第八章30 『凶報』
――『城塞都市』ガークラは、ヴォラキア帝国でも五指に入る大都市として知られる。
隣国であるルグニカ王国とカララギ都市国家、実質この二国との国境沿いに存在しているガークラは、都市の背後に大山を背負い、防壁の内側に堅固な要塞をいくつも擁する強大な防衛の要所となっている。
ただし、その堅固さで謳われた都市の伝説は、十数年前に単独でガークラを襲った魔女教の『強欲』の大罪司教の手によって崩壊させられた。
被害は城塞都市の数千名の常備兵と、ヴォラキア帝国最強の武人と呼ばれた『八つ腕』のクルガンの死、そして複数の要塞が壊滅した帝国史に残る最悪のものだ。
以来、城塞都市には深い傷跡が刻み込まれ、現在に至るまで都市全体の復旧と機能の回復は完全とは言えず、国家間の緊張は高い状態で維持されている――。
「と、それが王国の把握している城塞都市の状況だったのですがねーぇ」
都市の最奥、隣接するギルドレイ山の中腹を切り出す形で作られた大要塞。その会議室の窓辺に立ったロズワールが、街並みを一望しながら笑みを浮かべる。
都市には十分な広さと潤沢な備蓄の整った避難所があり、そこに命からがら帝都から逃げてきた避難民や兵たちが収容され、ようやくの安堵を迎えている様子だ。
眼下、その光景の実現には整然と建立された複数の要塞が使われているが、それらの建築物の中に作りかけのものは一つも見当たらなかった。
「聞いていた話とずいぶんと違う……帝国の中でも、城塞都市は再建の真っ最中だともっぱらの噂だったのですけーぇどね」
他国の人間はいざ知らず、帝国民にすら城塞都市の内実は知れ渡っていない。
仮に城塞都市が不完全であるという情報を鵜呑みに動く国があれば、それは万全の体制を敷いた帝国の出迎えを受けることになったわけだ。
さすが、帝国は戦争のためなら己の醜聞も活用すると、呆れを通り越して感心する。
と、そこへ――、
「名にし負う、王国第一位の魔法使いがその認識でしたなら、こちらの情報統制はうまく機能していたようですな」
「見える聞こえる弱点をこれ見よがしに残しておくはずがない、ですか。やーぁれやれ、帝国の周到さには頭が下がりますよーぉ」
感心に応じる声があって、ロズワールは肩をすくめながら振り返る。正面、そこに立つのは白髪の老爺――帝国宰相のベルステツ・フォンダルフォンだった。
先の連環竜車での襲撃の際、その奮戦で打開の一助となった人物だ。
一度は竜車から転落して生存を危ぶまれていたが、間一髪、竜車を追走していたフレデリカの救助が間に合い、こうして城塞都市で合流が果たされた。
とはいえ、状況的にも無傷の帰還とはいかなかった。
「お加減はいかがです? 火傷の範囲もかなり広かったよーぉでしたが」
「お気遣いに感謝します。幸い、癒者の力がある彼女のおかげで命は拾いました。多少、手足は不自由しますが……私奴には過ぎた幸運でしょう」
「――。そうですか」
告げるベルステツは片手で杖を突いており、その右足を引きずるようにしている。
いかに治癒魔法の効果が絶大だろうと、当人の回復力の上限を大幅に超えた結果をもたらすにはそれこそ奇跡が必要となる。
残念ながら、ベルステツの奇跡は命を拾ったところで打ち止めになったようだ。もっとも、この老人はそれすら過大な奇跡と受け止めている様子だが。
ともあれ――、
「人的被害は最小限、めぼしい戦力を失わずに城塞都市へ入れたのは僥倖だ。足の不自由になった宰相は気の毒だが、これ以上の結果は望めまいよ」
そう述べるのは、ロズワールと共に会議室に入っていたセリーナだ。
彼女は部屋の中央に置かれた円卓の一席に座り、自らの顔の傷を指でなぞりながら、自分の隣の席の椅子をベルステツのために引いてやる。
その彼女らしからぬ配慮に、ベルステツは一礼し、席についた。
「ドラクロイ上級伯の物言いは不躾ですが、仕草は配慮されたもの……あなたをどう思うべきか、判断に迷いますな」
「さほど難しく考えるな。どちらも私だ。仮にこの要塞が崩れるなら、枯れ木のような宰相を抱いて走りながら、その労力について忌憚なく意見を述べるさ」
「なるほど。理解に苦しみます」
その率直さがかえってセリーナの魅力を複雑なものにしているが、それに応対するベルステツの態度もどこか一皮剥けた印象を受ける。
屍飛竜の群れと、それを率いた『毒姫』の襲来。加えて『礼賛者』ハリベルが食い止めた『三つ首』バルグレンの出現と、正直、あれは最悪の出来事だった。
だが、ベルステツの生還を含め、陣容としては奇跡的な落着を迎えたと言える。
ただし、その奇跡の起こし方に関しては物議をかもす部分がある。
「時に、間違いないのですか? ラミア閣下が、もう蘇られないというのは」
円卓についたベルステツの問い、そこに彼らしからぬわずかな熱があったのにロズワールは気付いたが、セリーナと違って無粋な追及はしない。
その代わりにロズワールは顎を引いて、
「どうやら、相手方が『不死王の秘蹟』と復元魔法を混成させた術式、それを解く方法が見つかったようでしてねーぇ。ラミア・ゴドウィン姫は、その方法によって蘇りの手段を断たれた。……いえ、この場合は」
「救われた、という表現はいささか傲慢かもしれんな」
あえて、口にするか躊躇った部分を容赦なくセリーナが指摘する。
その点に関して、ロズワールも明瞭な答えを持たない。屍人として蘇った命が、それ自体を歓迎するのかロズワールには測りかねるからだ。
個人的な意見を言うなら、命の蘇生自体を悪とは断じない。しかし、あの屍人として蘇るという状態は――、
「――救われた。あるいは解放されたと、そう述べてよいでしょう」
「ほう? あなたがそれを言うのは意外だな、宰相殿」
ベルステツの言葉に、セリーナが眉を上げて興味深げに呟く。その眼差しに、杖の柄尻に両手を置いたベルステツは長く息を吐くと、
「あのような状態を、ラミア閣下が良しとされたとは思いません。閣下も、自らが敗れた御自覚はあったはず。……あれは、望まぬ御機会でした」
「であれば、討たれたのも本望であったと? そのわりには、ああして増えてまで襲ってこられたのはいささか辻褄が合わなく感じるがな」
「……それでも、閣下の本意は別にあったと私奴は考えます」
糸目を伏せたベルステツ、彼の重たい呟きは隠しようのない願いがあった。
その、ベルステツの心情がロズワールにはわかる気がした。生憎と、頬杖をついたセリーナにはちっとも伝わっていない様子だが。
いずれにせよ、それも話し合いの焦点に大いに含まれる内容だ。
「敵は強大で、事態は混迷の只中にある。一丸とならなければ危うい状況で、我々が内輪揉めなどしている場合ではないだろうねーぇ、スバルくん」
「……言われなくてもわかってるよ」
小気味よく笑い、ロズワールが会議室の入口にそう声をかける。
ちょうど、扉を開けて顔を覗かせた黒髪の少年は、それに苦々しい顔でそう答えたのだった。
△▼△▼△▼△
「緊急事態だったせいで話せてなかったけど、改めて情報を共有する。この、ルイ改めスピカは元々魔女教の大罪司教だった」
「あーう!」
大要塞の会議室、始まった話し合いの最初の最初で、スバルは傍らに立たせたスピカの正体を包み隠さず打ち明けた。
元々、連環竜車ですでに事情を把握していた側は、その告白をもちろん静かに受け止める。一方、知らなかった帝国側の反応は予想通りのものだった。
唖然と驚愕が最初に訪れ、次いでやってくるのは告白が事実でも冗談でも、その性質は変わらない反応――すなわち、激昂である。
「何を、何を言い出す! 大罪司教だと!? ありえん! ここが城塞都市だと知っての暴言か!? 一度は大罪司教に落とされた都市なのだぞ!!」
そう、普段から大きな声をさらに大にして怒鳴ったのはゴズ・ラルフォンだ。
連環竜車の防衛に大きく貢献し、負わされた傷の治療もそこそこに会議に合流したゴズの叫びは、初めて今の話を聞かされたものたちの総意だっただろう。
しかし、これは冗談でも遊びでもない。
「この街でレグルスのクソ野郎が暴れたって話は俺も聞いてるよ。慰めになるかわかんないけど、あの野郎は俺たちでとっちめといたからいったん忘れてくれ」
「唾棄すべき凶人のことなどどうでもいい! 重要なのは、大罪司教という呪われた肩書きが持っている罪咎だ! 貴公、わかっているのか!?」
「――わかってる」
その声の大きさで風が起こり、吹き飛ばされそうな錯覚を味わわせてくるゴズ。だが、スバルはそのゴズの怒声に一歩も引かず、正面からそう即答した。
さしものゴズも、子どものスバルに真っ向から答えられ、「む」と目を見開く。
「よろしいですか?」
そうしてゴズの勢いがつんのめると、代わりに手を上げたのはベルステツだった。帝国宰相は糸のように細い目でスバルと、その傍らのスピカを見やり、
「わざわざそれを打ち明けたということは、彼女の存在と技能が今後の話し合いに必要と考えられた証でしょう。それはすなわち、ラミア閣下を屍人の頚木から解き放たれたことと関係があると考えても?」
「ああ、そうだ。話が早くて助かるよ。やっぱり、勝手にベルステツさんに死なれちゃ困るところだった」
話し合いの流れからおおよその事情を推察したベルステツ、彼の確認を頷いて肯定しながら、ついついスバルはそう言ってしまう。
連環竜車の戦いの最中、ベルステツは単身でラミアと対峙し、命懸けで彼女とその分け身をまとめて『風除けの加護』から除外させた。とはいえ、その行動自体は完全に独断であり、危うく彼は命を落とすところだったのだ。
「頼むから、頭のいい人まで帝国流なんかに染まらないでくれよ。命と引き換えで何かをやり遂げたって偉くも何ともない」
「それに関しては意見は様々ありそうですが……少なくとも、私奴の命と引き換えに得られるものは多くありますまい。承知いたしました」
譲るべきところは譲り、それができないところは頑固に構えるとベルステツは語る。
スバルも同じ考えなので、命の価値観については平行線を辿ることになりそうだ。もっとも、スバルは彼らを格好良く殉職などさせてやるつもりは微塵もないが。
「それで? 宰相殿の問いを肯定した以上、その大罪司教たる娘が屍人相手に効果覿面だったのは疑いようもない。いったい、何をした?」
「それに関しては具体的な説明はしづらいんだけど……」
円卓に頬杖をついて、スピカへの敵愾心よりも好奇心を優先するセリーナ。彼女から当然の質問が為され、スバルはちらとスピカを見る。
その眼差しに青い瞳を瞬かせる少女、その握った手を持ち上げてみせ、
「スピカは『暴食』の権能で、名前のわかる相手の特別な力を喰える……とかだと思う。それで無制限に復活するゾンビの術式を無効化できるんだ」
「なんや、ふわーっとした説明やないの。もっとちゃんと教えてくれんと、不安ばっかり残ってちっとも安心でけんよ?」
「俺だって、もっと説得力とか具体性のある説明がしてぇけども!」
曖昧な力説をしたスバルの背中を、味方のはずのアナスタシアが容赦なく撃った。
だが、撃たれて当然の理屈だし、撃たれて致命傷になるのも避けられない内容だ。一方で、スバルにはそうとしか説明できないのも事実で。
「いずれにせよ、スバルの狙いは的中したのよ。その娘の権能で、あの厄介なお姫様ゾンビは逃げ帰ったかしら。あの撤退は嘘やハッタリとは違ったのよ」
「私も、ベアトリス様の意見に賛成だ。それに、あの場に踏みとどまり、主の撤退時間を稼ぐのに尽力した『剪定部隊』……その奮戦が妥協の産物とは考えにくい」
「二人して感傷的な答えやこと。でも、それはあくまで状況証拠……効果の確信が持てんと、利用するんは危なすぎる劇薬やってわかってる?」
「それは……もちろん、わかってるつもりだ」
ベアトリスとユリウスの援護があっても、アナスタシアの正論の妥当性は揺るがない。
彼女の言い分の正しさは、新たに説得しなくてはならない帝国側の反応からも明らか。守るべきは帝国だが、そのために背負い込むリスクに大罪司教が見合うかどうか、それははっきり言って難しい判断と言わざるを得ない。
『星詠み』ウビルクが口にした、『大災』に抗うための二つの光――片割れの生存は絶望的とのことで、実質、頼りにできるのはスピカだけという状況だ。
襲いくるゾンビたちの猛攻、それがベアトリスたちの決死の調査で『不死王の秘蹟』と復元魔法の応用とわかった段で、スバルはスピカの可能性に思い至った。
『暴食』の権能を用いたゾンビたちの魂への干渉――具体的に、スピカの権能の行使がどう行われ、結果に結び付いたかは前述の通り、わからない。
ただ、スピカの権能の標的となったラミア・ゴドウィン、彼女の『名前』をスバルたちは忘れていないし、それは彼女の異母兄妹だったアベルも同じだ。
去り際のラミアに、記憶喪失の素振りはなかった。そのため、彼女は『記憶』を喰らわれたわけでもない。――では、スピカは何を喰らったのか。
現状では運命や因果、役割やそのときかかっていた状態異常なんて、そんなありったけの暴論を並べ立てるしかない状況ではあった。
もちろん、それでは説得力に足りないと、アナスタシアの指摘もわかる話で。
「でも、この子なら他の『ぞんび』たちも止められるかもしれないのよね? それって、すごーく大事なことだと思うの」
と、そう苦心するスバルの傍ら、円卓の一席を与るエミリアが眉尻を下げながら発言する。そのエミリアの意見に、アナスタシアは浅葱色の瞳を細めた。
「エミリアさんの気持ちがわからんとは言わんよ? ウチも、この『大災』なんて大騒ぎにうんざりしてる立場やし、勝てるかもって方策に飛びつきたくなる気持ちは一緒や。せやけど、大罪司教の力は徒に……」
「ううん、そうじゃなくて。それももちろんそうなんだけど……私は、死んじゃった人が『ぞんび』になってることの方が何とかしたくて」
「ゾンビを、何とかしたい?」
「うまく言えないんだけど……もういない人たちがああやって、『ぞんび』になって動かされてるのはすごーく嫌。アベルだって、あんな風に妹さんと会いたくなかったはずよ。それに、ミディアムちゃんも」
長い睫毛に縁取られた目を伏せ、エミリアがこの場にいないミディアムに触れる。
彼女の不在は会議の参加者から除かれたというよりも、現状のコンディションの問題であるのが大きい。――あの、連環竜車で遭遇した最後の屍人が原因だ。
スピカの『星食』を受け、増殖する力を失って滅びを迎えようとしていたラミア。その呼びかけに従い、彼女の身柄を回収した屍飛竜とそれを操る屍人と化した飛竜乗り。
その人物と、フロップとミディアムの兄妹は生前関係があったらしい。
身近な人物が屍人となっていた事実にショックを受け、危機を脱せた今、ミディアムは要塞の一室にこもり、顔を見せないでいる。
あの、いつも明るくて前向きなミディアムがそうならざるを得ない出来事。
スバルも胸を痛めてはいたが、エミリアのように彼女を気遣えてはいなかった。だから今さらながら、エミリアの一言にハッとさせられる。
ゾンビの脅威ばかりに目がいって、それがもたらす悲しみを思いやれない自分に。
「……エミリア様のお考えとは少し違いますが、あのゾンビたちが厄介なモノってことは間違いないでしょう。そもそもが不自然な形で蘇らされているんです。不具合がまるでないなんて、その方が都合が良すぎるわけですが」
そのエミリアの意見に恥じ入るスバルを余所に、そう口を挟んだのはオットーだ。
しばらく状況を静観していた彼は、要塞の壁に背を預けながら天井を仰ぎ、
「ゾンビは、ただ蘇らされただけの存在ではないでしょう。ここまで大勢の……一部は一人の女性がたくさん現れた状況ですが、それを無視しても多くのゾンビを見てきました。その全員が、生前から皇帝閣下を恨んでいたとは思いません。さすがに」
「そうだな、さすがにそうだ」
「いくら何でもさすがにありえないかしら」
オットーの差し込んだ疑問と擁護に、ギリギリの信頼感がスバルたちを頷かせる。
いかにアベルが他者から傍若無人で冷血極まりない皇帝に見えていようと、恨まれるだけでなく、尊敬される皇帝であったことは間違いない。
これまで帝国を歩いてくる中で、その信じ難い事実に関してはスバルも実際に見聞きしていることだ。
つまり――、
「ヴィンセント閣下、並びにヴォラキア帝国に対する攻撃的な意識は、ゾンビとして蘇らされる過程で植え付けられたものか、増幅させられていると考えるべきです」
「洗脳ってことか。……妥当な意見だと思う」
「……後ろで戦ってる兵士たちから聞いたのよ。一緒に戦ってた兵士がやられたとき、その兵士がすぐにゾンビになって襲ってくるなんてこともあるそうかしら」
「直前まで味方として轡を並べていたものが、ゾンビと化した途端に襲ってくる、か。オットー殿の見立ては間違いなさそうだ」
「――。ええ」
ゾンビに関する私見を述べたオットーが、肯定的に意見したユリウスに素っ気なく応じる。その壁を感じる対応にスバルは眉を寄せたが、ユリウスやアナスタシアは気にした風もなく、それを自然に受け入れていた。
ともあれ――、
「オットーくんの意見だが、ちょうど君たちがくる前に宰相殿やドラクロイ伯とも話していたものでね。それによれば……そう嫌な顔をせずに」
「ロズワールと内政官との関係性の掘り下げは後日するとして、宰相殿も同様の意見をお持ちだった。だろう?」
ロズワールとセリーナ、二人から話題の水を向けられ、ベルステツが頷く。彼は両手を杖に置いたまま、視線の読みづらい糸目で会議の参加者を見渡すと、
「ラミア閣下の御人柄を思えば、二度目の生など望まれない。ましてや、それで一度目の生の死を覆そうなどと目論まれるはずがない」
「じゃあやっぱり、めちゃくちゃノリノリで襲ってくるように洗脳されてたんだな?」
「そう考えるべきかと。……無論、蘇らされて逆らえぬ身ならばと、あえて今の帝国が残るに値するか試そうと手は抜かれなかった可能性はありますが」
「だとしたらヴォラキア皇族……!」
「今はやめてほしい意気込みなのよ……」
正常であればしなかった判断と前置きしつつ、正常の成分が残っていても異常な判断を下した可能性が否定できないと、何故かベルステツは誇らしげだった。
いずれにせよ、ゾンビの思考が正常でないという意見は共有できているようだ。
「生き返ったゾンビは例外なく俺たちと敵対する。そういう意味でも、エミリアたんの言う通り、敵のゾンビアタックは一秒でも早く止めたい。そのために、スピカの力は必須だ。現実問題、これは譲れないと思う」
「あの数のゾンビですよ? それを一人一人、食べ尽くすまで手間をかけると? 現実問題というなら、それも無視できないと思いますが」
「必要ならそれをやる。おいしいところだけ齧ってあとはポイ捨てなんて覚悟で、俺はこいつの手を掴んだわけじゃねぇ」
ぎゅっと、比喩的な意味だけでなくスピカの手を握り、スバルはオットーに宣言する。
そのスバルの眼差しを受け、オットーが心中を覗くような目をスピカへ向けた。容赦のない疑惑の眼、それをスピカはスバルの手を握り返して向き合い、
「あうあーう!」
そう力強く、自分が茨の道を往く決心をしたのだと訴えるように唸った。
そのスピカの返事を聞いて、オットーは鼻から息を抜くと、
「言っておきますけど、僕を説得しても仕方ありませんよ。実際に彼女を作戦に組み込むかどうか、そこまでの発言力は僕にはないんですから」
「会議での発言力はなくても、お前の存在感は俺たちの中ででかいんだよ。少なくとも、身内を説得し切れねぇで他の誰かの説得なんてできるか」
「そうですか。なら、もう少し厳しく採点すべきでしたかね」
やれやれと肩をすくめ、そう答えるオットーはしかし前言を撤回する気はないらしい。
おそらく、彼からすれば連環竜車の戦いで、ラミア相手にスピカの『星食』を使わせた時点で、同じ綱を引く覚悟はしてくれていたのだろう。
それを確かめず、なあなあにしておくのをスバルが嫌がっただけだ。
「な~んて安心してるみたいやけど、まだウチがちゃんと説得されてへんよ?」
「うぐ……逆に、アナスタシアさんはどうしたら納得してくれる?」
身内のコンセンサスが取れたところで、半身内判定のアナスタシアが立ちはだかる。
少なくとも、この帝国においては一蓮托生の立場にある彼女は、苦い顔のスバルの問いかけに唇に指を立てると、
「ホントはそこも自分で考えてほしいんやけど、出ない答えでうんうん唸り続けるよりずっとええわ。――まずは、その子のできることの確定と、できればしたあとの影響の確認やね」
「できることと、その後の影響……」
「できることって、『ぞんび』がまた起き上がってこられなくすることよね? でも、したあとのことっていうのは」
「ナツキくんもエミリアさんも、『暴食』の権能がどんなひどいもんかは知ってるやろ」
アナスタシアの静かな指摘に、スバルが息を詰め、エミリアが目を見張る。
それも、当たり前だが触れられずに済ませられない内容だ。
『暴食』の権能、それがもたらした被害者は世界中にいる。
この会議室だけでもエミリアとユリウスがおり、要塞の中にはレムもいるのだ。――いや、周囲にも影響を与えるという意味では、誰もが『暴食』の被害者とも言える。
その権能をあえて利用する以上、リスクを見積もるのは当然のことだ。
「……今のところ、あの増えた娘のことは誰も忘れてないかしら」
「せやね。でも、何も食べてないとは誰も思うてない。『名前』でも『記憶』でもないかもしれんけど、その食べた何かが蓄積した先に、その子はどうなるん?」
「それは」
「ナツキくんがえらい疑ってたらしい、元々のその子に戻らんとも限らんのやないの?」
アナスタシアの容赦ない追及、それにスバルは口を噤むしかない。
できるのは根拠のない、感情的な信じるという祈りだけだ。ルイ・アルネブではなく、スピカという新たな名前を与えられ、違う生き方をすると選んだ少女。
ある意味、この子が生まれ持ってしまったと言えるこの権能を、正しいと肯定してくれる人間が多い方へ導かれることを。
「アナスタシア様、それは確かめようのないことと言えます。無論、警戒を欠かすべきではないと思いますが……」
「ウチも、ない商策を企んでない証拠は出せんよ。それならせめて、危ない道を進むだけの見返りがある確信は欲しい」
「それが、スピカ嬢の権能が振るわれた成果の確定というわけですか」
ユリウスが左目の下の傷に触れると、アナスタシアが「そ」と短く頷いた。
それから彼女はスバルとスピカ、その両者を一緒に眺め、
「価値もはっきりせん宝を持って商談にいく商人はおらん。せめて、それがどう役立つのかわからんと、売り文句も的外れになってまうからね」
「ごもっとも」
ラミアの襲撃が途絶えたことから、彼女が撃破できたことはおそらく確かだ。
しかし、他の根拠は存在と言動が怪しいウビルクの『星詠み』としての託宣のみ。懸念も解消できない以上、アナスタシアはこれでも十二分に譲歩してくれている。
せめて、スピカの『星食』の効果がゾンビに確かにあるのだと、それだけでも全員が納得できる形にならなければ――。
「――生憎、検証のために時間を割いている余裕はない」
そこへ飛び込んでくる低い声が、スバル劣勢の空気を無遠慮に掻き回した。
とっさに全員の視線が向かったのは、会議室の入口に現れた黒髪の痩身――会議の主役のはずが、遅刻して現れたアベルだ。
その傍らにフロップと、何故かジャマルを連れた彼は悠然と進み、足を止めずに円卓の空席へ堂々と座った。
そして――、
「なんだ、呆けた面をしおって」
「あんまり威風堂々と遅刻されたから驚いたんだよ。先に始めてろって話だったけど、お前は何してたんだ」
「早急に確かめることがあった。城塞都市へ急がせた理由の大部分はそれだ。――大たわけが残した言の葉の真意、その見極めをな」
悪びれもせずに答えるアベルに、スバルはその先の追及を躊躇った。
彼が口にした『大たわけ』というのが、おそらくは騙し合いでアベルを下し、彼を生かした臣下であったことは想像がついたからだ。
ただ一方で、この城塞都市へ急いだ理由というのが気になった。
「その、アベルに聞かされてたお話が、この街に大慌てできた理由なの?」
「無論、避難民の受け入れに最も適切な位置にあったのも事実だがな」
「まどろっこしい話はなしに、聞かせてくれん? さっきの、時間がないって話はどういう意味やったん?」
エミリアとアナスタシア、両者からの問いかけがアベルへと向けられる。
同じ疑問は会議室にいる全員が抱いているものだ。その、発言の真意を問う眼差しに、アベルは片目をつむると、その手指で円卓を叩いた。
硬い音が響いて、スバルたちの意識が彼の手元へ否応なく集中する。
「端的に述べる。俺がこの城塞都市で確かめたかったのは、ただそこにある神域……理外の四大に連なる帝国の大精霊『石塊』の所在と状態の確認にあった」
「四大に大精霊って……四大精霊ってやつか?」
「そうだ」
突然、思いがけない情報が飛び出して、スバルは目を何度も瞬かせる。
四大精霊に関しては、この異世界にやってきた当初もそうだし、ベアトリスと契約を結んで精霊術師になったときにも改めて教わった存在だ。
この世界で、最も強い力を持った精霊の中の精霊――とは、その一角にあのとぼけた鼠色の猫が交ざっている時点で、信憑性が怪しく思われるものの。
「では、帝国では四大の一角、『石塊』ムスペルの所在を掴んでいたのですか!」
「そ、それってそんな驚くようなことなのか?」
「当然だ。都市国家の『通り魔』、聖王国の『霊獣』はいずれも各国で揺るぎない信仰と畏敬を集めている。『石塊』も、同様の力を秘めた存在だよ」
「四大の大精霊と協力関係でも結べたら、それこそ国家の一大事……それこそ、城塞都市が再建中なんて嘘より、よっぽどなことやよ」
ユリウスとアナスタシアから立て続けに重大さを告げられ、スバルは素直な驚きに目を白黒させるしかない。
ただ、誰の訂正も入らないことと、エミリアとベアトリスが何やら自慢げな顔をしているので、その認識が正しいということで間違いないらしい。
問題は――、
「その『石塊』の所在と状態を確かめに城塞都市へ急いだなら、大精霊はこの地にいるということですか? 確かに、その力が借りられれば大きな援護になるでしょうが……」
無尽蔵に湧き上がってくる敵に対し、スピカの『星食』だけでは手が足りない。
当然、『星食』を炸裂させるまでの間、ゾンビの猛攻を押しとどめるための戦力はあるだけあるに越したことはなかった。もしくは、パックが現状のエミリア以上にエリア攻撃に特化していたように、『石塊』にも頼もしい力が。
「残念だが、そうは事が運ばないんだ。先ほど、皇帝閣下くんが時間がないと、そう話したのはみんなも覚えているだろう?」
「フロップさん?」
そのスバルの前向きな考えを、ゆるゆると首を横に振ったフロップが引き止めた。
ミディアムと同じく、常に明るく前向きな姿勢を保つ彼が、今は表情を引き締め、真剣な様子でそう言葉を発している。
如何なる理由でか、アベルに同行した彼は皇帝と同じものを見た。スバルたちよりも一足早く、結論を共有したフロップの表情がそれならば――、
「貴様たちが期待する『石塊』の助力は望めぬ。それどころか、『石塊』の存在はそのまま相手の……『大災』の利するところとなった」
「どういう、ことだ? 大精霊は――」
「敵の手中にある。おそらく、『大災』が無尽蔵に屍人を墓から起こすのに、その規格外のマナが利用されていよう。それ故に、奴らは際限なく湧き続ける」
「――――」
「そして――」
最悪の報告に目を見張るスバルは、なおも続けようとするアベルに信じられないものを見る目を向ける。だが、それは彼の言葉を止める抑止力にはならなかった。
会議室の張り詰める空気の中、アベルは止めずに続ける。
それは――、
「際限なくと表現したが、それは正確ではない。いかに『石塊』の持つマナが規格外であろうと、いずれは尽きる。それが尽きたとき、帝国の大地は終焉を迎える。――『石塊』の守護する神域、ヴォラキアの大地を支える力が喪失し、崩落を免れ得ぬからだ」
――真に帝国を滅ぼす『大災』の正体を告げる、凶報そのものだった。




