第八章56 『アラキア』
――誰に言われたからでもない。アラキアがそれを頬張ったのは。
「――――」
ドクドクと、血の流れる音が痛みとなって押し寄せる。
戦いの最中よりもなお早く打つ鼓動、心臓が弾むたびに魂を直接釘で打たれるような衝撃が全身をつんざくが、それがかえってアラキアの気を楽にしてくれる。
心の臓が血を送り出しているということは、まだ自分は人の形をしているらしい。
たとえ、それが誤差のような些細な安らぎに過ぎないとしても、アラキアが自分自身を撹拌され、魂を散らさないためには必要だった。
――『精霊喰らい』という特異な存在は、この世界にアラキアしか現存していない。
研究者というより、異常者というべきものたちの妄執の果てに作り出された禁忌の存在たる『精霊喰らい』――それはアラキアと名付けられ、この世の誰とも分かち合えない宿命の下、唯一無二として生かされてきた。
あえて薄められた自我の中、自分にとって大切だと思える『柱』の存在だけを縁に、アラキアは精霊を喰らい、力あるものとして振る舞い、役目を全うした。
それでいいのだと思っていた。
だが、それではいけないのだと、『柱』を失って知った。
知ったところで手遅れだったと、『精霊喰らい』本来の結末なら早々に自我の崩壊を招き、己が取り込んだ精霊に呑まれ、魂を塗り潰されていただろう。
しかし、アラキアはそうはならなかった。そこには、二つの要因が考えられる。
一つは、アラキアの『柱』とした存在が、離れ離れになったぐらいで見失えないほど眩い太陽のような人物であったこと。
そしてもう一つは、アラキアは絶対に認めたがらない理由――『柱』と引き離されてからの日々、アラキアがアラキアであることを強く意識させる雷鳴が、絶えず彼女の魂を震わせ、劣等感を思い出させ、その個を刺激し続けたことだ。
眩い太陽に照らされ、うるさい雷鳴に囃され続け、アラキアは己の魂を保った。
「――と、そう当方は結論付けますが、そちらはご自覚はおありか伺いたい次第」
「……いや」
それはアラキアの序列がオルバルトを追い越し、『弐』へ昇格した年のことだ。
『精霊喰らい』について残されていた文献を漁ったというチシャの見解は、思いがけずに長い付き合いとなった彼をして、初めて見る渋面をアラキアに刻んだ。
それはそうだろう。チシャは賢く、話もわかりやすかったが、その見解だけはアラキアには受け入れ難かった。
アラキア自身、『精霊喰らい』である自分のことを感覚的にしかわかっていなかったが、それでも自分の全部はプリスカでできているものと信じたかった。
その祈るような願いを、よりにもよってな成分で薄められたくない。
そもそも――、
「……なんで、その話したの?」
そう疑問した通り、チシャがそうした話題を持ち出したこと自体が驚きだった。
アラキアの『柱』であるプリスカ――彼女が『選帝の儀』から例外的に逃がされ、生きたまま国外へ出されたことは、ヴォラキア帝国でも秘中の秘。
当時、その追放に関わったアラキアやチシャは知っていて当たり前だが、他の誰に聞かれてもならないと、何年も口にしてこなかった話題だ。
それなのにどうして、このときになってチシャはそれを口にしたのか。
「あなたが、脆く儚く消える存在なのかそうでないのか、知っておきたいのですよ。いずれ来たる大きな戦いの頭数に、あなたを数えていいものかどうかと」
「……意味不明。わたしは、『九神将』だから」
チシャやヴィンセントが予測する、反乱だったりの鎮圧に駆り出されるのは当然だ。
しかし、アラキアの答えにチシャは目尻を下げ、珍しい顔を作った。ほとんどいつも、無表情か呆れたような顔ばかりしているチシャの、滅多に見せない微笑だ。
その微笑でアラキアの虚を突きながら、チシャは続けた。
「あなたの思う戦いよりも、少しばかり大きなものになりそうでしてなぁ。あなたが心から閣下に仕え、当方を味方と思っているわけではないことは知っている次第」
「――――」
「わかってはいても、否定されぬのもいささか傷付きますなぁ」
「……姫様のために、わたしは消えない」
額に手をやったチシャの反応に触れず、アラキアは自分の眼帯を撫でてそう答えた。
自分が自分である理由、アラキアという魂の答えはちゃんとある。チシャが心配しているようなことは起こらない。チシャを安心させるためではないが、そう言った。
「あと、そのこととセシルスは関係ない」
「ふ。あくまで当方の推論ですからなぁ。どうしても違うと認めさせたいのであれば、一度くらいセシルスを負けさせていただきたい次第」
「あれれれれ? 今僕の話とかしてませんでしたか? なんですなんですアーニャとチシャで僕をのけ者扱いだなんて性格悪いことしないでくださいよ。もしかしてあれですか? 懲りずに連敗記録を伸ばし続けるアーニャの薄い勝ち目の相談ですか?」
「セシルス、死んで」
結局、直後に始まったセシルスとのぶつかり合いで、巻き添えを嫌ったチシャが逃げてしまったからそれ以上の話は聞けなかった。
その後、チシャと話の続きをした覚えもない。
「――――」
ただ、ぼんやりと思った。
チシャが気にしていた、来たるべき大きな戦いというものはいつくるのだろうか。それがきたとき、自分は彼の数える頭数に含まれているのだろうか。
機会があれば、それを聞いてみたい。
アラキアも、チシャとの付き合いが長くなった。
プリスカと離れ離れになった『選帝の儀』からの関係性で、プリスカと離れ離れになった理由に深く関わるチシャを、アラキアは許せないでいる。
でも、チシャはアラキアに字の読み書きの手ほどきをしてくれた。彼には借りがある。その貸し借りの分、チシャが望んだ戦いをしてもいいとは思った。
――それともこれも、プリスカ以外の理由ということになってしまうのだろうか?
セシルスは嫌いだ。ヴィンセントは複雑だが、プリスカのことがあるので許せない寄りだと思う。オルバルトは冗談が面白い。ゴズは顔が面白い。グルービーは口は悪いが面倒見がよくて、モグロは嫌な顔をしないで話を聞いてくれる。ヨルナは苦手だが、どことなく嫌いになれなかった。バルロイはたまに飛竜に乗せて空を飛んでくれて、マデリンとはお互いに顔を合わせないようにしていた気がする。トッドには、感謝していた。
――あれやこれやも、プリスカ以外の理由ということになってしまうのだろうか?
「――――」
バラバラになりそうで、ズタズタに引き裂かれそうで、思い出す端から自分というものが失われていく感覚があって、アラキアは『アラキア』を搔き集める。
そうしていないと、自分という存在が消えてなくなってしまうから――ではない。
「――め、さま」
そうしていないと、自分の中ではち切れそうに暴れ回るそれを抑え込めなくなる。
それは途轍もなく大きなモノだった。それは信じられないほど重いモノだった。それは耐え難いほどに歪なモノだった。それは放っておけば帝国を滅ぼすモノだった。
それを、自分が抑え込んでおけなくては、『柱』――プリスカを、守れない。
だからアラキアは、誰に言われたわけでもなく、それを頬張った。自分の、比べるべくもなく細くて小さな体の内に、『石塊』ムスペルを取り込んだ。
『魔女』を名乗った怪物に、この大精霊を利用され、帝国を滅ぼされてはならない。
そのために――、
「察するに何か悪いモノを口にしましたか。――本当にあなたは手のかかる」
うるさい雷鳴が、千々に引き裂かれる魂を継ぎ接ぐような錯覚。
その雷雲のような痛みと喪失に苛まれながら、アラキアは『アラキア』を搔き集め、搔き集め、搔き集めて、撹拌される存在の霧散に抗い続ける。
抗い続け、耐えしのぐ。――滅びかけの魂にこびりつく、唯一の可能性を待ち望んで。
△▼△▼△▼△
数えるのも嫌になったが、数えるのは癖になっている。
あえて詳細な数字にすることで、直面した現実を矮小化できる――なんて賢いことは言わない。そうした精神論を抜きに、本当にただ癖になっているだけだ。
その癖が数えた。――これで、百九十一回目だと。
「我ながら、凡人すぎて嫌になるぜ……」
熱がこもり、流れる汗が兜の中を浸していくのを感じながらアルは呟いた。
溶解した第二頂点を舞台に、場違いな端役の悪足掻きは続いている。周囲一帯を包み込んだ熱波の影響で大気はぐらぐらと揺れ、明瞭にこの空間は異次元と化した。
刻一刻と、地獄に作り変えられる世界に人の営みは適応できない。
木々や建物は燃え上がり、砂や街路の端材は溶け始める。青龍刀を握った掌が焼ける音を立てて、纏った衣類もいつ着火するか知れない有様だ。
ただ立っているだけで、次の瞬間に火だるまになっていてもおかしくない環境。というか実際、火だるまになったパターンも一度や二度ではない。
そんな過酷すぎる状況にあっても――、
「たたたたたたたたたたたたた――!!」
猛然と、ボコボコと泡を立てて沸騰するマグマの上を駆け抜けて、雷光と見紛う速度の千両役者が大立ち回りを繰り広げる。
深みのある濃い青の乱れ髪を躍らせながら、目にも鮮やかな桃色のキモノをはためかせて走るのは、この世界の花形役者を気取るセシルス・セグムントだ。
マグマの上を走り抜ける疾走の速度、子どもの細い足とは思えない信じ難い脚力、尽きることがないかと思わされる無尽蔵のスタミナと、瞬きの間に世界を作り変えるような敵を相手に渡り合う胆力と運命力、どれを取っても一級品。
世界を舞台と言い切り、自らをその主演役者と当て嵌め、姿の見えない観客への見栄えさえ意識したセシルスは、その大言壮語に恥じない在り方で己を全うする。
この規格外の強敵を前に、彼以外の誰が戦いを成立させられただろうか。
「――とう!」
子ども特有の高い声を掛け声に、セシルスの体が斜めに飛んだ。
その踏み切った刹那、彼が直前までいた地面が膨れ上がり、内側から爆発を起こす。その爆風さえも味方に付けて、射出されるセシルスが宙で身をひねった。
そのまま、大木の幹のように太い石の柱さえ吹き飛ばす雷光の蹴撃が、中空に浮かんだ銀髪の犬人――アラキアへと飛び込んでいく。
「――あ、う」
露出の多い褐色の肌に、宝石のように赤い瞳から血涙を流すアラキア。
その、呻き声を漏らしている彼女の胴体へ、セシルスの靴裏が焦げ付いたゾーリが真っ直ぐに迫り、迫り、迫り――インパクトの瞬間、大音が空を爆ぜさせた。
「~~ッッ!!」
直後、飛び上がったとき以上の速度で叩き落とされ、地上へ突っ込んでいくセシルスが猛然と街路を跳ね、苦鳴を押し殺しながら顔を上げる。
一拍遅れ、その白い額から血が噴いて、幼子の童顔が赤く染まった。
「完璧に合わせてくるようになりましたね」
整った鼻筋を伝い落ちる血を舌で舐めて、セシルスがまんまと迎撃された事実をそう評する。
そこに驚きの色はない。何故なら、迎撃されたのはこれが初めてではないからだ。
すでに十数回、セシルスの疾風迅雷の攻撃は対応され、撃ち落とされ続けている。その旗色は急速に、それも深刻に悪くなりつつあった。
「アラキア嬢ちゃんが、マズい」
介入する隙を窺いながら、アルは空間を歪めながら浮遊するアラキアを見る。
そのアラキアの姿は、ほんの数十秒前よりもさらに異形化が進み、細い少女の体の内側から突き破るように魔晶石を生やしたものとなっていた。
アラキアの腕や背中から生えたそれは、遠目には天使の羽のようにも見える。
しかしその実態は、アラキアが取り込んだ大きすぎる存在が、自らを閉じ込める少女の体を食い破り、溢れ出そうとしているに他ならなかった。
「クソったれ」
徐々に力の浸食を受け、人間の姿を逸脱していくアラキアの選択に、アルはやり場のない怒りを悪罵にして吐き出すしかできない。
自分の望みを叶えるために及ばず、足りない力を補う術を欲しがる気持ちはわかる。
アラキアがアルなんかよりもずっとずっと高みへ至れる可能性があり、手を伸ばせる選択肢が数多くあるだろうことも想像はついた。
それでも、自分の身の丈に合わないモノを取り込めば、アラキア自身の才気がかえって己に、周囲に、大事にしたかったモノに牙を剥く。
その、わかりやすすぎるぐらいのしっぺ返しの答えが、この現状だ。
――当初、アラキアとの戦いを優勢に進めていたのはセシルスの側だった。
第二頂点を吹き飛ばし、そのまま帝都を丸々消し飛ばしかねない危険物と化したアラキアを引き止めるため、セシルスはあえて刺々しい敵意を彼女にぶつけ、本能的な危機意識を刺激し続けることで舞台を整えた。
はっきり言って、戦士として一段二段どころか十段飛ばしで上の超越者たちの戦いだ。
アルが居残ったところで介入できる余地はほとんどなかったが、それでも二百回に迫る試行錯誤の中で、二回はセシルスの手足が吹き飛ぶのを阻止できた。
その間も、アラキアは際限なく水を注がれ続けるコップを持たされたように、溢れる水を無作為にぶちまけて、アルやセシルスの命を大いに危うくした。
だが、それが繰り返されるだけなら、領域というズルをしているアルはもちろん、理外の存在として跳ね回るセシルスを捉えることは永遠にできなかったろう。
しかし、状況は変わった。
前述したアラキアの異形化が進み、途端にその戦い方が変化したためだ。
「――くる!」
好戦的に弾んでさえ聞こえる声を上げ、血を拭ったセシルスの双眸が輝く。
刹那、セシルスの周囲の空間が歪み、四方から飛び出したねじくれた石柱が大蛇のように少年に襲いかかった。その猛然と噛みついてくる石柱を、屈み、飛びのき、身をひねって躱しながら、飛び出したセシルスの速度がトップスピードへ乗る。
だが、血涙を流すアラキアの猛攻は雷光を逃がさない。
地を蹴り、加速するセシルスの進路の地面がめくれ上がり、石と土でできた巨大な腕がいくつも生じると、それが少年を握り潰さんと掴みかかった。
「残念ですが舞台の役者にお触り厳禁!」
そう軽妙に言い放ち、ハエ叩きのように振り下ろされる作り物の腕をセシルスは足場にして突破、階段のように空へ駆け上がる階とし、高度を確保すると反転、打ち据えてくる石の拳を逆に利用し、アラキアへ再び飛びつこうと試みる。
だが――、
「やらかした――!」
常人なら掠めるだけで血煙へ変える巨岩の拳、それをゾーリの裏で受け、全身のバネを使って致命的な衝撃を殺し、勢いだけをもらって飛んだセシルスが叫んだ。
弾道ミサイルのような勢いでアラキアへ突き進むセシルス、その射線上に白い光が生み出され、空で逃げ場のないセシルスが自らそこへ飛び込む――、
「うおおおお!」
吠えるアルが青龍刀を振り上げ、セシルスが光に飛び込む前に刃を叩き込む。
次の瞬間、青龍刀の直撃を受けた光が一瞬強く瞬いて、接近したアルの体を、迫っていたセシルスの体を呑み込んで消し飛ばし――、
× × ×
「やらかした――!」
巨岩の拳をゾーリの裏で受け、勢いだけを盗んだセシルスが弾道ミサイルのように飛びながら叫んだ。
その叫びが発されるより早く、アルは青龍刀の先を何もない空中に向けて、
「ドーナぁ!!」
アラキアと比べれば、月とハナクソのような差のある魔法だが、生み出された礫が空を走り、生み出されかけていた破滅の光の出鼻を潰す。
一瞬、強い瞬きが兜越しにもアルの目を焼くが、それにアルの命を、ましてやセシルスの速度を殺すような威力はない。
「アルさん、やるぅ!!」
光の炸裂が誰の仕業か一目で看破し、命拾いした感慨さえ一瞬で飲み下したセシルスがアラキアへ突っ込む。
振りかざした右手は手刀に構えられ、おそらくは半端な名刀さえ凌駕する切れ味。それが空中を一閃し、魔晶石の翼を生やしたアラキアを斜めに打つ――、
「――っ!」
瞬間、誇張抜きの雷鳴が轟き、空が引き裂かれる光景をアルは幻視した。
実際にそれは錯覚ではなく、セシルスが放った手刀の衝撃波は背後に抜けて、その向こうにあった倒壊寸前の建物群にトドメを刺し、一帯を崩壊へ導いた。
だが、しかし、肝心の、手刀を浴びたアラキアは。
「――――」
ぎょろりと、血色に染まった目が動き、すぐ間近にあるセシルスを覗き込む。
その額に強烈な手刀を浴びたにも拘らず、中空にある身を小揺るぎもさせなかったアラキアは、返礼とばかりにその魔晶石でできた翼を振り上げて――、
「――――」
その、薄い唇が微かな音を紡いだ直後に、一撃がセシルスを致命的に抉っていった。
△▼△▼△▼△
刻々と時間が流れ、経過し、過ぎ去り、『アラキア』が消えていく。
徐々に存在を、魂の在処を塗り潰される感覚を味わいながら、アラキアは痛みと苦しみの中で、懸命に自分の太陽の眩しさを思い出そうとしていた。
持て余された存在だった。多くの犠牲の果てに作り出されたにも拘らず、作り出したあとのことには無頓着で、行き場のない危険物そのものだった。
そんな、使い道も、正しい扱い方も知れない恐ろしいだけの存在を、彼女は平然と自分の歩む人生の隣に並べると、ついてこいとそう言い切った。
その、完成された雄大さに、いったいどうして逆らうことができただろう。
反抗心や抵抗など芽生えようはずもなかった。彼女はアラキアが正しいと思うことの象徴であり、彼女が存在してくれることがアラキアの生まれた意味だ。
その輝きを失わせないため、その輝きが美しいと思うものを取りこぼさないため、必要だと思えば傍を離れることを選び、身を引き裂かれるような思いにも何とか耐えた。
耐えて耐えて耐え抜いて、その先にまた太陽が昇るのを信じられたからだ。
――その、明日の暁を守れるなら、昇る日の光を自分が浴びれなくてもいい。
がむしゃらに喚いて、手に入らないと駄々をこねて、他ならぬ太陽から失望の目を向けられながら、それでようやく、辿り着いた結論。
太陽に、捨てられたのだと思った。
太陽は、もう自分を照らさないのだと思った。
しかし、あの帝都決戦で向かい合い、泣きじゃくるアラキアへと『陽剣』を向けた太陽――プリスカは、その真紅の宝剣でアラキアを斬らなかった。
その後、現れた『大災』の僕に取り囲まれたときも、逃げ切ろうと思えば逃げ切れたはずだ。だが、彼女はアラキアの無事と引き換えに、囚われとなることを選んだ。
その心根に、その眩さに、一切の変わりはなかった。
プリスカが変わらないでいてくれたなら、アラキアもまた変わらぬ誓いを望みたい。
――プリスカ・ベネディクト。
ヴォラキア帝国の、沈み、また昇る太陽の象徴たる存在。
彼女を想えば、アラキアは『アラキア』のままでいられる。
アラキアの魂は熱を増し、はち切れんとする限界を先延ばしにできる。
しかし、プリスカへの忠誠と敬愛は永遠でも、限界を永遠には引き延ばせない。
呑み込まれ、塗り潰されそうな存在を引き止める。
そうして精神の凌辱に抗い続けるアラキアを余所に、意識を向ける余裕のない現実の世界では今もアラキアの体を借りた存在が破滅を拡大している。
破壊はより洗練され、破滅はその勢いを増し、破綻は時間の問題だろう。
何百年もの長い時間を停滞して過ごし、自らの力の一部が人間同士の争いに利用されようと、あるいは人の営みの豊かさに活用されようと意に介さない『石塊』――それは、アラキアという脆い器に入ったことで、消えることへの抗いを知った。
アラキアに取り込まれた大精霊は、本来の状態ならしなかっただろう防衛本能を発揮し、皮肉にもアラキアという器を守るためにその脅威を強めたのだ。
「――――」
誰かが、誰かがアラキアを止めるために抗っているのを感じる。
その誰かが多少なり、アラキアの力を消耗させてくれるから、『アラキア』が失われることへの歯止めがかかっているのだとも思う。
だが、足りない。弱らせるだけでは、押しとどめるだけでは足りない。
『大災』の、その目的を邪魔するために、アラキアはそれを頬張った。
何をされても、されるがままの大精霊は、アラキアに取り込まれることで、自らが失われるということの恐れを知った。
あと、もう一押しだ。もう一押しがあれば、大精霊は理解する。
『アラキア』が消えないために、太陽が必要だ。
そして、『アラキア』が誓いを果たすために必要だ。――雷鳴が。
誰かが、誰かがアラキアを止めるために抗っているのを感じる。
足りない。その誰かでは、足りない。必要なのが誰なのかは、わかっている。
だから、アラキアははち切れそうになりながら、待ち望む。
――雷鳴が、本物の雷鳴が鳴り響くのを、待ち望む。
△▼△▼△▼△
「――殺して、セシルス」
そう聞こえた瞬間、あろうことか思考が止まってしまった。
渾身の手刀を叩き込み、それが相手に全く通用していなかったと睨まれた直後、血涙を流す美しい少女は泣きながら、か細い声でそう懇願したのだ。
「――――」
直後、その呟きを飲み下すより早く、セシルスの胸が強烈な一撃を受ける。
少女の細腕は、しかしびっしりと生えた魔晶石の鋭さで刃も同然、哀れセシルスの薄い胸板は無惨にも切り裂かれ、お気に入りのキモノを血に染めながら落下する。
痛み、ある。やらかした実感、ある。大ピンチの兆し、十二分にある。
しかし、深々と抉られた傷よりも、宙に尾を引いている流れた血よりも、遠ざかっていく少女の痛々しい目と顔、何よりも言われた言葉から目が離せない――。
『■■!!』『■■■■』『■●■●■●■』『■■■■●●■■』『●●●■■■』『――■■』『●●●●●!!』『■■■●■●●■■●●』『●●……■』『●●■■●■■●●』『●■●■●■●■』『●●■●■●●●■■●――!』
「――申し訳ありませんが静粛に願います!!」
その瞬間、ひっきりなしに聞こえ続けている観客の声に、セシルスは強く訴えていた。
『――――』
普段であれば、セシルスは観客の声を黙らせるようなことはしない。
聞こえてくる声を、自分のモチベーションを上げるための発奮材料とし、言わせるがままに聞き流しながら平然と常に過ごしている。
それを、黙らせた。静寂が、痛みさえ煩わしい静寂が欲しかった。
「――――」
落下しながら、セシルスは観客の声のしない静寂の中に少女を見つめ続ける。
血の涙を流して苦しみ、嘆きを訴える手段として世界を壊す彼女は、意味を為さない呻き声の中にようやく自分の望みを交えた。
それが、他ならぬ自分の名前だったことは、まさしく花形役者の宿命と言えよう。
しかし――、
「――殺してとは、聞き捨てならない」
痛みや驚きよりも、紡がれた台詞の方が受け入れ難く、セシルスは歯を噛んだ。
瞬間、頭から地面へ落下する体の膝を畳んで反転、危なげなく着地すると、その着地を狙って落ちてくる石柱の連鎖を躱し躱し躱し、飛んで地面を踵で擦る。
そして、顔を上げた。
「あれは僕に言ったものではありませんね」
無論、この状況で他に名を呼ばれるセシルスがいるとは思えない。
だがしかし、涙を流した彼女が呼んで、望みを託されたのが自分でないことはちゃあんとわかる。――それが、無性に腹立たしくあった。
大一番、鉄火場、決めシーン、担当回、なんとした言い方をしてもいい。
そんな瞬間、そんな場面、そんな見せ場を用意され、そこで呼ばれるセシルス・セグムントが、自分以外でいいはずがない。
故に――、
「――セシルス! お前、傷は……」
「決めましたよ、アルさん」
深手を負い、流血するセシルスの姿に、何故か自分の首に青龍刀を宛がいながら声を発したアルへと応じ、セシルスは破けたキモノの切れ端を千切り、紐状のそれでバラバラとばらけていた自分の青い髪を後ろでまとめる。
そして笑い、泣いている少女――ヒロインを見上げ、言い放つ。
「天上の観覧者も照覧あれ。――世界がいずれを選ぶかを」




