72話 異世界で一人暮らしを始めます!
第二章、開始です。
離宮を出たわたしたちはまず最初に第三兵団の分屯地を訪れた。
そこでオーグレーン荘周辺の巡回担当となった兵士たちとの顔合わせを済ませ、今は次の目的地であるオーグレーン商会の屋敷に向かって歩いている。
屋敷は分屯地がある区画の隣にあり、たいした距離ではないのだがわたしの足取りは重かった。
分屯地の敷地を出てから何度目かのため息が出る。
「ハアァ……」
「スミレ、気持ちはわかるけど引きずってもしょうがないでしょ?」
「むしろ最初の段階で認識の違いが表面化して良かったじゃないですか。被害が最小限で済みました」
張り切って臨んだ巡回班との顔合わせで第一印象が悪くならないようにと笑顔で挨拶をしたら、何とお誘い案件にヒットしてしまったらしくカシュパルとクランツを盛大に慌てさせてしまったのだ。
笑顔を交えて会話するのはかなり親しくなってからで、初対面から笑顔で話し掛けるのは「あなたに気があります」というサインになるというのだから、魔族社会はつくづく地雷だらけだと思う。
「まぁ、僕らとの初対面は魔族国に庇護を求めてきた時だからスミレに余裕なんてなかったし、それ以降はスミレが初対面の人と接する機会ってあまりなかったもんね」
「離宮の下働きや業者関係はほぼ女性でしたし、異性ではオーグレーン商会の執事と内装業者の片割れくらいでしょうか。丁寧に接してはいましたが特におかしなところはなかったと記憶しています」
「巡回班のメンバーは今後日常的に世話になる相手だから気を遣ったというのはスミレらしいと思うけど、“笑顔で挨拶”を初対面の相手にやるとはね……。ハハハ、スミレといると退屈しないなぁ」
「ううぅ……」
「スミレに誘う気は皆無だと即座に否定したので、班員には誤解されずに済みました。結果的に君の危うさを認識してもらえましたし、そう悪くないですよ」
慰められているのか貶されているのか微妙にわからないが、二人の言葉を大人しく受け止めるしかない。
子供の頃から学生時代を通して第一印象で取っ付きにくい人と思われてしまうことの多かったわたしにとって、意識して笑顔でいることは処世術の一つだった。
だから、気心の知れない相手にこそ笑顔で接してしまいがちで今回はそれがモロに出てしまったわけだが、この魔族国では人の顔色を窺って笑顔で取り繕う必要はないと知ることができたと思えば、確かに悪くはない。
とにかく、笑顔や親しみのある態度は仲良くなってから。顔見知り程度なら淡々とビジネスライクに対応すれば良し、と心に刻んでおこう。
そうやって気持ちを切り替えて臨んだおかげか、オーグレーン荘の大家との顔合わせはスムーズに進んだ。
大家であるオーグレーン商会の会長はヒュランデルという竜人族で、赤竜なんだろう、とても見事な赤い髪をポニーテールのようにひとつ結びにしていた。
簡単な自己紹介を交わしてから賃貸契約を結ぶ。
わたしの住む部屋は3号室なんだな、と契約書を読みながらデモンリンガで承認の手続きをした。
デモンリンガがピカッと光り、これで魔術的にあの部屋の管理権がわたしに移譲され、わたしのデモンリンガで鍵の開け閉めなどが可能になったらしい。
――ついに、独立した住処を手に入れたんだ!
しみじみと感慨にふけっていると、大家のヒュランデルが声を掛けてきた。
「あの部屋から見えるこの屋敷の池を随分気に入ったそうですね」
「はい。とても素敵な池だと思いました」
「オーグレーン荘の住人なら庭に出入りしてもらってかまいませんよ。隣の4号室にドローテアという白竜の女性が住んでいますが、彼女もよく裏口から入って庭の東屋で過ごしているそうです。あなたも気軽にどうぞ」
「それはご親切にありがとうございます。ぜひお邪魔させてください」
本当はやったー!!と両手を挙げて満面の笑みで喜びたいところだが、先程のやらかしもあったので頑張って堪えた。
落ち着け落ち着け、取引先と話す時のように落ち着いて受け答えするんだ。
それにしても、借景を楽しむだけでも嬉しかったのに庭へ入って近くで楽しんでもいいだなんて、何て鷹揚な大家なんだろう。いい人すぎる。
契約手続きが済むと、今度は執事による引き回しでオーグレーン荘の住人に紹介してもらえることになった。
黒竜の執事も親切な人で、わたしたちを連れて庭を横切り、池の脇を通って裏口の位置をわたしに教えてくれた。
そして、そこから裏路地へ出てオーグレーン荘の正面へと向かう。
最初に訪れたのは庭の裏口から一番近い4号室で、玄関に現れたのは先程大家が言っていたドローテアという白竜の女性だった。
白い髪だからというわけじゃないけれど、多分お歳を召している……と思う。
魔族の年齢はわたしにはまだよくわからない。
「まあ、お隣に若いお嬢さんが越してくるなんて嬉しいこと。こんなお婆ちゃんですけれど仲良くしてね。時々お茶を飲みに来てくれると嬉しいわ」
「ありがとうございます。こちらこそ仲良くしてもらえると嬉しいです」
「ドローテアさん、この子自炊する予定なんだ。良かったら近所のお店とか教えてやってくれない?」
「お安い御用よ。それじゃ、明日一緒に買い物へ行きましょうか」
「わあ、助かります! よろしくお願いします」
カシュパルが声を掛けてくれたおかげで、明日の午前中に近所の食料品店などを教えてもらいがてらドローテアと一緒に買い物することになった。
さっそくお隣さんとご近所づきあいができるとは思わなかったので、カシュパルに内心で感謝しまくる。
竜人族同士だから面識があるのか、カシュパルが随分と親しげだ。
それに、魔王すら呼び捨てにするカシュパルがさん付けで呼んだのにも驚く。
「それにしてもカシュパルが女の子の面倒をみるなんて珍しいこと。あなたのいい人なのかしら」
「やだなぁ、ドローテアさん。僕が恋人に一人暮らしさせるような男だと思う?」
「ホホホ。そうね、それはないわね」
「でもまぁ、可愛がってるのは事実かな。だから僕からもお願い。スミレはまだ魔族社会に慣れてないから、いろいろと気に掛けてやってくれる?」
「カシュパルに頼まれたら断れないわ。ホホホ、それにしても本当に珍しいこと」
ドローテアはとても上品な女性で、ホホホと素で笑う人を生まれて初めて見た。
すごく柔らかな雰囲気の素敵な人なので、お近づきになれるといいなと思う。
次に案内されたのは2号室で、虎系獣人族のターヴィというマッチョな男性が現れた。
第三兵団所属の軍人だそうでマッチョな体型に納得したが、愛想のない人で淡々と挨拶して訪問を終える。
1号室はウルマスという頭にスカーフを巻いた岩性精霊族の男性で、ガタイがいいから彼も軍人かと思ったら王都の学校へ通う学生らしい。
口数の少ない人で、こちらも挨拶を交わすだけで終わった。
男性も恋愛お断りならスカーフで髪を隠すことがあると以前ファンヌから聞いていたが、実際にスカーフを巻いている男性を見たのは初めてだったので「本当にいるんだ」と少し驚いた。
地味服、地味メイクのわたしも魔族国ではこんな風に物珍しく見られているのかもしれない。
住人への挨拶回りがひと通り済んだので、3号室の自宅へ向かう。
玄関の鍵を開けようとドアノブにデモンリンガをかざすと、デモンリンガが光ると同時にカシャリと鍵が開く音がした。
無事にドアを開けられたことにホッとしつつ、本当にこの家の管理権がわたしに移譲されたんだなとしみじみ感じながら家へ入る。
ドアを開けるとレイグラーフが付けてくれた魔術具仕込みのドアベルがカランカランと音を立てたので、嬉しくて思わずにんまりしてしまった。
執事に手招きされ、キッチン脇の廊下の壁にある家全体を管理する魔術具にデモンリンガを当てると、魔術具が起動し屋内に明かりが灯る。
あとは魔術具の魔石部分に手を当ててゲージが満タンになるまで魔力を注げばいいそうだ。
この魔術具の魔力が切れると家全体の管理ができなくなり、明かりが消えるだけでなく、食料品の保存庫やセキュリティの機能も止まってしまうという。
念のため、毎日魔力残量をチェックする習慣をつけておこう。
この魔術具は先日レイグラーフが精魂込めてバージョンアップしてくれたものなんだから、魔力切れなど起こさないよう大事に使いたい。
それにしても、こうして実際に自分の魔力やデモンリンガで家のドアや魔術具を操作していると、いよいよ一人暮らしが始まるんだという実感が湧いてくる。
家の受け渡しが済んで執事が帰ると、それまで黙ってわたしと執事のやり取りを見ていたクランツとカシュパルが声を掛けてきた。
「ここを下見に来たのは約ひと月前ですが、何だかついこの前のことのような気がします」
「うん、あっという間だったね。どうだい、スミレ。あんなに熱望してた家が君のものになったよ」
「何ていうか……感無量ですね。すごく、すごく嬉しいです。へへへ、本当にありがとうございました!」
ここまで淡々とした表情で過ごしてきたせいか、親しい間柄のこの二人には満面の笑顔でお礼を伝えられるのが嬉しくて、余計にニコニコしてしまう。
「オーグレーン荘の住人への紹介は済んだけど、昼からはこの辺りの飲食店もいくつか回るよ。毎日かどうかはともかく、一人暮らしするなら世話になることは間違いないからね」
「その前に昼食を済ませませんか。この前行ったノイマンの食堂でどうです?」
「いいけど、クランツってばこの前スミレが食べてた肉の煮込みを注文するつもりでしょ」
「……わかりますか」
「あははっ、わかるに決まってるよ。僕もそうするつもりだし! この前スミレが本当においしそうに食べてたからさ、すごく気になってたんだよね」
「だから、人のことを食い意地張ってるみたいに言うのはやめてくださいってば」
三人でわいわいとおしゃべりをしながら玄関ドアを開けると、ドアベルがカランカランと音を立てる。
デモンリンガでドアを施錠して、ふと建物を見上げた。
ここがわたしの家。
わたしはもう、この街の住人になったんだ。
ドアノブを撫でながら「よろしくね」と小さい声で呟くと、わたしはカシュパルたちと共にノイマンの食堂へ向かって歩き出した。
今日はどんなメニューがあるかな。楽しみだ。
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第二章が始まりました。雑貨屋開業までもう少しかかりますが、慣れない一人暮らしを始めたスミレを応援してもらえると嬉しいです。




