38.じゃあね
本日三度目の更新ですので、話数をお確かめの上ご覧くださいませ
廊下の奥から食器が触れ合うちゃかちゃという音が響いてきて、目が覚めた。
横たわったまま寝返りをうてば、ガラス窓一面の水滴を朝日が照らしている。
雨が降り、すぐに陽が出たらしい。
子どもの頃、雨上りの晴れ間には必ず、空にかかる虹を探しにお兄ちゃんと旅に出た。
久しぶりに、外に出て陽の光を浴びたいな。
「葉月ちゃんおはよう。いい知らせがあるよ」
朝食の配膳をしにやってきた看護師さんが、私の肩を叩き、その向こうに、手を振る医師の笑顔が見える。
いつもは問診を終えてすぐに出て行くはずの先生が、椅子に腰を落とした。
ついにこの時が来た。
覚悟の決まらない私に構わず、宣告が始まり、やがて終わる。
「退院、おめでとう。もう二度と、戻って来ちゃだめだよ」
医師が言った。
窓の外には、虹が出ていた。
翌日、私は五日ぶりに帰宅した。
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退院したその夜、お手伝いの田中さんはお休みで、お母さんとミセチチとお兄ちゃんが協力して(三瀬は部活)、私の快気祝いに野菜尽くしの豪華なディナーを作ってくれた。久しぶりに(というか、引越しをしてから初めて)家族全員が食卓に揃った席で、私の退院祝いに、近いうちに家族でデパートに買い物に行こうという、素晴らしい提案がお母さんによってなされた。
デパート!
ファストファッションや百均ばかりにお世話になっている私には、なじみが薄い。
さぞかし素敵な品々に出会えることだろう。わくわくして、大喜びで誘いに乗った。
食事中にお兄ちゃんは、「俺、野菜ソムリエ目指そうかな」と呟いた。
妹を健全に労わろうとする方向性としては正しいと思う。
どこまでも私を思ってくれる、お兄ちゃんのやさしさはいつでも私を救う。
「みんな、応援ありがとう。私、これからも頑張るね」
私は、ライブ中のアーティストみたいな格好良い感じで、少し照れながらあいさつをした。
次の日は祝日で、朝からリーフの鳴き声で目覚めた。
ずっとそばにいてくれた、やわらかな温もりが本当にありがたい。
リーフの頬の毛が、びしょびしょにぬれて肌に張り付き、貧相になっている。
夜に私が夢を見て泣いたのかもしれない。
悲しい夢ではなかったはずだが、思いだせない。
「リーフ、濡らしてごめんね」
「にゃ」
リーフを抱いて階段を降り、長い廊下を歩く。
ダイニングへ近づくごとに、ベーコンの焼けるいい香りと、お母さんとミセチチの楽しそうな話声が聞こえてくる。
「葉月ちゃんおはよう。体調はどう?」
三瀬父が言った。
「はい。もうすっかり元気です」
私は答えた。
「おはよう、葉月。朝ご飯、もうすぐできるよ」
お母さんは言って、アイランドキッチンの真ん中、ジューサーのスイッチを入れた。その瞬間、私は思わず声を上げた。
「あれ? なんかちょっと、静かじゃない?」
いつもはもっとガリガリとひどい爆音が鳴るジューサー。もしもこいつが人間だったら、こめかみに青筋立てて息も絶え絶えの必死さだろうなぁと哀れになるくらいの勢いで野菜を粉砕していくのに、今日は違う。
ふぉぉぉんと、優しげな音を立ててモーターは軽やかに廻り、これが人なら、これくらい朝飯前ですよとか言ってどや顔を決めそうなスマートさで、あっという間にジュースを完成させた。
「その赤いジューサー! ずっと前からお兄ちゃんがほしがってて、でも高くて買えなくて、特売日をずっと待ち焦がれていた、新しいやつだ!」
「ぴんぽーん! ついに買っちゃったのよぉ。さあ召し上がれ」
パジャマに寝癖の私がリーフを抱えて着席すると、朝から元気なお母さんの手で、グラスがことんとテーブルに置かれた。
特製野菜ジュースの中身は、細かく刻んだ小松菜と、ブロッコリーのくき(もちろん生のまま)、冷凍しておいたバナナ(五房で三百円の極選のやつ。プリンよりも甘い!)、林檎を半分、ブルーベリー(これも冷凍)、それらをまろやかにつつみこむのは、程よい甘みで包容力抜群の調整豆乳。砂糖なんか入れなくても、果物の自然な甘味でじゅうぶんおいしい。
「お母さん! この野菜ジュース、絶品! これまでの野菜ジュースと全然違う!」
今は亡き白いあいつ(特売で三千円だったジューサー)は、リサイクルショップに売られていったらしい。今までどうもありがとう。胸にドナドナが鳴り響く。
これまでのジュースは、どうしても野菜の繊維が残り、舌触りがざらざらとしたものだ。
それに比べてこのジュースは 野菜も果物もミクロに粉砕され、舌触りはなめらかでふわふわで、お店で六百円位なら払ってもいいほどにおいしい。
「そう! これが六枚刃の力だよ。我が家の野菜ジュースは、この新しいジューサー様のおかげで、おしゃれなスムージーへと進化したのよ」
「おおお! ありがたやありがたや。やっぱり世の中はお金だね」
「何やってんだよ。朝からうるせえな」
振り向いたら、ドアの入り口に三瀬がいた。
「げぇ」
私は思わず顔をしかめて、声を上げた。
「なんだよ、その嫌そうな顔。げぇってなんだよ、むかつくな」
「三瀬は今日は部活、無いの?」
「あるけど休むよ。行くんだろ、買い物」
「え! 三瀬も行くの?」
「わりぃのかよ!」
秋も深まろうとするこの時期に、なぜか上半身裸の三瀬が、私の首にチョークをかまそうとせまってくる。
「やめてよ、セクハラ! 触んないで。せめて服を着て!」
私は本気で逃げた。
「にゃ」
リーフが私の前に立ちふさがり、三瀬の魔の手から守ってくれた。ありがとう、リーフ。
やっとTシャツに袖を通して三瀬は「俺が飼い主なのに」とブツブツ文句を言いながら私の隣に座り、大きなグラスいっぱいに注がれたスムージーをがぶがぶ飲み、「白い方がいいんだけど」と文句を言いながら玄米ご飯を二杯おかわりした。私がご飯を半膳食べる間の早業だった。
三瀬は大きな口を開けてパクパクときれいに焼き鮭や卵焼きやみそ汁を平らげていく。その様子は豪快なのに、ガツガツとしたところがまるでなくて、すがすがしさすら覚えるほどで、まさに生きてる! といった具合に瑞々しい生命力に満ち溢れている。この人はきっと、長生きするんだろうな。そんなことを思いながら、ついつい見とれてしまった。
三瀬が口をもぐもぐしながら私を見る。
「なんだよ」
「いえ。もうちょっとよく噛んだ方が体にいいよ」
「うっせ」
三瀬はまたブツブツ言いながらも、咀嚼の回数をぐんと増やした。
いちいち悪態付かないと気が済まないだけで、意外と素直な人なのだろう。
お母さんとミセチチは早々に食事を終えて、二人で楽しそうに食器を洗う。幸せそうで何よりだ。
食事を終えた三瀬は、ダイニングテーブルの上に、ドリップコーヒーを二つ用意した。
目の前で滴り落ちる琥珀色の雫を眺めている私に、隣で三瀬が言う。
「今日の買い物でおまえは、親父にいろんなものを買ってもらうだろう」
「え? 急に何? そんな色々買ってもらうつもりなんてないよ。だって、デパートって高価なものばかり売ってるんでしょ?」
「大丈夫。あいつは成金だから。それにあいつすんげぇ張り切ってた。『葉月ちゃんの部屋は、今どきの女子高生にしては殺風景すぎる! もっとかわいらしいものを買ってあげたい!』ってさ」
「そんな悪いよ」
「遠慮するな」
「偉そうに……、三瀬が買うわけじゃないじゃん」
「ああ、そうだ。俺はお前に何も買ってやるつもりはない」
「はぁ」
「その点は期待するなよ」
「別に、そんなこと最初から期待してないよ。あ、コーヒーそろそろできたかな、ミルクミルク」
ブラックは苦くて飲めない。
「だが俺も鬼じゃない。おまえが無事に退院できたことを、神に土下座して謝意を表したいくらいに、ありがたく思ってる」
三瀬はブラックコーヒーを煽り、天井でゆっくりとまわる金色のファンを仰ぐ。
「ちょっと、どうしたの? さっきから口調がおかしいよ」
「おまえに、こいつをやる」
三瀬は、テーブルの下で私の足にじゃれついているリーフを抱き上げ、顔前に突き出す。
「こいつよりも先には絶対に死ぬな。約束しろ。最後まで責任もって育てろ。百年くらい長生きさせろ」
「……はい」
それは無理でしょうと思いながらも、三瀬の真剣な顔を見ていたら、自然に首が縦に動いた。
たぶん、彼なりに私を励ましてくれているんだろう。
私は、三瀬への恨みを込めて、これで最後の意地悪を口にする。
「この間の告白、謹んでお受けいたします。もしもこの先、私がもう死ぬしかなくなったら、その時は三瀬と付き合ってあげてもいいよ」
「ひでぇやつ」
三瀬は呟き、テーブルの下で私の手を握った。
私はその手をそっと包み、大きくて熱い掌を開かせ、その上にリーフの黒い手を乗せ、「じゃあね」と捨て台詞を残し、ダイニングを後にした。
その時、別れを告げた相手は三瀬じゃなくて、いつまでも過去のいじめを根に持つ、うじうじとして暗い私だ。




