30話 甘い毒
ミシェル様の次の任務が決まった。
今度は王都で三日間、新人騎士たちの指導だ。
「宿舎は使わず、毎日ここまで帰ってくるので。待っていてくださいね」
ミシェル様に抱きしめられると、わたしの心は曇った。
(……こういうの。いいのかな)
恋人でもないのに。
(ミシェル様の結婚相手が、こういう場面を見たら傷つくんじゃないかな)
たとえ心身の回復のためであっても、婚約者が異性とくっついていたら穏やかじゃいられないと思う。
ふっと、想像した。ミシェル様と結婚する相手を。
きっとミシェル様の横に並んでも見劣りしないような、美人で気品のあるご令嬢だろう。
二人が寄り添っている姿を想像したら――また胸の奥に痛みが走った。
「ニナ?」
気づくと、ミシェル様がわたしの顔をのぞき込んでいた。
「大丈夫ですか? どこか具合が悪いですか?」
「いえ、大丈夫です。なんともありません」
「せっかく毎日王都まで往復するので、何か欲しいものがあれば買ってきますよ?」
「別に何も」
「薔薇リンゴのタルトか、三段重のチョコレートコレクション。どちらが気になります?」
「本当に、何もいりません」
わたしはミシェル様の胸を押して、抱擁から逃れた。
「お仕事、がんばってください」
「……はい。行ってきます」
ミシェル様が転移の呪文を唱えようとしたところで、メイドさんがやって来た。
何やらメモを渡す。
「兄が、解呪の方法を突き止めたみたいです」
「早いですね!」
「試してみて欲しいとのことなので、やってみますか」
ミシェル様はわたしの額に手を当て、メモに書いてある呪文を読み上げた。
パチパチッとわたしの周りで白い火花が散る。
……解けた、のかな?
「これで一日以上離れて何も起こらなければ、成功ですよね」
「そうですね」
うなずき、ミシェル様ははたと動きを止めた。
「――ということは、試しに一日離れてないといけないですね」
「そうなりますね」
少し心が軽くなった。
今日と明日は、ミシェル様と一緒にいて、やましい気持ちになることから解放される。
「……行く前から、もう帰りたい」
「いってらっしゃいませ」
うなだれるミシェル様を、わたしはメイドさんと一緒に送り出した。
(問題なく祝福が解けていたら、この後どうしよう)
バルコニーから快晴の空を見上げ、先々のことを考える。
たぶん、望めば家に帰してもらえるはずだ。
監視も免除してくれようとしていたくらいだし。
(できるだけお金を貯めよう。で、他の国に移住しよう)
その時は、死んだことにしてしまおう。そうすれば使徒からノーマークだ。
(もう怯えることなく、自由に暮らせるんだ)
感動で心が震えた。
無事に逃げ延びた自分を思い浮かべて――気づく。
(……この国を出たら、わたし、一人で生きていかなくちゃいけないんだ)
喜びに満ちていたはずの心に、すきま風が吹いた。
(何もかも捨てて、一人で)
膨らんでいた心が急にしぼんだ。
心細さに、じわっと涙が出てくる。
「ねえ、新しい娘。ちょっといい?」
ノックの音。お義父様だ。
目元をぬぐって、ドアを開ける。
「今日、暇?」
「暇ですけど」
「良かった。一日、ぼくのお供をして」
「……お供?」
「昼と夜にパーティーがあるから。女除けにパートナーが欲しい」
「わたしがですか!?」
急な話にうろたえる。
「いつも頼んでる人が、何をトチ狂ったのか、ぼくに熱心に言い寄ってきてさ。
昨晩、川に放り込んだ。どうなったかは知らない」
「はい!?」
「ぼくは、妻以外は女性に見えないって公言してるのに。なんで理解できないかな」
ふう、とアンニュイにため息をつくお義父様。
今日も言動がぶっ飛んでる。
「と、いうわけだから。行くよ」
「ミシェル様の許可が」
「ここではぼくが法だけど?」
あかん。これ、抵抗してもムダなやつ。
「作法、ぜんぜん分からないんですけど!」
「そんなの、ぼくの手の届く範囲にいれば100点満点」
お義父様の手がわたしの腰に回された。
「離れたら0点。理解した?」
「しました」
うん! なんてシンプル!
「十分で準備して」
「はいいっ!」
ひー! なんて急な展開ー!
わたしはメイドさんと急いで身支度した。
その日、わたしはともかく笑顔でお義父様の隣に立っていた。
緊張しつづけで疲れた。夜の立食パーティーではぐったりしてた。
「ご苦労さま。料理、こんなものでいい?」
「ありがとうございます」
受け取ったお皿から一品食べようとして、以前に教えられたマナーを思い出した。
「……あのー、わたし、お義父様に食べさせた方がよろしいんでしょうか?」
うわ。お義父様でもドン引きってするんだ。
「ミシェル様から、パートナーにそうするのが、最高のもてなしと教えられたんですが」
「ああ、そういうこと。本命以外にはやらなくていいよ」
「そうなんですか」
……ん? 本命にやること?
それをミシェル様、なんでわたしに?
(……きっと、親切で実演してくれただけだよね)
ミシェル様は優しいから。
異端者のわたしにも。
(あんまり、食欲湧かないなぁ……)
手の込んだ料理ばかりでおいしいはずなのに、食が進まない。
すぐそばで、お義父様はワイングラスを傾けている。
とても近い距離にいるのに、何も思わない。
(ミシェル様がそばにいると、よくむず痒い気持ちになるのに)
不意に、額に手をあてられた。
「大丈夫? 食欲ないみたいだけど」
「緊張しすぎて、おなかも空かないみたいで」
今日一日、お義父様と一緒にいて、気づいたことがある。
ミシェル様とお義父様では、エスコートがぜんぜん違うってことだ。
どちらも手慣れていて丁寧だけど、お義父様のそれは温かみがない。
どこまでも事務的で、パートナーという“物”を扱っている雰囲気。
額に手を当てるしぐさも「オーバーヒートしてないかな?」と、機械の動作確認をしている風なのだ。
対して、ミシェル様は――
(わたしを、ちゃんと人として心配してるって感じなんだよね)
今朝の、わたしを気遣ってくれた表情を思い出す。
きゅうっと、胸が締め付けられたように痛くなった。
(ああ、なんでこんなに次々と思い出すんだろう)
わたしを呼ぶ声。
穏やかな微笑。
そっと触れくる手指の温度。
(でも、あれはわたしの手には入らないんだ)
急に、足元が暗くなった気がした。
明るい日差しにいた後で見る影は、いっそう濃い。
「……捨てられた子犬みたいな顔してるね」
不意に、お義父様がわたしの横髪をかきあげた。
「天使ちゃん2号の腕の中に、早く帰りたくて仕方ないんだね」
心細くなっている心情を言い当てられて、うろたえる。
「違います!」
「ぼく、忠犬の健気さには弱いんだよね。
人のものでも、そういう姿を見ると愛おしくなる」
犬猫の頬を撫でるかのように、お義父様はわたしの頬を無遠慮に撫でてきた。
「帰ろう。後はうちの砂糖菓子ちゃんにたっぷり甘やかされるといいよ」
「ミシェル様は今日は帰ってこないですし、別に大丈夫です!」
「それはさみしいね。あの子の肖像画プレゼントするよ」
「いりません!」
「絵より物品派だった?」
「そういうことじゃないです!」
ミシェル様の苦労が少し分かった。
この人、話が一方的過ぎて疲れる。
グラン家に戻って寝間着に着替え、ベッドに倒れ込む。
寝具は清潔で、柔らかくて、温かい。お日様のにおいがした。
(早めにここを離れよう)
ここの生活はどこまでも優しくて甘くて、だから辛い。




