16.冒険のこと
気持ちがすっきりしない。
わたしは休日に思い立って出掛けることにした。
最近人に連れられて、いろんな場所に行って少し自信がついた。気分を変えるためにもひとりで色々出かけてみようと思ったのだ。
「お母さん、わたし今日、ひとりで出かけてくる」
そう言うとお母さんは心配そうな顔をした。
「どこに行くの?」
「買い物。駅の方」
「真奈ちゃんは一緒じゃないの?」
「……真奈ちゃん今日バイトなんだ。新しいノート買おうと思って」
街に出るくらいなら大袈裟だと思ったけれど、全部正直には言ってないので少し罪悪感がある。
今日はハムカツサンドを食べにいこうと思っていた。
最初は浅間君のおじいさんのお店にしようと思っていたけれど、あそこのメニューにないことを思い出して、朝、真奈ちゃんに聞いたら、ネットで調べてくれた。駅近くに一軒だけあるらしい。
下を向いてボソボソと言ったけれど顔を上げてお母さんの顔を見て、やっぱり正直にうちあけることにした。
「あのね、わたし今日、喫茶店に行こうと思ってるの」
「喫茶店? どうして?」
お母さんは眉根を寄せて、思った通りの顔をした。
今までだったら絶対に言わない。
というか、そんなことをしようなんて、思いもしなかった。
けれど、浅間君と一緒に学校をサボったあの日からいろんなことがあって、わたしを少しだけ変化させていたし、お母さんもやっぱり、前と少しだけ変わった気がしたからだ。
お母さんは前と比べてお父さんと会話をすることが格段に増えた。これはお父さんのほうがお母さんに積極的に話しかけているからだ。
お父さんは今までは大体仕事で疲れて帰ってきて、ご飯を食べて寝てしまっていた。ろくな会話もしていないように見えた。わたしのことに対してもお母さんに任せていて無関心だった。それは上手くいっていると思っていたから。
お父さんは基本的には楽観的で大雑把な人で、お母さんはきっと、自分にない、そういうところを気にいったのだと思う。
ただ、完璧主義で抱え込むお母さんが、何も言わないと、いろんなことに気付かないし、何も気にしない。そして、お母さんは何も言わない。そういう性格だから。いろんな心配ごとを抱え込んで、お父さんを頼ろうとしなかった。
お母さんは真面目すぎるくらい真面目で、すごく心配症な人なのに、ずっと、意識の上ではひとりだけで家やわたしを守ろうとしていたのかもしれない。それで、なおさらわたしに対して過保護になっていた。
お父さんはたぶんゲームセンターでわたしの話を聞いて、初めて家庭の状況を知った。それからお母さんの入院。いろんなことがあって、お父さんの意識が変わった。変えようとしてくれている。
だからわたしの方も、お母さんと話をしてみようと思った。わたしだって、お母さんが心配するほどはもう子供じゃない。それを伝えたい。
あったこと、思ってること、嫌なこと、やりたいこと、そんなものをずっとお母さんに隠していた。だけど、きっとそれじゃ駄目だ。
「ハムカツサンド、食べたいんだ」
そう言うとお母さんは目を丸くした。
もちろん、今までの我が家の方針でそれが許されることでないことはわかりきっていたし、なぜ駄目かなんて理由もたくさん聞かされて知っていた。だからその上でそんなことを言い出したわたしにお母さんは戸惑っていた。わたしは、今までお母さんに自分の意見を言ったことが一度もなかった。
「お母さん、わたし食べたいものたくさんある。身体にいいもの、悪いもの、あるかもしれないけど、新しいものにふれて感動したい。……そ、それって、悪いことかな」
お母さんはわたしをじっと見て黙っていた。
「どうしてそんな風に思ったの? 誰かに何か言われた?」
「違うよ」
わたしは焦って首を横に振った。影響はあるけれど、わたし自身の意思だから。周りのせいにはされたくない。
「誰かに言われたってわけじゃないけど……周りと違いすぎて、やっぱりちょっと辛い……ううん、辛いっていうか、羨ましくて」
お母さんはすぐに口を開いていつもの調子で「和歌子はね……」と言いかけたけれど、その時扉が開いてお父さんが入ってきて、思い直したように口をつぐんだ。
わたしとお母さんは一瞬だけお父さんを見て、また互いに視線を戻した。ずっと緊張していて、汗をかいていた。身体が熱い。こぶしをぎゅっと握っていた。
「わたし、最近高校で新しい友達できて……みんなアルバイトとかしてて、すごくしっかりしているっていうか……なんだかみんなに置いていかれるような気がしてて……」
お母さんの少し後ろにお父さんが座る。
わたしは、はぁ、っと重たい息を吐いて、また口を開いた。口の中がカラカラだった。
「大したことじゃないけれど、今までひとりで街に遊びにいくことなんてなかったから、小さく自分を変えられるような、ほ、ほんの少しだけど周りに追いつけるような、そんな冒険をしたいと思ったの」
お母さんは依然困った顔のまま、ううん、と小さく唸った。表情を見ても、聞いてもらえているのかわからなくて不安になる。
「悪いことしたいわけじゃない。ちゃんと門限までに戻るし、わたしのこと……」
そこから言葉が継げなくなった。
小さくひっ、と嗚咽がこみあげて、唾液をごくりと嚥下する。わたしは間違ったことを言ってないだろうか。お母さんを傷付けてはいないだろうか。どんどん不安になってくる。
その時お母さんの背後に座るお父さんがほんの小さく笑って頷いてくれた。それを見たら、一気に涙がこみあげた。
「わ、わたしのこと、少しだけ……信用してほしい……」
ぱたぱたと涙が膝に落ちて、視界が歪んだ。
お母さんは口元を引きむすんでしばらくじっとわたしを見ていた。最初は怒ったような顔だったのが、俯いて、その表情を見えなくした。
それからすごく長く感じられる沈黙があった。
ようやく顔を上げたお母さんはなぜだか泣きそうな顔で笑ってみせて「行ってらっしゃい」と言ってくれた。
「いいの?」
お母さんは頷いたけれど、少しだけ目が潤んでいた。
「さっき和歌子が言ったことに対して、言いたいことはたくさんあるの」
「……うん」
「それでも、ね……今日は和歌子に負ける。苦しい思いをさせていたのは確かだから」
「あの、お母さん……」
話さなくてはならないことは、まだたくさんある。嘘をついていたこと、謝らなくちゃ。それから嬉しかったこと。悲しかったこと。ありがたいと思ったこと。お母さんが好きだから、話したい。
口を開いて何を話そうか言葉を選んでいるとお父さんが口を開いた。
「和歌子、出るのが遅くなるから今日はもう行きな」
「お父さん……うん……」
お父さんの言葉に背を押されて扉を出た。
玄関前の姿見で涙を拭いて髪を整えた。
出てきたお父さんに小さい声で言う。
「お母さん、わかってくれたかな?」
そう言うとお父さんは苦笑いして首を横に振った。
「いや、まだまだ、これからだよ。あれじゃ余計心配になる」
「そ、そっかぁ」
「でも、気持ちは伝わったと思うよ。だから和歌子をやりこめるのは簡単だけれど、譲ってくれたんだ。説得はできなくても気持ちが伝えられたんだから充分だ」
「ほんと? でも、まだ言ってないこと……」
お父さんは笑いながら首を横に振った。
「あまりいっぺんに言おうとしないほうがいい。お母さんも今、色々変わろうとしてるから。人はそんなに急に何もかもは変われないんだ。全部言うのは和歌子がもっとしっかりして、お母さんが和歌子に安心できるようになってからでも遅くない。説得はこれから長い時間をかけて少しずつ。それまでは、気づかれない程度に好きにやればいいぞ」
たしかに、今日はまだボロボロで格好悪くて、しゃっきり言えなかった。追加で嘘をついていたことまで言ったらせっかく出かけるのを許容してもらえたのに、それすらなくなってしまいかねない。
「でも、ズルくないかな」
お父さんは「狡さも、大人には必要なんだよ」と、お母さんが来世でも言わなそうな台詞を吐いて笑った。
「それまではまだ色々、お父さんとの秘密にしておこう」
「……わかった」
「和歌子のおかげで俺も生活を見直せたよ」
「そうなの?」
「そう。何かがないと寝て起きて、仕事して、変化のない繰り返しを惰性で続けてしまう。いろんなことに気付けずに。俺はずっと、自分が家族に無関心であることにも気づいていなかった」
「うん……」
「お母さんはもともと伯母さんのことがあって、和歌子をまっとうに育てたかったんだろうけど……ひとりで完璧にやろうと思い込み過ぎたんだな……俺はずっと、気にもせず、それで上手くいってると思い込んでいた」
「……うん」
お父さんの言葉を聞いていたら、わたしが何か言って解決するようなものではなかったような気がしてきた。もしかしたら、これはお母さんとわたしの問題ではなくて、お母さんとお父さんの……いや、家族みんなの問題だったのかもしれない。
伝えようとしないお母さん、気づかないお父さん、伝えようとしないわたし。だけど、ほんの少し繋がった。
「気をつけていくんだよ」
「うん。行ってきます」
その時お母さんも出てきて「気をつけるのよ」と言うので、わたしは駅前に行くだけなのに大冒険に行く勇者のように両親に見守られて、玄関を出ることとなった。
玄関を出て、小さな一歩を踏み出す。




