235話 帰る場所
喉がぐぅと変な音を立て、次の瞬間涙が溢れた。
思わず胸元にあるペンダントを服の上からグッと握り締める。
魔王だ。魔王が来た。
何の前触れもなく、突然目の前に魔王が現れるというこの現象。実験中、しょっちゅう至近距離に魔王が現れて心臓がバクバクしっぱなしだった。あの時のこと、よく覚えている。
わたしに何か起きたらすぐに駆けつけてくれるつもりで持たせてくれた、『戻り石』を使って魔王が作った魔術具。
間違いない。魔王は戻り石の魔術具を使ったんだ。
本当に、魔王が来た。
苦しさと、恐怖心に包まれたその時に。
えぐえぐと泣くわたしの頭を魔王がくしゃりと撫でる。
もうダメだ。
両腕を伸ばしたら、スッと抱き上げられた。そのまま魔王の首にしがみつく。
声を上げて泣きたいけど、吐き気が酷くて苦しい。回復魔術で治そう。今は聖女の回復魔法を使いたくない。
無詠唱で状態異常回復の魔術を唱える。無詠唱ができるようになっていて良かった。声を出したら吐きそうだ。
吐き気がまだ治まらない。おかしい。何で回復魔術が効かないの?
「具合が悪いのか」
魔王に問われ、両手で口を押えながら頷く。魔王に抱きかかえられた今の状態で吐くなんて死んでも嫌だ。
でも苦しい。吐きそう。こんなのは離宮へ来たばかりの頃に味わって以来だ。
「魔王ルードヴィグ!? ……一体どこから」
驚きと戸惑いを含んだヒュランデルの声がした。
魔族にとって転移とは魔術陣でのみ可能な術だ。あらかじめ陣を敷いてない場所に転移することなどできない。
しかも現れたのは竜人族の王都の拠点で、いくら魔王でも無断で転移陣を敷いたりはできない場所だ。管理者のヒュランデルが驚くのも無理はない。
……ああ。
部外者に転移を見られた。わたしの魔法も。何より、正体を知られている。
つまり。
あの家には戻れない。
城下町での暮らしは、もうおしまいだ。
こんな、こんな形でいきなり終わってしまうなんて。
こみ上げてくる嗚咽を抑えきれず、わたしは魔王の肩に顔を埋める。
そんなわたしをよいしょとばかりに抱え直すと、魔王はわたしの背中をポンポンと叩いた。
わたしが苦しんでいる時にいつも魔王がしてくれるヤツだ。今日はお膝だっこではないけれど。
失語状態になった時、ブルーノを魔術で殺しかけてしまった時、そして今。
魔王はいつもこうして泣きじゃくるわたしを抱っこして背中をポンポンしてくれるのだ。
こわばっていた体から力が抜けていく。
くたりと魔王の胸にもたれかかり、大きく息を吐いた。少し息が楽になった気がする。と同時に、自分に嫌気が差した。
状況は最悪だ。自分の正体がバレているだけでも最悪なのに、オーグレーン屋敷に魔王を転移させてしまった。わたしが激しく動揺したせいだ。
聖女だとバレて動揺するのは仕方ないとしても、聖女として求められるのなんて今更なのに。それをこんなに大泣きして。どれだけ豆腐メンタルなんだよ。
でも、自己嫌悪は後回しだ。それより肝心なことを魔王に報告しないと。
「正体、知られ、ました」
「そうか」
これ以上事態を悪くしたくなくて、簡潔に一番重要なことだけを伝えたら、魔王はあっさりとそう言った。
思わず、それだけ?と言いたくなるくらいのあっさり具合に、拍子抜けしそうになる。
魔王は、いつもこうして何でも受け止めてくれるんだよなぁ……。
少しも動揺しない魔王に驚いたけれど、すぐにその理由に思い至る。
魔王がそう答えるだけということは、それで済む状況だということだ。たぶん大丈夫なんだろう。きっとこれ以上悪くはならないはず。
そう思ったら、安心して更に力が抜けた。胸を圧迫していた何かがするすると解け、息が楽になっていく。
そんなわたしを抱きかかえたまま、魔王はドアに向かって歩き始めた。
「待ってください! 聖女様をどこへ連れていくつもりですか」
ヒュランデルに問われて、魔王は足を止めた。首だけを向けて彼に告げる。
「箝口令を敷け。スミレのことを一切漏らすな。追って部族長より沙汰がある。従うように」
それだけ告げると、魔王は再びドアに向かって歩き出した。慌てて黒竜の執事がドアを開ける。
通り過ぎる時、執事と目が合った。見開かれた目はいろんな感情で溢れていて読み取れなかったけれど、こちらに対する悪感情はなさそうだったので少しだけ安心した。
応接室を出ると、魔王はわたしに魔法で姿を隠すようにと言った。すぐに『透明化』を唱える。
わたしが言える立場じゃないけど、姿の見えないわたしを抱えた魔王の様子は傍から見たら奇妙に映るに違いない。どんな風に見えるのか、ちょっと気になる。
そんなしょうもないことを思い付く程度に吐き気も和らいできた。心因性のものだったのなら、特効薬が側にいてくれる今はもう心配いらない。
魔王はエントランスへ向かっているようだ。でも、誰ともすれ違わない。屋敷に来た時も思ったのだけど、オーグレーン商会にしては今日は人が少ない。たぶんわたしの情報が漏れないよう、人払いをしていたんだと思う。
ヒュランデルは彼なりにわたしのために行動してくれている。度を越した聖女礼賛にはドン引きだけど、聖女を敬愛しているのは本当なんだろう。
聖女として扱われることに対する拒絶感や嫌悪感ばかりに目を向けて、彼の厚意をスルーするのはフェアじゃない。
「あの、ヒュランデル会長は、悪くないんです」
「わかっている。心配するな」
魔王はまたしてもわたしの言い分をすんなりと受け止めてくれた。
そうか、わかってくれてるなら良かった。わたしの過剰反応が原因なんだから、今回の件でヒュランデルに罰を与えられたりしたくない。
「ルード!」
エントランスに近づいたあたりで小さく鋭い声が響いた。
声のした方を見ると、カシュパルとクランツが廊下を走って来る。
魔王の胸元あたりを見ながら駆け寄って来る二人は、姿は見えないけれどそこにわたしがいると気付いているようだ。
カシュパルが音漏れ防止の結界を張って話し掛ける。
「スミレ、そこにいるんだね? 無事なの?」
「はい。大丈夫です」
「無体なことなどは何もされていない。ただ、ショックは受けているようだ」
「……鼻声だね。泣いたの?」
「わたしが聖女だと知られてしまって」
「そうか」
カシュパルもクランツも表情が険しい。顔を見せて安心させたいけれど、『透明化』がまだ解けてないから今は無理だ。
せめて声だけでもと明るい声を出したつもりだったのに、速攻でカシュパルに泣いたことがバレた。うぅ、諜報と謀略の担当の耳目を欺くなんて芸当がわたしにできるわけもないか。
気遣わしげな目でこちらを見ていたカシュパルだったが、視線を魔王に切り替え指示を仰ぐ。
「離宮の手配と長への連絡は済んでるよ。どうする?」
「クランツ。『戻り石』を持っているか?」
「はい。対をなす置き石は離宮の自室に」
「よし。スミレ、具合が大丈夫ならパーティーを組み、『戻り石』を使って離宮へ転移する。できそうか?」
「大丈夫です。下ろしてください。腕を組みます」
魔王の腕から下り、クランツが手のひらに載せて差し出した『戻り石』を受け取る。組みやすいよう腕を曲げた魔王とクランツの腕を取った。
腕を差し出してこないところを見ると、カシュパルはここへ残るみたいだ。竜人族だし、いろいろと後始末をするんだろう。
「カシュパルさん。あの、ヒュランデルさんは何も悪いことしてないので、厳しくしないでくださいね」
「そう? 彼は生粋の聖女信奉者だからね、どうせ鬱陶しいくらいにスミレを崇め奉ったんじゃないの?」
「それは……そう、なんですけど」
「まあ、それは置いとくとしても。部族長に何の伺いも立てず、情報を秘匿されているVIPに無断で接触するなんて言語道断。これは竜人族の問題なんだよ。スミレは関係ない。だから気にしなくていいよ」
カシュパルは爽やかな笑顔を浮かべてそう言った。
……怒ってる。カシュパルが少年のように微笑むのはたいてい腹に一物抱えている時だ。
え、ヤバくない? 大丈夫なの? ヒュランデルさん、マジで大丈夫?
「やり過ぎるなよ」
「わかってる。さあ、もう行って」
「……よろしくお願いします。では、お先に失礼しますね」
「ん。大丈夫だって。最善を尽くすだけから、任せて」
手を振るカシュパルに頭を下げると、わたしは手に握った『戻り石』に魔力を流した。
一瞬で、魔王とクランツと共に転移する。クランツの離宮勤務用の部屋へ転移するのはイスフェルト侵攻の時以来だ。クランツはNGを盾に自室には絶対入れてくれなかったから、興味はあるけどあまりジロジロ見ないでおこう。
転移したので『透明化』が解除されている。すかさずわたしの顔色をチェックしたクランツが眉を顰めた。
慌てて腕を解いてパーティーを解消すると、すぐにわたしの部屋へ移る。中で部屋を整えていたファンヌがドアの音に気付いて駆け寄ってきた。
「スミレ! 大丈夫なの、酷い顔をしているわ」
「大丈夫だよ。ごめんね、急に来ちゃって」
「それはいいから、ソファーで休みなさい。皆も、お茶を淹れるわ」
ファンヌに促されてソファーに腰を下ろす。確かに疲れた。精神的な疲労はかなり大きい。
魔王とクランツも腰を下ろしたが、そこへ風の精霊がスティーグからの伝言を運んで来た。
《ルード、戻ってますか? アディ翁がいらしてます。対応について協議したいそうです》
「すぐに戻る。待っていてもらえ」
そう言いながら立ち上がる魔王の服を思わず掴んでしまった。慌ててすぐに手を離す。
行って欲しくない、まだ傍にいて欲しいと思ってしまった。子供みたいだ。恥ずかしい。
俯くわたしの頭を魔王がくしゃくしゃと撫で、そのままくいと上を向かせる。
「必要ならまた呼べ。私は必ずお前のもとへ行く」
ぶわっと涙が出そうになって、必死に堪えた。絶対変顔になってるけど、何とか魔王に頷いてみせる。わたしのせいで忙しくなっているみたいなのに、これ以上引き留めたりなんかできない。
魔王はフッと笑い、最後にわたしの頭をくしゃりと撫でると、サッと部屋から出て行った。閉まったドアをぼんやりと見つめる。
引き留めたくないけど、やっぱりまだ一緒に居て欲しかったな……。
ファンヌが淹れてくれたハーブティーを飲む。心が穏やかになる優しい味が嬉しい。温めだったからすぐに飲み干してしまった。随分と喉が渇いていたようだ。
そこへ、バタンと音を立ててドアが開き、レイグラーフが飛び込んできた。血相を変えるというのはこういうことかと思うくらい、顔が青褪めている。
「スミレ、無事でしたか! ああ良かった。ルードが飛んでいったと聞いて、私はもう肝がつぶれるかと……」
レイグラーフがわたしの両頬を手で包み、顔を覗き込む。ただでさえ普段から心配性なレイグラーフを心底心配させてしまったらしい。
クランツが視線を送って来る。師を宥めるのは弟子の務め、ハイわかってます。
そんなわたしたちの様子を見てファンヌが苦笑いしている。
いつもの空気を感じてほっこりした。張りつめていたものが弛んでいくのを感じる。
城下町でわたしが培ったもの。それらをすべて失うかもしれない。考えるだけで目眩がしそうだ。
でも、もしも城下町の暮らしを手放すことになったとしても、魔族たちと同じようにわたしにも帰る場所がある。
いつか魔王が言った。
『この世界においては、私のいる場所がお前の里となる。私が魔王でいる間はこの離宮がお前の里だ』と。
ここはわたしの里。
魔王がいて、皆がいる。
ここが、わたしの帰る場所。
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