37話 逃避行
子どもたちの劇を鑑賞し、広場でダンスに参加して。
お祭りの日は、夢みたいに楽しく過ぎていった。
夕方には屋台でお腹を満たし、夜の花火に備える。
「お手洗いに行きたいんですけど……」
「ああ、はい。外しますね」
手枷から鎖が外れる。
用を済ませて戻ると、ミシェル様の姿がなかった。
(どこ行ったんだろう?)
十分ほど待ってみたけれど、戻ってこない。
人でごった返している公園を歩き回ってみても、探す姿は見当たらなかった。
(もうすぐ花火が始まっちゃう)
焦りを覚え始めたころ、足元を白い何かがすり抜けていった。
「ああ忙しい、ああ忙しい」
聞き覚えのあるセリフ。
弾かれるように、その白い物体を見やる。
「時間がない、時間がない!」
大きな懐中時計を携えて、服を着た白いウサギが走っていた。
(『不思議の国のアリス』の、白ウサギ!?)
心臓が跳ねた。
周囲を見回す――今度はミシェル様が“いない”ことを、確かめるために。
(追おう!)
白ウサギの後を追って、わたしは駆け出した。
茂みをかき分け、細い路地を抜け、再び明るい大通りへ飛び出す。
通りの端から、覚えのある声が聞こえてきた。
「さあさあ、君はどの味が好き?」
紫色の髪をした青年が、手をひと振り。
途端、色とりどりの棒付き飴が現れた。
子どもたちが声を上げてはしゃぐ。
信じられない思いで見つめていると、向こうが顔を上げた。
「お待たせ、ニナ」
飴売りの青年は、にっと歯を見せて笑った。
パァン、と空で光が弾ける。
花火の明かりが緑色の瞳をきらめかせた。
「本当に来てくれたんですね、チェシャ猫さん」
「行こう。君を、俺たちの“不思議の国”へ連れていってあげる」
この好機を逃したら、もう二度と逃げられないだろう。
わたしは迷わずその手を取った。
「町に張られてる結界のせいで、外へ空間移動できないんだ。走れる?」
「大丈夫です」
そう遠くない。手を引かれるまま走り出す。
「急いで急いで!」
白ウサギさんも、ぴょんぴょん跳ねながらついてくる。
スーツ姿のウサギなんて珍しいけど、だれも気にしなかった。
みんな打ち上げられる花火に夢中だ。
「お仲間の救出成功、おめでとうございます」
「どうもアリガト。そっちは相変わらずだね」
チェシャ猫さんは息一つ乱さず返す。
見た目は人間でも、悪魔はやっぱり体の作りが違うみたいだ。
「ぜんぜん近づけなくて参ったよ。例の使徒が恋人かよってくらい張り付いてんだもん」
「それがですね……」
事情を説明したいけど、走りながらは無理。
ともかく今は、足を動かすことに集中する。
町を囲む塀を目指し、人気のない路地へ入った。
「外で仲間が待ってるから――」
「その手を離しなさい」
銀のナイフが、チェシャ猫さんの胸に突き刺さった。
「穢らわしい悪魔が」
塀の上から、ミシェル様が剣を手に飛び降りてきた。
「――本当に、ちょこまかと」
斬られる直前、チェシャ猫さんは得意の空間魔術で姿を消した。
「すばしっこい泥棒猫ですね」
ミシェル様は片手に剣を握ったまま、わたしを抱き寄せた。
「すみません、ニナ。囮にするようなことをして」
「おとり……?」
「あなたを一人にすれば、アリスの悪魔が現れるかもしれないと思ったんです」
いなくなったの、わざとだったんだ。
「困ったものですね。あなたは魂までも清らかだから、悪魔を引き寄せてしまうのでしょう」
ミシェル様はわたしの額に口づけを落とした。
氷のように冷えた瞳で、白ウサギさんを見据える。
「ああ、もう! 時間がない時間がない!」
白ウサギさんはぴょんぴょん跳ねながら、懐中時計を高くかざした。
「時よ止まれ!」
瞬き一回の間に、景色が変わっていた。
わたしはチェシャ猫さんに抱えられ、路地を移動していた。
「え――まさか」
「時間、止めたよ!」
「時間魔法なんて使えるんですか!?」
「一日一回、数十秒が限度ですけどねえッ!」
並走している白ウサギさんが付け足す。
それでもすごい。人間には扱えない領域の魔法だ。
さすが悪魔、と感心してしまう。
「よしっ、脱出成功!」
町の外へ出たところで、チェシャ猫さんがわたしを地面に下ろした。
「お仲間が待っている……んですよね?」
ブドウ畑の丘陵地を見回す。
それらしき人影はない。
代わりに、金髪碧眼の美女がいた。
「ようやく来たのね……アリスの悪魔さん」
出てきた門のすぐそばに、アナイスさんが立っていた。
両手に握られた短い双曲刀が、冷たく月光を反射する。
「ニナを離して……」
切っ先がチェシャ猫さんに向けられた。
「そしたら見逃してあげるわ……」
「わーお。俺がここにくるって、よく分かったね」
チェシャ猫さんの姿が、ふっとかき消えた。
次の瞬間、アナイスさんの背後に現れる。
手に雷をまとった警棒を持って。
「しばらくビリビリしてて?」
「残念ね……」
アナイスさんは動揺ひとつ見せず、その腕を斬り払った。
「あなたがこうすることは、十秒前に分かっていたわ……」
「――んんっ?」
チェシャ猫さんはまた消え、今度は五歩右に出現する。
でも、アナイスさんはすでにそこで待ち構えていた。
「あんた、“予知”のスキル持ちか!」
「降参なさい……」
チェシャ猫さんのもう片腕が斬り落とされた。
わたしは思わず飛び出す。
「アナイスさん、やめて! 攻撃しないでください!」
必死で胴にしがみつく。
「わたしは攫われたんじゃありません! 逃げるのを手伝ってもらってるんです!」
ミシェル様そっくりの青の瞳が見開かれた。
双剣の切っ先がわずかに下がる。
チェシャ猫さんはすぐさま両腕を拾い上げ、くっつけた。
「お願いです、見逃してください。今しか逃げるチャンスがないんです」
「ニナ……でも……。悪魔はさすがに危ないわ……」
アナイスさんは剣を構えないけど、完全に下ろしもしない。
説得の言葉を探していると――夜空が震えた。
花火の打ち上げ音にしては低く、凶暴な音。
何か大きな生き物の咆哮だ。
「来た来た。最強の乗り物が」
チェシャ猫さんが口の端を上げる。
「13分遅れですよ!」
白ウサギさんが懐中時計を掲げてぷんすかしている。
わたしは言葉を失った。
巨大な影が夜空を覆っていた。
赤いうろこが花火に照り映え、獰猛な瞳が金色に光っている。
翼の風圧に息が詰まり、心臓が飛び跳ねる。
「――ドラゴン!?」
二度目の咆哮は花火の音をかき消し、ブドウ畑の蔓をざわめかせた。
アナイスさんの緊張が、抱きついた腕越しに伝わってくる。
「チェ、チェシャ猫さん! なんですか、あれ!?」
「大丈夫。ハートの女王が精神支配の魔法を使ってるから」
遠目で分かりづらいけれど、ドラゴンの頭上に人が立っている。
あれがハートの女王なんだろう。
「ニナ、行くよ!」
「ひゃ――っ!」
チェシャ猫さんが右手で白ウサギさんを、左手でわたしをつかんだ。
転移魔法で、あっという間にドラゴンの背の上だ。
「ニナ!」
すごい。アナイスさんが塀を駆け上り、ドラゴンへ飛びかかってくる。
首を狙ったけれど、刃はうろこに弾かれた。
「無理無理。使徒でも三人は欲しいね」
チェシャ猫さんが地上に落ちていくアナイスさんを見下ろす。
「ニナ、戻って! 悪魔は危ないわ!」
心配は分かる。
でも、もう戻れない。
わたしはドラゴンの背に、落ちまいとしがみついた。
「ニナ!」
もう一度だけ眼下をのぞく。
追いついたミシェル様が、こちらを仰いでいた。
悲痛な呼び声に、胸が痛む。
(ごめんなさい)
そして、さようなら。




