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21.唯一の抵抗

 部屋に戻れば、ベッドの上に布の塊が載っていた。

 頭から布団を被り背を丸めてうずくまっているらしい詩織だ。

 泣いてはいない、ベッドから怒りと拗ねている気配が伝わってくる。ため息を吐きかけたのを飲み込んで、ベッドへは近づかず、ぽっかり空いたスペースを置いて壁際に置かれているソファに腰掛けた。

 ベッドとソファの間にあるはずのテーブルが部屋の隅に移動していて、代わりに昨日受け取ったばかりの詩織の筝が台に乗ってそこにあった。


 三橋の家に生まれた者は皆、生まれてすぐ自分の筝を持つ。

 弾くか弾かないかに関わらず。

 だから俺も、弦に触れた事すらないかもしれない妹の茜も、自分の生まれ年に作られた筝を持っている。

 筝には寿命がある。

 七十年から八十年……丁度、人の寿命と同じ位。そして人同様にその音色は成長していく。

 弾き手が成長するのとは別に、木材が含む水分がだんだんと抜けていき筝そのものが年をとっていくのだ。

 若い筝は音色に潤いがあり、年をとった筝は音色が乾いたものとなる。

 会津桐の木目と紅木の艶が綺麗な、洋蘭の蒔絵の筝。

 もちろん、奏者であれば一面では間に合わず生まれ年以外のものも持ってはいるが、詩織の愛器は叔父が彼女のために作らせたものだった。

 張り替えたばかりの絹糸も新しく、生糠で磨かれた表面も艶やかな詩織の筝。 


「弾いて」


 布団を隔ててその癇の強さが弱まった声がぼそぼそと聞こえて、今度は遠慮せずに息を吐いた。


「なんで?」


 詩織は自分の筝に他人が触れるのを嫌う。


「弦、慣らし」

「調子なら見たはずだし、俺に詩織の加減はわからない」

「いいから!」


 がばりと布団を跳ね上げる音がして、ベッドの上に布団を掴んだまま両手をついて座る詩織が俺を睨みつける。


「本気で弾いて」

「一曲通しで弾けってこと? まあ、いいけど……」


 立ち上がって、部屋の出入口近くのクローゼットから自分の荷物が入った鞄を出して開ける。


「なに、弾く?」


 琴爪をつけながら、こちらをじっと見据えている詩織を伺い見る。


「洋ちゃんの好きなの」

「そういった注文一番困る」

「だって……なんだって一緒だもの……」


 なんだって一緒。

 詩織がどういったつもりでそう言っているのか知らないが、その通りだ。

 詩織の箏を前に軽く鳴らしてみる。

 もう調弦は済んでいるようだ、おそらくは俺がいないうちに詩織がやったのだろう。

 筝も持ち主に似るのだろうか。

 きりきりと緊張感のある音がホテルの部屋に響き時間が時間だけに少し気になったが、絹糸の弦で、音が反響する造りでもない部屋では響き具合もたかがしれている。高層階のデラックスツイン。高級ホテルであるし隣室の迷惑になることはないだろうと思い切る。

 もう一度鳴らしてみる、やはり自分のものより音が鋭い。

 しかし詩織同様に扱いにくいなと思うより先に、その音色に誘われたのを感じて目を細めた。

 三日弾いていないだけに、その誘惑と響きを求めるもどかしさは強烈だった。

 なにを弾いたって同じ。

 その通りだ。

 なにを弾いても、俺の知らない、しかしいつも聞こえる音の響きに誘われる。

 その誘いを振り切って、仰ぎ見て、吸い寄せられて、追ってしまう。

 低音から高音へ順番に一音ずつ鳴らしていく間、捉われ、操られ、浸食されて――。


「……くる」


 ぼそりと小さな呟きが聞こえた。

 詩織だろうか。

 そうだろう、ここには詩織と俺しかいない。

 詰まっているんじゃない……留まっているようなものではないのだ、頭に浮かんだ玲子の言葉に返せなかった言葉もすぐに消し飛び、すぐそばで聴いている詩織のことすらあんなに気にかかっていたはずなのにどうでもよくなる。

 他のことを気にしていたら聞こえない。


「ただの“みだれ”なのに……誰だってお稽古してたら習うような曲なのに……」


 ベッドの方向からぼそぼそと言葉が聞こえた気がした。

 目を閉じて、指に触れる弦の他になにもない場所で耳を澄ませる。

 ただ聞きたい。

 それだけだ。

 あの綺麗な響きさえ掴めたら、束の間の静寂が訪れる。

 委ねるのが、集中するのが、捕らえるのが……。

 奏でるのが。

 唯一の、音への抵抗――。

 序盤から中盤にかけて一音ずつ響かせ、中盤から同じような細かなフレーズの繰り返し。

 曲の終盤に向け、ひたすら音を速く高く重ねていく。

 乱輪舌(みだれりんぜつ)。通称“みだれ”と呼ばれる曲は、きっと早さや左手の忙しなさに気を取られてしまうからだろう、美しく弾くのが難しいと門下の人達は言う。

 しかし重ねるように絶え間なく奏でられる音はやがて大きなうねりとなって、あの響きを捕らえやすい。


「……そっとしておいた方がいいと思うですって?! できるわけ無いじゃないっ!」


 突然、筝の音を割って耳に入ってきた詩織の叫びに、驚いた俺の指がビンッと不調和な音を弾いた。


「詩織?」

「洋ちゃんには時間がないの、大人になってからじゃ遅いの、どんなにすごくても……それだけじゃ……」

「うん」


 爪を指から抜き取って、嗚咽を漏らし始めた詩織に近づく。

 仮に俺が叔父や詩織の言う通りだったとしても、それだけで演奏家として成り立つことも、ましてや宗家を継ぐことなど出来るはずがない。


「うん、わかって……」

「わかってる? なにを?」


 ゆらりと不意に目の前が覆われたように陰る。

 ぐらぐらと左右に傾ぎながらベッドの上に立ち上がった詩織の影が、俺の顔にかかっていた。


「詩織」


 軽く見上げた詩織の顔は泣いてはいなかった。

 息を詰めて話していただけだったらしい、気が強そうな細く澄ましたように整った顔に表情はなかった。

 ただ目だけが異様に光っている。演奏家として稽古に集中している時の詩織の目だ。


「四歳から……ずっと弾いているのよ……」

「三歳だ、詩織が弾きはじめたのは」

「洋ちゃんよ……小さい頃、洋ちゃん一度弾き出すと止まらなかったの。大きくなってからは毎晩だって? 十三年、洋ちゃんだけが聞こえる音を追って毎日弾き込んで……洋ちゃんに足りないのは既成事実だけ……わたし洋ちゃんのことずっと」

「……詩織」

「嫌い」

 

 嫌いよ……洋ちゃんも、洋ちゃんの弾く音も。


 翌日、詩織は一緒に帰らなかった。

 都内に新しく借りた彼女の部屋に、筝と大量の買い物袋と一緒に帰っていった。

 そして俺は平穏な日常を取り戻し、離れの稽古場でいつも通りの日課をやって、いまは酔っぱらって帰宅した叔父の奇襲を受けている。


「叔父さん。だから、寝ないでくださいって……」


 一曲弾き終えないうちに、俺の目の前で片膝を立てて首を落としている叔父に声をかける。

 酔っているとはいえ、座ったまま、しかもおかしな体勢でよく眠れるものだ。


「叔父さんっ」 

「う……ぅう……ああ……あんまりいい音だったんでつい、な」


 俺は頷いて、軽く弦の表面を手のひらで撫でた。


「今夜は機嫌がすごくいいみたいだから」


 本当に、音の響きがいい。うっとりするような余韻の音だった。

 内側で常に響く音を思うまま、思う通りに吸い込んで鳴って……しかしそれでももっとずっと綺麗な歪みのない美しい響きの音があるのだと誘う。

 この楽器との交感を失ったら、きっと地獄だ。

 完全な静けさは響きを追った後に束の間やってくる。それを得る手段を失う。


「詩織とやり合ったそうだな?」


 うーんと背筋を伸ばし後ろに回した手で首と肩をほぐすようにしながら何気なく問いかけてきた叔父に、眉間に皺が寄るのを自覚した。


「誰から聞いたんですか?」


 叔父は昨日九州から戻ったばかり、土曜日の今日詩織は東京でリハーサルだ。

 二人が会って話す機会はない。 

 電話で詩織が叔父に話して聞かせるとも思えない。

 まして玲子と叔父に接点などないだろうし……。


「昨日、羽田で仕事相手にな。詩織の奴、父親をだしにしたばかりか抜け駆けするとはいい度胸じゃないか」


 叔父の言葉に、いまのいままで忘れていた詩織との諍いのきっかけとなったプロモータだという人物を思い出した。


「ああ、なるほど。大丈夫でしたか?」


 向こうからしてみれば、こちらから声をかけて時間を作ったというのに断わられた上、子供の喧嘩を見せられさぞうんざりと不愉快だったろう。


「相手さん恐縮しきってて、かえって気を遣われた」

「そうですか。俺はてっきり父娘で手を結んだのかと思ってました」

「そんなわけないだろ」


 よいしょっと呟きながら叔父はあぐらに足を組み、左頬を軽く掻いた。


「詩織は私を憎んでいるからな。実の娘を顧みず、義理の子供達を可愛がる酷い父親だと。お前達とまで仲違いしなかったのはよかったが」

「どうかな……嫌いだって言ってた」

「ん?」

「ずっと、俺も俺の弾く音も嫌いだって」

「そりゃ、好きの裏返しだ」


 肩を竦めて、ため息を一つ吐き出しながら背中を丸め、その姿勢のまま叔父は首だけを持ち上げるようにして俺を見上げた。


「叔父さん……?」

「世話にもなるし、今年は詩織にやらせようと考えたが……やっぱりお前弾け」

「は?」

「公開講座の話だ。そうだな……やっぱり詩織にも弾かせてやるか」

「詩織に頼むんなら、俺は……」

「ピアノで」

「どこまで詩織を虐めるんですか」

「別に、虐めているわけじゃあない」

「どこが……詩織はプロの奏者なんですよ!」


 さすがに俺も若干声を荒げた。

 筝から離れて叔父の前に屈みこむ。

 酔っているからといって、いくらなんでも悪ふざけが過ぎる思いつきだ。


「ピアノだってアマチュアにしては出来てる」 

「叔父さんっ!」

「師として弟子のことを考えてだ。詩織はさらに父親を嫌い、お前に天の邪鬼な感情を抱くだろうが、だがその分昇ってくる」

「え?」

「詩織は……まだ全然発展途上だ。うぬぼれるなよ、お前のことは評価しているが表に出すなら私の目の届く内輪の場の範囲だ。まっ、そういった既成事実が重要なんだが」 


 さてと、寝るか。

 そう呟いて立ち上がった叔父を俺は屈んだまま仰ぎ見た。

 この人はやはり家元で、詩織の父親だ。

 叔父は立ち上がって俺を見下ろし、この離れの稽古場にやってきて以前に言った言葉を繰り返す。


「なあ、洋介。詩織のようにとまでは言わん。けど、折角なんだからもうちょっと表に出てもいいんじゃないか?」

「……やっぱり叔父さんのこと、父さんとは呼べないと思う」

「構わんよ。それに兄さんも若い頃は結構ふらふらしてたらしいと聞いているから、詩織のようには焦ってはいない。それよりお前ちゃんとメンテナンス出しているのか?」


 筝を指差されて、軽く首を振るとあからさまに呆れた表情で叔父は肩を落とした。


「大事にしろよ、それ、お前にとっては父親の形身なんだから」

「はい」


 じゃ、おやすみ。

 そう背を向けて、叔父は俺が弾いた曲の鼻歌を歌いながら稽古場を出て行った。

 亜麻色の髪の乙女。


「桜桃の唇をした美少女、か」


 ふと、玲子のことが思い浮かんだ。

 昨日、金曜日、学校で彼女とは会えなかった。

 彼女は休んでいて、それに登校時の迎えは今週は止めていた。


『そっとしておいた方がいいと思うですって!?』


 詩織の叫び声が脳裏に甦る。

 あれは、玲子が詩織に言った俺についての言葉なのだろうか……。

 庭に目をむければ、薄曇りの夜空を流れる雲が切れ、明るい月の光が薄闇に慣れた目を射って、俺は不意の眩しさに目を細めた。

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