38話 どっちも病んでた
町がどんどん遠ざかる。
花火の音も小さくなっていた。
チェシャ猫さんがやれやれとドラゴンの背に腰を下ろす。
「はあ……ようやく追っ手を振り切ったね」
「ありがとうございます」
わたしも緊張の糸が切れ、ふらりと前につんのめった。
鞍もないので、ドラゴンの背の上は不安定だ。
「ひゃああっ!」
「白ウサギさん!」
わたしより早く、真っ赤なジャケットに包まれた腕が白ウサギさんをつかむ。
「シロちゃん、落ちないでよォ?」
「転落リスク100%! なぜ安全ベルトが無いのです!」
「ねェ、悪いけど抱いててくれるう?」
「あ、はい」
白ウサギさんをしっかり抱きかかえながら、わたしは後ろをふり返った。
野太い声で女言葉を話す、ハートの女王。
赤い髪は長いし、お化粧しているけれど、どう見ても男性だ。
「……なんで女王が男性?」
「こっちの方がウケが良かったのよォ」
アイシャドウばっちりの目でウィンクされた。おネエだ。
「ウケって……悪魔がそんなの狙わないといけないんですか?」
「客商売してるからねぇ」
チェシャ猫さんが紙を一枚、差し出してきた。
『ようこそ、“不思議の国”へ!
笑顔と感動、時々ホラー。
アリスの悪魔たちが贈る究極のワンダーランド!』
煽り文句に、白ウサギさんやハートの女王のイラスト。
完全にテーマパークのチラシだ。
今は隣国に入口があると書いてある。
「まさか不思議の国が実在して……?」
「うん、実在するよ。割引券いる?」
すっかり商売人だな!
「亜空間に作ったんだよ――正確には、作らされた、だけど」
「チェシャ猫さん、魔法でそんな広い空間作れるんですか!?」
これまた、人間には不可能な領域だ。ため息が出る。
「アリスのわがままでさあ。維持魔力がきついったらないよ。
それがなかったら、俺一人でも白ウサギとニナの救出できたのに」
紫色の髪をくしゃりとかきながら、チェシャ猫さんはぼやいた。
なんだかんだ、嬉しそうでもある。
「アリスさんはもういないのに……それでも維持を?」
「不思議の国は、今や俺たちの狩場だからね」
「あ、そっか。ここなら楽しいとか嬉しいって感情がいっぱい……」
「そう。アリスが布教してくれたおかげで、『不思議の国のアリス』はクライス教圏以外じゃ人気なんだ。
ファンが多くて助かるよ」
ファンなら、来ただけで幸せ。
悪魔にとっては、まさに理想の食堂だ。
「チェシャちゃん、昔は町一つ分の人間を亜空間に取り込んで、恐怖を食べる大悪魔だったのにねぇ。今じゃ真逆」
「うるせえよ」
女王をにらみながら、チェシャ猫さんは棒付き飴を口に運んだ。
突然、その手が肘から落ちる。
マネキンみたいに、腕がゴロリと下に転がった。
「だっ、大丈夫ですかっ!?」
「あー……こりゃもうダメだな」
落ちた左腕は黒いもやになって、空気に溶けていく。
「ヘーキヘーキ。不思議の国についたら再生させるよ」
気楽にいうけれど、見ている方は痛々しい。
わたしは腕を拾い、元の位置に強く押し当てた。
「ちょっと待ってくださいね。最近、楽しかったこと思い出すので」
「楽しかったこと?」
「喜びの感情を食べれば、少しは回復するかと思って」
チェシャ猫さんが笑った。
「もっと簡単な方法があるよ。俺のこと、撫でてくれる?」
「撫でる?」
「うん。治れ治れって念じながら」
そんなことで治るんだろうか。
半信半疑だったけど、願い通りに傷を撫でた。
すると、だらりとしていた腕に力がこもり始めた。
支えなくても、自力でその場に留まる。
「本当にくっついた……」
「ニナの愛のおかげだよ」
チェシャ猫さんは満足げに、左手をひらひら動かした。
踊る手から漆黒のもやが立ち上る。
「君の愛が俺を満たす。あふれるほどに」
真っ赤な舌がもやを余さずなめ取った。
他の二人の悪魔が、物欲しげに喉を鳴らす。
「そんな都合のいい話」
「まじめな話だよ」
チェシャ猫さんが顔を寄せてきた。
「悪魔にとって最高の食物はね――自分に向けられる愛、なんだよ」
わたしの腕の中で、白ウサギさんがウンウンとうなずく。
「その通り。アリス様に愛された我々だからこそ知る真理です」
「アリスちゃんみたいに、偏見なくアタシたちを愛せる人間なんていないと思ってたけど――本当にいたのねぇ」
背後から、ハートの女王がしなだれかかってくる。
わたしの半径五十センチ内の悪魔密度が急上昇した。
「よかった……アリス様がお亡くなりになって100年余。ようやく新たな主人が」
白ウサギさんは眼鏡を外し、ハンカチで目元を押さえる。
「元の『不思議の国のアリス』を知ってる転生者。これほどの適役はおりますまい」
「ねえ? 運命ってやつよォ」
頬をすりすりしてくるハートの女王。
え、ええー……?
歓迎されてるのは嬉しいけど、困る。
(アリスさんの代わりとか無理ですってばーー!)
反社会的勢力のボスポジションはご遠慮したい。
「どうしたのぉ、ニナ? 不安の感情が出てるわよ?」
「あの……わたし、ごく平凡な転生者なので、その……」
「難しく考えないで。居てくれればいいのよぉ」
村人Aが魔王にジョブチェンジするようなもの。苦悩しますって。
「何かできるわけでもないですし」
「していただかなくて結構。不思議の国の運営はワタクシがしておりますし。
貴女様はただ居るだけでよいのです」
胸に手を当てて、礼儀正しく白ウサギさん。
居るだけでいいなら、銅像じゃダメかな?
「ニナ、不思議の国はいい場所だよ。使徒も手出しできない安全地帯。
服も食事も、君の望むままに」
チェシャ猫さんが善意をたたえて微笑む。
「あそこなら人間の究極の願いだって叶う」
「究極の願い?」
「不老不死さ。俺の作った亜空間は時の流れが違う。君はずっとその姿でいられる」
わぁ、すっごーい!
――でも、そんなの、ぜんっぜん望んでませんから!
「チェシャ猫さん、わたし」
普通におばあちゃんになるまで生きて死ぬのが夢なんです。
そう言おうとした瞬間、棒付き飴が口に押し込まれた。
「アリス亡き後、俺たちを愛してくれる人間なんていないと思ってた」
チェシャ猫さんは両手でわたしの頬を包みこんだ。
まるで壊れ物を扱うように丁重な手つきで。
「まして、俺を知ってる人間が現れるなんて夢にも思わなかった」
「フェ、フェシャ猫ひゃん……?」
飴のせいで満足にしゃべれない。
リンゴ味のそれは、人を堕落させるように甘ったるかった。
「君は俺を好きって言ってくれたよね。
俺も君が大好きだ。一緒に不思議の国で暮らそう」
熱っぽい瞳で見つめられる。
開いた口からとがった八重歯がのぞいた。
「ずっと、永遠に。君の愛を俺だけに食べさせて」
頬がひきつる。
(こっちも病んでた――ッ!)
思わず後ずさるけど、背後はハートの女王だ。がっちり捕まえられる。
「独り占めはダメよぉ、チェシャちゃん。アリスはみんなのものって決まってるでしょ?」
「アリス様の膝はワタクシの特等席でした」
「膝は俺のだろ、ウサ公」
争いはじめるチェシャ猫さんと白ウサギさん。
(いやーっ! もう一緒に暮らすの決定事項になってるーっ!)
逃げたいけど、現在地は高度数百メートル。
飛び降りたら即ゲームオーバーだ。
(不思議の国行直行便、キャンセル希望――ッ!)
涙目で空を仰ぐ。
頭上では、まんまるな月が冴え冴えと光っている。
(……鳥?)
月をさえぎった影に、目を細める。
鳥じゃない――人だ。
人が落ちてくる。
月下に光るのは、振りかざした剣。
(嘘)
ミシェル様だった。




