第二章 運が回ってくる
クロフォード家に幸運が舞い込み始めます。
苦労人のアーサーが報われ始めるはず…
「えぇぇ!!!アーサー・クロフォード様が(会う前に)結婚を引き受けて下さった?!」
ミサキは使っていた大きな裁ち鋏を取り落としそうになりながら素っ頓狂な声を上げた。
釣書の中から美咲が選んだ男はこの国の中で最も地味顔な、だけど優しげな貴族だ。
あの祭りの日に見かけた姿が釣り書きの中に入っていた時、ミサキは思わず声をあげそうになるくらい嬉しかった。
(事情があるから何が何でも結婚しなきゃいけないけれどまさか会う前から決まってしまうなんて…
アーサー様は一度も会ったことのない、言葉も交わしたことのないバツイチの女で本当に納得されたのかしら?!)
「もしかしてもしかして、もしかしてですけど王命でゴリ押ししたとかじゃないでしょうね?」
そう言うと宰相は僅かに視線を逸らした。
(したんだ…)
平和になったこの王国の女性の結婚年齢は下がっている。
20歳は貴族の女性としては少々いき遅れ。
いや一度既に嫁にいった時点で益々相手は絞られてしまう。
そんな中でも年齢が釣り合う良い人柄の男の釣書が集められては居たが、宰相含めマリアもターナーもアーサー・クロフォードほど無欲で真面目な人物は居ないと結論を出したそうだ。
伯爵家としての地位は申し分がなく、財政状況は厳しいが頑張り次第でこれからは立て直しを図れそうだとグリフィンは考えている。
それに何より騎士としての資質が優れている。
誘拐事件は性質上起こればマリアは死んでもおかしくなかった。しかしアーサーの素早い状況判断と活躍により全て円満解決。犯人も根こそぎ逮捕。
これは異例中の異例らしく、しかも褒美に望んだ金額も疑ってしまうほど少なかったらしい。
陛下及び宰相は『このように欲のない人格者ほど聖女を娶るのにふさわしい人間はいない!』と結論付けたが、ことの真相はアーサーが貧乏性で家の修繕費も庶民寄りの算出であったからだと周囲の人間は分かっている。
陛下や側近たちは元来金で苦労したことのない人間であるから、非常にその側面は疎かった。それ故に手放しでアーサーを誉めた。
「陛下も面談され、あれ程に欲をかかない、苦労を知っている人物はそうそういないと感激しておられた。ミサキ様もお目が高いと喜ばれ『彼女を大切にしてくれ!』と何度も言付けていましたよ。』」
宰相のグリフィンは悪気なくニコニコとミサキに報告する。
(それってクロフォード伯爵家からしたら断れないやつじゃないの…)
美咲はあちゃーと天を仰ぎつつ、ここ暫く忘れていた文化の違いを思い出す。
お見合いとは『会って性格を確かめて、その上で相性を見て結婚するか決める』という日本の基本が、この国では間違っていたのだとようやく気が付く。
しかし…………。
彼が相手ならば恋愛は無理でも温かな家庭を築くことができる可能性が広がった。
宰相の浮かれ具合を見ていると一抹の不安が過ぎるが、その気持ちに蓋をし、何とか事実を呑み込む。
デイビッドとの結婚を言い渡された時も、美咲は初めショックで泣いてしまったが結婚生活はそれなりに幸せであった。
きっと…
きっと、また頑張れる。
だが、中年達はそんな女性の心情など大して推し量れず褒めて欲しいと言わんばかりにニヤニヤしている。
会う前から結婚決定とか日本じゃあり得ないんです……とそんな笑顔な人に言うことも憚られた。
マリアはミサキの気持ちも分かるのであろう。その父親の姿に『そうじゃないんだけど』と一言物言いたげだ。
だが彼女も貴族、『陛下のご意見が』と唱えれば最後、否定的な意見は口に出来ない。
「承知しました。
皆様私が彼が良いと言ったから尽力されてこの話を纏めて下さったのですよね。陛下たちからも『優しい』とお墨付きが出たのだし私も希望通りのお相手なのだからここで文句を言うことなどありません。お顔合わせの日までまた宜しくお願い致します。」と頭を下げた。
マリアは父親(と陛下)の暴走に少し眉を顰めてはいたがミサキが了承したのであれば騒ぐことはないという風である。
マリアの様子を見るに、調査結果としてアーサー・クロフォード伯爵はそれほど悪い人間ではないのだろうと結論を出す。
美咲は自分の目で見たもの、心で感じたことを信じてみたいと思っている。
アーサーの周囲の人々に接するときの優しさやマリアを助け出した素早い身のこなし。
きっと、貴族であるからと悠然と構えて生きてきた人間ではないだろう。
自分を鍛えることを厭わず、その鍛えた体と心で人々を守っているのだ。
『当たり前のことをしたまでです』と気取らずにさっぱりと言い切った姿。
美咲はあの一言に心を撃ち抜かれた。
(この広い王都で偶然遭遇した彼とは運命なのかもしれない。)
釣書の中にはアーサーより整った容貌の人も、お金持ちの男もいた。だが手元に残したのはマリアを救った大人しい風貌の優しげな男。
なけなしの銀貨を知り合いでもない人に惜しげなく渡す姿も好ましかった。
車輪は周りはじめている。
こうなってくれば、ミサキ本人を相手に気に入ってもらわなければならない。
少し強引にことが進んでいることに戸惑いは隠せないが周囲が今回は美咲の意見を尊重した形を取ってくれただけでも大きな前進だと考えた。
「マリア、お見合いの日のドレスを一緒に選んでくれる?」
気持ちを切り替えると美咲は微笑んで見せた。
顔色を窺っている友達を安心させるように。
存外に『結婚』を嫌がっていると気取らせないように。
5年前と明らかに違うのは、ミサキは気持ちを顔に出さなくなったことだ。
ペニシールで少しずつ培われた〈思ったことをそのまま表情に出して相手に弱い部分を晒さない〉能力はマリアにも向けられる。
自分を本気で心配する人間の不安を少しでも取り除きたいがための鎧である。
デイビッドは宰相達に次いでミサキの短髪を教えた人物だ。
結婚すると決まりこの秘密を隠し通すのは難しいと思ったミサキは自分の被っていたフードを外した。
短髪の女性は〈罪人〉と相場が決まっているウランバルブ国でその姿を晒すのはミサキにとってとても勇気のいることであった。
『他の方に言いたいなら言えばいいです。私は気にしていないんですから』
強がったミサキにデイビッドは何も言わずその時は頭をポンポンと撫でただけであった。
15歳という若さも手伝い『バカにされた?』と片眉が上がりかけたが、デイビッドは髪の長さを気にする必要はないと本心から思っていたそうだ。
そしてその運命を気の毒だとも。
日本なら何も言われなかったそのショートカット姿をデイビッドはこの国の貴族達が論おうとしていることが滑稽だと後に話してくれた。
『分かってるからね?髪が短くともミサキは正しく聖女よ。アタシは認めているからね?
包み紙が豪華でも茶色の安い袋でも美味しい豆菓子は同じ豆菓子なのよ。』
デイビッドはことある毎に言葉にしてくれた。
見た目を否定されたことのない美咲は知らず知らず、ウランバルブ国の常識に萎縮していたのだとその時気がついた。
『私は気にしていない』は気にしているの裏返しである。
誰よりも自分のそのヘアスタイルを気にしていたのはミサキ本人に違いなかった。
『容姿は関係ないわ。中身なのよ。』デイビッドは15歳の少女に幾度も柔らかく伝えてくれた。
デイビッドが褒めてくれた『中身』で美咲は勝負する。
それは自信を失ってから人と接することを拒んできた聖女が密かに決意したことである。
この世界を生きて行くには、1人では寂しすぎる。
成長した自分と向き合ってくれる男性を必ず見つけたいとペニシールを出た時から考えていた。
随分と幅は狭くなってしまったが自分の慧眼を信じてみたいと今は思う。
貴族の世界を嫌いながらも結局この煩雑な人々に守られているのも事実だ。
大人になり周りが見える様になって、この事実が一番美咲を苦しめるのであった。
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「えぇ!それってお前が嫁さん貰うってことか?!」
騎士団の室内演習場に悪友の声が響くと皆が振り返った。
男爵位の実家に生まれた男だが兎に角実家が金持ちだ。3代前は平民と言うだけあって気安い男だが、父親は次の季節には軍事品を納める商会の会頭としては国内一となる。
マーロン本人はのんびりした男でやや小太り。美味い食い物に目がなくアーサーはいつもおこぼれに与っていた。
「ああ、お前も覚えているか?聖女様が来られた5年前のこと。デイビッド・チャペス様の元に嫁がれていたが現在寡婦となられたらしい。陛下達はずっとお相手を探されていたそうだよ。それでこの前の褒美とばかりにこの話を持ってこられてな。」
「あのガリバー辺境伯の嫁?」
そう言うとマーロンは少し難しそうな顔をして黙り込んだ。
「初めは吃驚して報奨金だけでも良いんだと伝えようと思ったんだが…正直俺もまあ、結婚相手どころか、付き合う女性もいないしこれも縁かと思ってるんだ。」
そう話していると騎士団の中でもあまり仲のよくないバークレー伯爵家の男兄弟が現れた。
「クロフォード伯爵、ご婚約おめでとうございます。」
揶揄うつもりでなければ近寄ってもこない高慢な人間たちがニヤニヤと笑いながら頭を下げた。
「あ……………ありがとう?ございます?」
(一体どこからこの話を聞いたんだ?!)
驚きから声が上手く出ずに頭を下げると嫌味な兄弟は更に笑みを深めた。
「アーサー、お前あの醜女の聖女を嫁に押し付けられたらしいじゃないか。」兄が話し始めれば弟のサイラスもすかさず乗ってかかる。
「せっかく宰相家の娘を救助したと言うのに飛んだ災難だな!
嫁って……………!!!ククククッ!」
「宰相も人が悪い、自分の縁戚の娘を寄越してくれるならまだしも、聖女だってさ。しかも寡婦だぞ?お前が弱腰だから押し付けられたんじゃないか?」バークレー家の兄はさも気の毒だと肩をすくめた。
「全く気の毒だ。ただでさえ金に困っているクロフォード家に嫁が来るなんて。しかも持参金も満足に用意できんだろう?何せ異世界から来てるんだから。」サイラスは金の話になると嬉しそうに口端を持ち上げる。アーサーはこの表情が何よりも嫌いだった。
「お前もついていない、報奨金だけ陛下も準備くだされば良いのに酷い話だなぁ。同情するよ。」
全くそんな素振りは見せずに兄の方は笑いを噛み殺すような顔をしてみせた。
バークレー兄弟は何が楽しいのか機会があればアーサーを馬鹿にしてくる。
この兄弟には嫡男の兄がいて荒くれ者の下二人は騎士団に放り込まれたという碌でもない経歴の持ち主だ。
領地もない上、実家の爵位の威光さえいずれ無くなるという立場だが、何かと実家の功績を盾にマーロンとアーサーを見下してくる騎士団内の小悪党であった。
二人は聖女についてどこで知ったのか、やたらと饒舌に嫌味を繰り出す。
「聞いた話じゃ黒髪の幼女姿でとても20歳には見えんらしい。異世界の女は地味で世間知らずなんだろう。」
「物持ちの良いお前のことだから、聖女を下げ渡しても良いと思われたに違いない。古物好きには相応しい縁談だ。まぁ、俺は初々しい女の方が好きだが。」
サイラスの言葉にマーロンは小さくツッコミを入れる。
『アンタに婚約者がいた試しがあるか?』
男前とは程遠いバークレー兄弟になぜ言われねばならんのかとマーロンは思っているのだろう。
だが2人の嫌味は止まらない。
「黄ばんだ肌だと聞くが猿のような容姿かもしれん。だが、夜の方は少しは良いんじゃ無いか?あのガリバー辺境伯のオッサンに色々仕込まれているだろうから。」遂にはサイラスが下ネタを持ち出す。
「逆だろう?いくら小柄と言えどあのチャペス辺境伯のデカ物を毎晩突っ込まれてちゃガバガバの緩々だぜ。」兄は引き笑いしながらサイラスの肩を叩いた。
「おいアーサー!お前の息子じゃ物足りないって泣かれるかも知れんぞ?」
下品な弟の声に、堅物なアーサーも流石に堪忍袋の緒が切れる。
まだ見ぬ妻となる女ではあるが、女性に対してこの物言いは如何なものか?!
最後の一言を発した弟の胸倉をグイッと掴んだところで副騎士団長が素早くその腕を取り上げた。
「バークレー兄弟、何を調子に乗っている?
陛下のお決めになったことにバークレー伯爵家は異議があるようだな?それに聖女様に対する無礼な発言、上に報告させてもらおう。」
副騎士団長の怒気を含んだ一声で不遜な態度のバークレー兄弟は自らの発言が逆鱗に触れた事を悟り、顔を青くした。
マーロンはホッとしたように胸を撫で下ろすと一礼し『行こう』とアーサーの腕を叩いたのであった。
「それにしても・・・お前すごい嫁さん貰うことになったな。」
マーロンの言葉の意味が分からずアーサーは首を傾げる。
「あいつら知らないみたいで良かったよ。俺も言わなかったが、聖女様ってすげー人物だぞ?
あくまで噂の一端だが公爵夫人のマリア・ヘンダーソンが仲立ちして医療商品を大量に扱っている商会の幹部だ。恐らくお前の給料なんて目じゃない。伏せてはいるんだがきっと異世界の便利なものを商品化しているんだろう。
最近はどこの救護院でもあるが『車椅子』って言うアレな。あれは聖女様が作ったんじゃないかともっぱらの噂だ。」
へ?そうなのか?と口元が引き攣る。
貴族向けの医療院に始まり、今は市民が足を運ぶ救護院にも車椅子はある。高価だが争いが続いていたこの国では必需品でアーサーも訓練中に足を骨折した時はお世話になったものだ。
「それに俺も見ただけだが〈尿瓶〉という陶器も今やなくてはならない物だ。
ベッドで寝たまま尿を取れる。変わった形の陶器で俺も驚いたがこの辺りの商品全部開発している女性なんだ。貧しいわけあるまい。それに王家の肝いりとくればとんでもない恩恵がクロフォード家には訪れるぞ。」
大きな商会の息子なだけあってマーロンは意外に物知りだ。
情報に関しては騎士団で最も長けた男であると言っても過言ではない。この悪友が言うのだから間違いないであろう。
「それにしてもあの聖女様を次代のチャペス辺境伯がよく手放したな?俺の親父が話していたがジェローム様は彼女にご執心と聞いていたんだが・・・」
そう言いながら眉間を揉む。
この少し膨よかな男は自分の情報の内容との差異が少しでもあると気になって仕方ないらしい。
「俺も調べるが、お前もこれから騎士団内で立場が変わってくるぞ。用心しとけ。」
言いたい事だけ言うと見た目に合わない機敏な足取りでマーロンはアーサーの元から立ち去って行った。
「スゴイ奥さんを貰うのか・・・?」
アーサーはマーロンの言葉の意味を呑み込めず微妙な顔をしながらその日は演習場を後にしたのであった。
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それから三日と経たずその恩恵とやらをアーサーは実感する。
たまたま休みだったその日、クロフォード家には王家の知らせの書状と共に大勢の大工たちが屋敷に現れた。
聖女様が住まうにはあまりにボロいその幽霊屋敷を、ちゃんとした形に造り替えるのだという。
呆気に取られている執事を他所に、王宮の建築を請け負っているという工務商会会頭が挨拶にやってきた。
『この度はこのような栄誉ある仕事を与えて頂き光栄至極に存じます。』
この仕事は勿論クロフォード家の発注ではない。
光栄な仕事を与えた人は誰ですか?と聞きたいのはアーサーの方である。
会頭は意気揚々と屋根の瓦一枚から全て自信作《最高級》のものでやりかえていきますと意気揚々と話し始めた。
『ドアなどの建具もこの際全てお取り換えいたします。私の方でご用意した絵型をご確認下さい。この様にですね・・・』
と見せられた建具の値段は平民が使う修理業者と桁が一桁全て違う。
「あ!あのこの建具を使わなくてはならないのでしょうか?」
アーサーは慌てて支払いを気にして声を上げる。
すると、後ろから見覚えのある顔の男が現れた。
「支払いは全てヘンダーソン家で賄いますのでお気になさらず好きなものを選ばれると宜しいでしょう。その節はお世話になりましたな。クロフォード伯爵。」
中年に差し掛かってきたその男は整った顔立ちに隙のないオールバックヘアスタイルであった。
マリアの夫ウィリアムである。
突然の大物の登場にクロフォード家の人々は飛び上がった。
あ!いや!その、当たり前ですよ、としどろもどろで答える主人の小物さ加減が情けない。
金も地位もある男から滲み出る威厳は陛下たちともあい通じるものがある
クロフォード家の面々は思考が飛びそうになりながら、恐縮しているとヘンダーソン公爵はニッコリと微笑んだ。
「何、ミサキ様をお迎えいただく貴方と我が家は既に縁戚と言っても過言ではない。畏まらずにこれからもお付き合いをお願い致しますよ。
我妻もきっとクロフォード家には足繁く通う事でしょうから。」
『ェ?それは我が家に公爵夫人が出入りすると言うことですか?』
咄嗟に言葉は発しなかったが驚きが顔に出ていたのだろう。
アーサーと執事が豆鉄砲を16連射されたような表情をするとヘンダーソン公爵はクククと控えめに喉の奥で微笑った。
「ミサキ様はマリアと懇意にして下さっております。畏まらずに気軽に呼んでいただけると有り難い。我が家にも生活が落ち着かれましたら遊びに来てください。」
それって子供同士が『あ〜そ〜ぼ〜!』と言った感じのノリではないですよね?と確認するまもなく多忙な公爵は王家からの報奨金と公爵家からの礼金の受け渡しを済まし、挨拶もそこそこに帰ってしまった。
(どうしよう、俺たちはどうしたら良いんだ?)
屋敷の主人であるアーサーは呆然と立ち尽くした。
駆けつけたマイクも、大勢現れた大工たちに呆気に取られて棒立ちとなっていた。
呑気なクロフォード家は『雨漏りが直れば良いなあ………金盥を持って夜中に走り回るのはもう年齢的にもうちの使用人達にはキツイなあ』
程度に思っていた事案がこのように大仰に進むとは予想の斜め上である。
乳母だけは嬉しそうに
「良いことです。本当に良いことが起こり始めました!お嫁様は来るし、アーサー様が頑張っていたのをちゃんと神様は見てくださっていたんですねぇ。」
と涙を浮かべた。
そして執事のディートは突然の来客に珍しく狼狽えていた。
「人間長生きするとこんな経験をするんですね。
いやはや、全く私もこの喜びを言葉にできませんよ。」
そう静かに相槌を打っている。
工期の説明やクロフォード家の意向を話し合うとその日はあっという間に一日が終わってしまった。
アーサーは疲れが出たのか珍しく夕食を自室で取りあっという間に部屋の明かりを消して眠り込む。
普段頭を使わずに体で仕事をしているアーサーにとって他人が家の中を出入りすることは予想以上に気を遣ったらしい。
主人の就寝が早いのを見て乳母のメリッサは『あらら…子供みたいですわね』と微笑んだ。
深夜、マイクは執事のディートと厨房でバッタリと出くわす。
「貴方も眠れませんでしたか?」ディートは自前の酒を一杯飲もうとグラスを取りにきたところであった。
クロフォード家の毎日は今まで淡々としたものであった。
毎月の収支を必死に計算し、削れるところは削って食事と生活に必要なものを買い揃える。
主人にタキシードを作りたいと思いながら思わぬ出費に財布を痛めてばかりで将来を考えるゆとりが無かった。
それがどうだ。
アーサーの結婚が決まった途端、ヘンダーソン公爵が大工を雇い、礼金を置いて帰った。『これは個人的な礼金です。報奨金は別でお支払いされることでしょう。』ウィリアムはニコニコとそう話していた。
久しぶりの金貨の重みにディートもマイクも随分と興奮してしまったようだ。
年老いた執事にはこの幸運が夢のようで、寝て起きたら『夢』になっていそうで恐ろしいほどであった。
マイクも同じである。
今まで家族3人クロフォード家に世話になっているが金の心配と主人の心配ばかりして生きてきた。
人の良いアーサーが少しでも幸せになると良いのにと本当に思ってはいるが所詮平民の自分には何の手助けも出来ないことが歯痒かった。
しかし、運は転がり込んできた。
肉屋の女将さんが教えてくれた倉庫から全ては始まった。
元々アーサーには騎士としての資質は十分にあったのに金の所為でいつも出世が先延ばしであったとマイクは誰よりも知っている。
(いつかアーサー様が認められる日が来るって信じていた)
マイクはヘンダーソン公爵の丁寧な対応を見ながら心が躍った。
クロフォード家はきっと変わる。
そう思うとベッドに横になっても全く眠気が来なかった。
メリッサと夫も部屋で話し込んでいるのだろう。灯りはまだ点ったままである。
執事と酒を酌み交わしながら今まで口にしなかった未来を語る。クロフォード家が再興したらどのようにしたら良いのか……夢物語が現実味を帯びてきた。
そんなに高い酒ではないのに二人にはその酒が今までの人生で一番美味いと感じる。
「もしかしてなんですけど、お礼を言い損ねたんじゃないですか?………」マイクがふと思い出し口にするとディートは思わずグラスを取り落としそうになる。
彼らが大黒柱の失態に気がついたのは深夜に二本目のワインのコルクを抜いた瞬間であった。




