第二章 朝陽を二人で迎える
朝日が部屋に差し込んだ所でアーサーはパチリと目を覚ます。騎士団で培った生活リズムはどんなに疲労していても変えられない。
隣を見れば昨日妻になったミサキがスヤスヤと寝息を立てておりその表情は穏やかだ。
一晩が経ちアーサーは世界が一変したように彩られた気がした。
ミサキは男と閨を共にするのは初めてであるとベッドの上で告白してきた。
痛みを堪えるミサキが唇を噛み締めるのでアーサーは自分の人差し指を噛ませたので有る。
処女を奪った瞬間の証が人差し指に僅かに刻まれているが其れすら愛おしい気持ちになる。
思えばアーサーの毎日は実に平坦で面白みも無かった。年寄りと騎士団の男どもと絵面の冴えない日々を送り、貴族の義務や仕事の重責で表情は硬かった。金を稼ぎ執事や乳母に食べさせていく事ばかり考えていたが、そのメンバーに今度からミサキが加わるのだと思えば急に仕事に対しての意欲が湧いてくる。
(家族が出来るって良いものだな)
王命を聞いた時は『何でだ?褒美でも何でもない寧ろ厄介ごとでは…』と疑問ばかり浮かんでいたがミサキとの一夜でスッカリ心持ちが変わった。
ツルンとしたシミのない肌に何度もキスをするが無理をさせた彼女はまだ起きそうもない。
どのくらいそうしていたのかコンコンコンコンとノックの音が聞こえる。
アーサーは下穿きだけを素早く身につけるとミサキを起こさないように寝台から滑り降り執事から朝食を受け取った。
「ミサキ様は?」
「まだ休んでる。
多分昼まではゆっくりするだろう。だからそのくらいの時間に飲めるスープを用意してもらえるかな?」
ディートは畏まりました、と一礼すると静かに出ていき、後ろに控えていたエストは鋭い視線でアーサーをひと睨みした。
蛇のような視線に思わず股間が縮むが深呼吸で無かったことにする屋敷の主人………情け無い。
2人が遠のく足音を聞きながらアーサーは再び寝台に戻る。
ベッドシーツは誰がしたのか3枚重ねになっていた為、昨晩の事後にアーサーが剥ぎ取った。
汚れた敷布のまま聖女を寝かせるのは忍びないと思い自分で全て入れ替えるつもりであったが使用人の心遣いに首を垂れる。
童貞が暴走するのは当たり前なのか…?
心を見透かされた様で思わず赤面した。
手拭は気を利かせて大判が5枚、小さめのものが10枚でミサキを綺麗に拭うことが出来た。
聖女だからもしかして処女を失えば力が無くなるなどの縛りでもあるのかもしれない。
しかし、見たところ彼女の清廉さは全く失われた様には見えなかった。
違う民族だからなのか肌の肌理が細かく、あまりシミがない。
癖のない黒い髪が枕に広がりそれさえも美しく見えた。
『良かったな。すげぇ美人な奥さんで』
マーロンの言葉が頭に蘇る。
アーサーは恋に落ちた。
そう。落ちたのである。
恋をするとかでは無く『オチル』がまさにピッタリと嵌まる。
あまり物に執着せず、食べることや養うことに必死で生きてきたアーサーが初めて『愛したい』と個人に対して持った感情だ。
昨夜、自分の腕に包まれるミサキを見てあまりの幸せに涙が出てきたくらいだ。
『俺が今まで頑張ってきたから神様がご褒美をくれたんだ』
今まで信心深い人間ではなかったアーサーだが、朝日の中マークス神に祈りを捧げた。
アーサーは自分を不幸だと思ったことは無かった。
しかし女性が苦手だったのは母親のせいだったかもしれないとふと思い至る。
身分に関係なくアーサーは女性に対して身構えるところがあった。
令嬢として何不自由ない生活を送っていた母は父とは恋愛結婚で結ばれた。
貴族としては歓迎されないことではあるが、アーサーが胎に宿ったから慌てて結婚したというのがクロフォード家の事情だ。
両親に反対されながら結婚した母はクロフォード家の貧しさに初めは驚き泣き崩れたと聞く。
愛があればお金なんて要らない!と声高に叫んだものの本当の貧乏を令嬢は知らなかったのである。
食べることにも事欠くような生活は苦労知らずの令嬢を疲弊させ寿命を縮めたのだろう。
母はアーサーの成人を待たずして亡くなった。
そして父は母を愛していたからこそ闇雲に働き体を壊した。
幼い時の記憶では母はいつも困った顔をしていた。
実家を頼りたくないと考えてはいたようだが、急な出費の際は仕方なく実家に僅かばかりの融資を頼む。
その時に実兄の嫁に必ず嫌味を言われるらしく目元に泣き腫らしたあとをつけたまま帰ってくることが多かった。
アーサーに物心ついた頃から『貴方が出来たから結婚することになったの』と困ったように話して聞かせた。
自分と父が燃え上がるような恋をしたのだ……と語った口で『でも自分の行いは実家の親たちから叱られ……私は嫌われてしまった。』と涙ぐんで締め括られる。
母はアーサーを嫌っていたわけではない。だが、正しく母親の姿をしていたかと言えば違うと言える。
母親らしいことをせず、自分の身を心配するような面が多々あったからだ。
少女のまま恋愛に身を焦がし、子供が生まれても少女のままの精神で大人になりきれなかった。
アーサーが学院に入学する時も『入学式に来ていくドレスがないから行きたくない』と父親に駄々を捏ねていた姿は今でも忘れられない。
貴族学院の制服を誂えて貰った当然のことでさえ少年のアーサーには後ろめたいと感じさせる母親の言動は乳母達から窘められることもこの頃は多かった。
そんな風に常に金の話をされていた事から自然とアーサーが騎士団を目指したのは当然の成りゆきであった。
嫡男が騎士になることは貴族の家では決して喜ばしいことでは無い。
有事の際は力のない貴族は前線に送られてしまうからだ。
父親はすまなそうに『怪我に気をつけろよ。』と言い、母は
『アーサーが騎士になったら少しはご飯が沢山食べられるかしら?』と微笑んだ。
母親の言葉は今思えば幼い子供の戯言のように聴こえる。
父はそんな母を黙って受け止めており、その責任を果たそうと懸命に頑張っていた。クロフォード家の借財はそれでも非常に重くのし掛かっていたが。
現実を見ることが出来なかった母親の姿はアーサーが一番身近に観察し続けた貴族女性の一つであった。
しかしミサキは手紙の中でいつもアーサーに語りかける。
〈好きな食べ物はなんですか?〉
〈どんな風にお休みの日は過ごすのですか?〉
〈私が貴方に何をしてあげたら喜んでくれますか?〉
母親にも掛けられたことがない言葉であった。
(そうか……俺は女性にこんな風に気にかけて貰いたかったのか。)手紙を貰いながら母親に対して滲むような寂しさを感じていたのだと気がつくと、更にミサキの優しさが心に沁みた。
未亡人と聞いて初めは尻込みしたがこの優しい女性を大切にしよう。
手紙を読むたびに決意は強まり、まだ見ぬ聖女にアーサーは心を許していったのだ。
昨晩、デイビッド・チャペス辺境伯の妻であったミサキが白い結婚であったことも驚いた。
『きっと言えない事情があったに違いない』
言葉にできなかった苦労はアーサーにも山ほどある。
いつかこの優しい妻の口から直接聞きたいものだとアーサーは苦く微笑んだ。
そんな肩肘張ったミサキの存在が既に愛おしくもあった。
結局昼過ぎに目覚めたミサキは照れながらもアーサーに差し出されるスープを飲み干しシロップ漬けの果物を美味しそうに完食した。
とても綺麗に。しかもすごい速さで。
そう、余りにも綺麗に食べたのでアーサーはつい聞いてしまった。
「おかわり頼もうか?」
美咲は可愛らしく頬を染めてコクコクと頷いたのであった。
エストが指示したのか夕食は素材の味を活かしたあっさりした料理が寝室のテーブルに大量に並び、新婚の夫婦は楽しげにそれらを食べ上げた。
少し行儀は悪いが二人は会話を楽しみながら食事を進める。
「へぇぇ〜じゃあ聖女の力を使う対価は食事量なのか?」
「そうなんです。恥ずかしいですが力を使った後は多分騎士の方たちの二倍は食べますね。とにかくお腹が空くんです。
体質のせいでお酒はこの国の方たちよりも、とても弱いんですけど、ご飯は時期によって大量に食べるから恥ずかしくって。」
「それは防御壁の関係?」
「はい。普段は一人前かそれよりも少し多いくらいで足りるんですが時期が来たら四、五人分は頂くことになります。」
「じゃあその量が食べれなかったらどうなるの?」
「死んだりはしないんですが、意識が混濁するくらいですね。」
それはヤバい。
かわいい俺の嫁が任務の真っ只中意識混濁とか許されない。
知らない男どもの前で無防備な姿で倒れたりしたら…………。想像するだけでアーサーは青褪めた。
今までは少し腹が減っても、夕食の量が少なくても『まあ、明日騎士団の食堂(無料)で俺がなんか食えれば良い』と単純に考えていたが今後ミサキが
『お腹が空いているのに食べさせても貰えない………』と呟いた日にはこんな可愛い奥さんだ。
すぐに王宮が保護しに来てしまうだろう。
貴族の家では当たり前のことであるが〈量は急な客人のためにも多めに作っておく〉という常識がクロフォード家にはない。
寧ろ食材を余らせない、食事はきっちり人数分。という平民感覚の台所だ。
こんなことも今後の課題であるのだなぁと頭を掻いた。
するとミサキが何かを感じ取ったのか小首を傾げた。
「アーサー様。お食事のことですが私の仕事の便宜上必要経費としてお手当が王宮から貰えるんです。凄い贅沢さえしなければきっと、毎日お肉も魚もテーブルに並べられるくらいは大丈夫ですよ?」
だからご心配なさらないで!
ニッコリ!!
…………情けなかった。
こんなことを一瞬でも表情でミサキに読まれてしまったことも自分の家の台所事情が見栄を張れなかった事実も。
だが、ミサキは明るく話しかける。
「この国では男性が稼いで女性を養うことが多いようですが私の国では、[共働き]と言って夫婦で稼いで家を豊かにするというのが常識です。私、数年前から聖女と商会の仕事をしてるんですが意外と働くの好きなんです!だから2人で頑張って稼いで美味しいもの沢山食べましょう?」
そうニッコリ微笑まれればアーサーは再び骨抜きになった。
なにこの気遣い…………。
ミサキの言葉にアーサーは感動した。
ウランバルブ王国の女性は実は気が強い。
男の尻を叩きながら家で威張る女性たちとは雲泥の差では無いか。乳母も主人のアーサーには優しいが、夫たちには強く出る。
市井で働くおかみさんたちも、嫋やか…とは言いがたい。
そして、貴族女性。
これが一番厄介だ。
一見喋り方は優しいが物凄くプライドも高い上に男に求める要求も高い。
その上、手が出る。
飾りの多い扇子は顔を隠すためだけでなく、エスコート男性に対して気に入らないことがあると「ピシャ!」と一撃打ち据える為だ。
かく言う自分も、幼少のみぎりではあるが母親に手の甲をパチリとやられたものだ。
聖女は心も清らかで貧乏貴族にも優しく出来るスペックを備えているのか…………。
アーサーは物心ついた時から両親から頼られて使用人たちからも『頑張れ!稼げ!』と育ってきたので『頼ってください』などと言われたことがない。
思わずミサキを抱きしめると花の香りがフワリと香った。
「ミサキ好きだ」
「いえ、今からもう一回はちょっと無理そうです…………。」
いつの間にか主張しはじめた下半身がミサキに当たったのだろう。
やんわり腰を引かれて
『もう股関節痛いし、今日はちょっと休ませて。』と苦笑いされた。
いや違うんだ。気持ちを伝えるつもりだけだったんだけどと、赤面しながら話すが中央にそびえ立つ野営テントが全てを台無しにしていた。
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明け方、ミサキは昨日自分を捧げた夫をひっそりと眺めた。
全力を出し切ったのだろう。
ミサキを逞しい腕で抱え込み、スーッスーッと寝息を立てている。
ミサキは柔らかな寝衣を着ているが本人は全裸である。
自分のことは構わずミサキだけは冷えないように前のボタンもきちんと留めていた。
意識のない自分に着せてくれたのかと知ると思わず顔が赤らんだ。
昨日式場で初めて正面から夫となるアーサー・クロフォード伯爵を見た。
アーサーは目元の優しいちょっとだけ自分に自信のない男だった。
マリアたちの審美眼からすれば地味な男らしいが、日本人のミサキから見れば背が高く、スッキリした鼻筋は十分ステキに見えた。
夫婦の寝室だと通された部屋も一目で好きになった。
本が好きらしく部屋の書棚はあらゆるジャンルがパンパンに詰まっており、寝室のベッドをはじめ、寝具やカーテンはミサキが好きそうな柔らかな色彩に纏められていた。
男の趣味とは思えないそれはミサキを思い遣って作られた空間である。
寝室に通された瞬間からホッとする様な空気。
部屋はその人を物語るというがあれは本当だと実感する。
『優しい人だ。私の為にこの部屋を誂えてくれた』その気持ちが嬉しい。
広すぎないその空間でミサキは心から寛いでアーサーに抱かれた。
結局疲労から二度寝してしまい、股関節のギリギリした痛みを我慢して昼頃に目を覚ます。
夫となった騎士は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれ、スープのお代わりは自ら運んでくれた。
エストの計らいで自分の食べ慣れた味を夕食に出してもらえ体の疲れも幾分回復する。
アーサーはミサキに興味が尽きないようで色々聞いてきた。
逆にミサキもアーサーの釣書や手紙だけでは分からなかった多くのことを知り少しずつ打ち解ける。
アーサーは何度も嬉しいと言葉にする。
『俺みたいなところに嫁に来てくれてありがとう!』
『俺は名ばかりの伯爵だから』
『大切にするからね』
少し卑屈なところは気になるが『私を受け入れてくれている』そう思うと泣ける程の嬉しさが込み上げた。
居場所をこの国に来て初めて貰えたのである。
無条件でとは言わないがアーサーはミサキを歓迎してくれたのだと思えば頬が緩んだ。
気を遣わないでいいんですよと、笑顔で応えていたが、抱きしめられた瞬間[ゴン]と腹のそばをスリコギで押された衝撃があった。
大人の事情であるから仕方ない。
ミサキはなるべく優しく聞こえるように
「いえ、今からもう一回はちょっと無理そうです…………。」
と告げた。
するとアーサーは真っ赤になり
「違うんだ!その!これは生理現象で!!
やましい気持ちなんて本当に無いっ!!」
と恥ずかしそうに手を大きく振り回した。
(子供みたい!)
ミサキはついつい笑ってしまう。
体が大きくて、優しくて、素直で、なんて素敵な旦那様。
見合い結婚なんて知らない者同士、不安ばかりだと始めは思っていたが釣書と、見かけた時の印象は全くブレなかった。
『私はきっとこの人に恋をする』
可愛く慌てふためく旦那様をミサキは温かい気持ちで見つめていた。
自分に欲情してくれるその姿でさえ愛おしく感じるのは既に何かが始まっているのだとまだ気がつかないままで。




