪と月光と二つの謎と
月がとても明るい。
月光差す稽古場に一人、さっきまで弾いていた筝を片付けてぼんやりと硝子戸の外を眺める。上空で強い風が吹いているのか、速いスピードで流れていく雲が時折月を僅かな間隠しては稽古場に影を落としていく。
まるでサーチライトの光が行き来しているようにゆったりとした感覚で点滅を繰り返す月の光に誘い出されるように、俺は裸足でぺたぺたと稽古場の床を進んで硝子戸を静かに開けると縁廊下へと出た。
「やっぱり、まだ夜は冷えるな……」
外に出た途端、寝間着の襟を撫でていった緩い風にぶるりと背を一度縮ませて両腕を組んだ。裏庭の桜木の花はすっかり散って、その隙間を後から出てきた葉がすっかり埋めている。
いま、何時くらいだろう?
稽古場に入ったのが、寝支度を済ませた十時頃。
繁華街奥の料亭が完全に店じまいをするのは十一時~零時の間だから、叔父が乱入してきたのはおそらくそれ位の時間だろう。そこからさらに小一時間ばかり。
「一時回ったくらいかな?」
やはり三時間程が集中して弾ける限界だな……と思いながら、縁に腰かけ足を外に投げ出して背中を床につけ、組んだ両腕を枕に寝転がった。
目を閉じる。
夜が明け、家の者が起きて活動を始め、そうして聞こえ出す朝稽古の音を耳にするまで。
束の間の、音の凪。
何故かはわからない。
あの、弦を弾く音を聞けば気にかかってしまう。
どんな音にも共通して。
なにか、光のような綺麗な響きに繋がるものがある。
細い蜘蛛の糸のようなそれをたぐって、つかまえたくなる。
「芥川でもあるまいし」
くたくたになるまで弾くなかで、つかんだとたしかに思う。
けれど夜が明けて弦の音を聞けば、それは錯覚だったと気がつくのだ。
日中、日常生活を送る中でいつも頭の片隅で考える、今夜もきっと。
俺は音を追いかけて、つかまえて、取り逃がすのだろう……と。
あえて筝を目に触れない場所にしまいこみ、夜通し本を読んでやり過ごそうとしたこともある。
表現のなかでなにかを掴み取ろうと書かれた、物語の世界に没頭している間は音のことを忘れられる。
そして俺は三夜不眠の夜を過ごして、倒れた。
中学生の頃の話だ。
見舞いに来た三田村に問いつめられて、そのことを話したら馬鹿じゃないのかと頭を軽く拳で殴られた。高熱を出している人間に対して酷い奴だ。
結局のところ自分が追うものと同じ様なものを、他人が追った軌跡を辿ることですり替えていただけなのだろう。
それでも、油断すれば音の世界だけになりそうな神経を逸らせるのには役に立つ。
女性に触れるようになって、自分と違う体温と持ち得ない柔らかさに深い疲労を沈める行為に、近い感覚を得ることがあるのは不思議だった。
あれが恍惚と呼ばれているものなのであれば、俺は音の中に潜む恍惚の響きをつかもうとしているのだろうか……よくわからない。
煌々と光る月を閉じたまぶたに感じながら、頭の下から片腕を出して手の平を額にあてた。
『三橋くんに詰まってる音、こっちに移せたらいいのにね』
「……玲子」
額から手の平を外して、寝間着の帯を巻いた隙間に挟んできたものを取り出し、目を開けてかざす。三角に二折りになっていた、開けば正方形の白い紙切れ。
昨日、いやもう一昨日か……第一図書室で見つけた。
正確には返却本の中から。
四日ぶりに登校した金曜の昼休み。
早すぎないかと、棚に戻す本を手に俺は考えていた。
表紙が退色した久生十蘭は俺の代わりに返却を受けてくれた、第二図書室から回ってきたものだった。先週、玲子が第一図書室で借りた本。
「……やっぱり早過ぎる」
久しぶりの学校、昼休みにも関わらず人のいない図書室で本棚を前にぽつりと呟く。
――8月10日迄だ。
桟田はそう言った、だがあらためて冷静に考えてみれば本校舎の完成予定は来年の夏だ。たしかに旧校舎を潰して更地にはするけれど。
新しい校舎は本校舎の南側と連結したL字型の建物になる予定で、建物の大半は先に潰した講堂の跡地に立つ予定だった。
旧校舎を潰した後の跡地は芝生と常緑樹で緑化され、旧校舎が校舎として現役だった頃と比べて施設とグラウンドが増えた分削られていた憩いの場となる予定だった。
第一、基礎工事はまだL字の一辺しかできていない。旧校舎を潰すのはまだ先であったし、かつてこの学園に通った卒業生団体による旧校舎温存運動も終結してはいないはずだ。
旧校舎の一部を記念館として残すという運動でそこには第一図書室も含まれている。
この学園のOBで第一図書室に思い入れがある様子な割に、不思議と桟田は温存運動に参加してはいなかった。
「それに、新校舎に移すものを保管する仮設倉庫もまだなのに」
大量の本を移すために業者の手配をなどと考えていたが、その本は一体どこに保管するのだ? 第二図書室の書庫? まだ余裕はあるけれどいくらなんでも全部は入りきらない。
「ただ閉鎖するだけ?」
それは約束が違う、と思った。
この図書室がなくなるぎりぎりまで、この場所を俺に預けるというそういった規約だったはずだ。
とはいえ、こんなことを一人悶々と考えたところでまったくの無意味。
桟田の考えは桟田が話さないかぎりわからない。
それよりも、たった四日学校を休んだだけでこんなにも仕事は増えるものか……司書部屋のカウンターにはおそらく桟田が置いたと思われる、これまで提出した蔵書リストに赤を入れたものと、佐竹が桟田に託したらしき玲子の返却本と来月の図書委員会の議題一覧があった。
今日は金曜日、来週からこの学校は学期始めの実力テストの試験期間に入って委員会活動は停止となる。実力テストが終わればすぐに月初めの委員会。その後のあれやこれやが一段落つく頃に今度は中間テストの試験期間に入る。
「……今日一日でやれと」
玲子の本の返却処理はすぐさま片付けるとして、次に優先するべきは佐竹の議題案に目を通し、内容を決めて佐竹に戻すことだ。
議題内容の通達と了承を委員に取ることも当然、委員会活動に含まれる。
しかし、試験期間終了後、すぐ委員会となれば第二図書室を使うしかない。
試験勉強の場、および資料提供の場として運用するべく、開館時間は短縮されるものの、例外的に第二図書室の当番活動は試験期間中も許されている。
当番活動の中で委員全員に議題内容の認知と了承を得て、顧問教諭の桟田、そして生徒会の承認を受けるには佐竹の手腕が必要だった。
桟田はともかく、全ての委員会を直轄する生徒会は裏理事と呼ばれるほどこの学園では権限が大きく、その分融通がきかない。
そして桟田のチェックの入った新校舎へ移す本の蔵書リスト。
俺の趣味趣向だけで選定したものにはしっかり『要再考』と書かれている。
何故わかったのだろうか、そんな理解はまったくもって不要なのに。
「とても、読む暇なんてなさそうだな……」
諦念を込めた溜め息を吐きながら、司書部屋の事務机の抽斗にあるはずの読みかけの本を思う。これでまた横光利一は当面おあずけだ。
玲子の『呪い』はまだしっかりと続いているようだった。
本條玲子にキスできた男が、彼女を呪いから解放する——。
やっぱりあの時、下手な切り返しをしたと同時にキスしておけばよかったと、俺は間近に見た玲子の桜桃色した唇と微かに顔にかかった吐息を思い出しながら、ちらりとそんなことを胸の内で呟き、いや駄目かとすぐさま脳裏で自らの考えを咎めた。
『そ、そういうのはっ……三橋くんがちゃんと好きになってからで』
やや上擦った、焦り声の玲子の言葉。
最初、俺に告白してきた時、彼女は付き合うかキスをしてくれと言った。
しかしどうやら今は、俺が玲子を好きにならない内はキスしてはいけないらしい。
なんとなく、玲子に対して微笑ましいような気分になってふっと口元を緩めながら手にしていた本を本棚に並ぶ本と本の隙間に差し込もうとして、不意に本の角がひっかかった突っ張りにとっさに反応しきれず、傾いた本は俺の指をすり抜け、バサバサとページを鳴らして床にゴトンと落ちた。
「ああ……しまった」
第一図書室の本は古い。
どこか傷んでしまったかもしれないと、自分のミスに顔を顰めながら身を屈めて本を拾い上げた時、ひらりとページの間から白い紙が落ちた。
一瞬、ページが外れたのかと焦りかけてすぐに違うとわかったのは、落ちた紙切れが三角形をしていたからだ。
「折り紙か?」
紙は正方形の紙が二つ折りになったものだった。
無数についた折り跡がなんとなく人の好奇心を誘う。
何も書かれてはいない、栞代わりに挟んだのかもしれない。
玲子が挟んだのだろうか、それとも玲子が借りる前の借り主が挟んだのだろうか……しかし、探偵小説好きの玲子が借りた久生十蘭に挟まれた、無数の折り跡のついた紙切れなんて意味ありげではないか。
そんなわけで、馬鹿げた行為だと思いながらも制服のポケットに拾い上げた紙切れを忍ばせて持ち帰ってきてしまった。
「……この二つ折りをそのままとして」
目の間に掲げた三角に追った紙はその中心にまた折り跡がついている。
二枚重なった紙の、山折り谷折り具合からみて、そのままさらに二つ折りにするのが自然な感じだった。
「それで……次は?」
小さくなった三角形の中心にまた折り跡がある、さらに半分か……と折りかけて手をとめた。
違う。
「反対側も山折になってる……」
それに中心からさらに左右の角にむけて放射状にはいっている筋。
それも表裏ともに山折りになっている。
とりあえず今度は片側の角をもう一方に向けて折ってみた。
「いや、これじゃ谷折りになる……」
もう一度二つ折りだけの状態に戻し、折り跡を辿って試行錯誤してみたがだめだった。
途中で矛盾が生じてしまう……。
どうやらただ、折り返していくだけではないらしい。
そして、試行錯誤しているうちに、これはきっと玲子が挟んだものだと確信した。
それぞれの角にぴたりと合わさる几帳面な折り跡は、図書カードに書かれた彼女の綺麗な筆跡を思い起こさせる。
どこか間抜けなところがある玲子のことだ、うっかり挟んだ紙を取り外し忘れただけだろうが……一体なにを折った紙だったのか、そもそも一度折った紙をなんでまた開いて、それを栞代わりに差し込んだんだか。
彼女はどこで、どんな風にあの久生十蘭を読んでいたのだろう。
そんなことを考えながら、ムキになって玲子が残したパズルを解こうとあれこれ頭を悩ませているうちにあろうことか俺は眠ってしまったらしい。
朝稽古の音に気がつけば、折り紙を手に背中を猫のように丸めた姿勢で寝転がっていた。
寝間着の裾から剥き出しになった足先がおそろしく冷えているのに、なんだか妙に気持ちのわるい生温さに包まれていて、起き上がろうと背筋を動かせばぞわりと悪寒がした。
起き上がれば、喉の痛みと異様なだるさ。
「これは……」
間違いなく、外でうたた寝して風邪を引いたな……そう自覚した途端に霞んだ世界がぐるりと回った。




