234話 崇拝者
デザートの後は、最初に通された応接室に戻った。
応接セットのソファーを勧められ、ヒュランデルと向かい合わせに座る。黒竜の執事が食後のお茶を淹れ始めた。
ドローテアが引退した今のオーグレーン屋敷では、一番お茶をおいしく淹れられるのが彼なんだろうか。食事中の給仕も一人でしていたから、単に今日の食事会の給仕全般を彼が担当しているだけなのかもしれないけど。
お茶を淹れ終えた執事がドア付近へと控える。食事中もそうしていたことを考えると、二人きりにならないようあちらもNGに配慮してくれているんだろう。ありがたい。
執事はずっと平然と給仕していたから、少々気になるヒュランデルの様子も別に異常事態ではないんだろう。あまり気にしないでおこうか。
そんなことを考えながらお茶をひと口飲んだ。
ふう。何とか食後のお茶までたどり着けた。このまま無難にやり過ごせば乗り切れそうだ──そう、思っていたのに。
ソーサーにカップを戻したヒュランデルは、組んだ両手をテーブルの上に載せると身を乗り出した。
「さて、そろそろ本題に入りましょうか。本日わざわざお越しいただいたのは、あなたに改めてご挨拶をしたかったのですよ、聖女様」
「──ッ!!」
一瞬、頭が真っ白になった。全身が強張り、心臓の音がドクンドクンと大きく耳に響く。
今、何と言った? 彼はわたしが聖女だと知っているの!?
思わずヒュランデルの顔を見る。嬉しそうな、恍惚とした表情。さっきまでの高揚した様子より更に熱っぽさが増しているような……。
この表情は何? この人は何を考えている?
「ああ、警戒しないでください。私以外にあなたが聖女だと知っているのはこの執事だけ。イスフェルト王都の異変について報告をしてきた者はあなたの存在を知りませんし、異変についても厳重に口止めしてあります。どうぞ、ご安心を」
わたしを聖女と知るのはヴィオラ会議のメンバーとファンヌ、部族長会議の面々だけだ。
それ以外の人に知られたというのに、何をどう安心しろと? 自分は警戒の対象外だとでも思っているんだろうか。
言いたいことはある。でも、わたしは否定も肯定もしないで口をつぐんだ。相手が何をどこまで知っているかわからない以上、今は何も言わない方がいい。
「あなたが聖女であると、どうして私が知ったのか不思議にお思いでしょう。私どもは手広く商売をしておりましてね、人族もその対象なのですよ。もちろん、こちらが魔族だということは隠して取り引きしているのですが」
いつだったかミルドが言っていた。魔族であることを隠して人族と商売しているところもある、と。
わたしはその話を聞いて、人族エリアの噂はそういうルートから魔族国に入ってくるのかもしれないと考えたのに、それがオーグレーン商会である可能性をどうしてその時考えなかったんだろう。
竜人族直属で、ありとあらゆる商品を扱い、魔族国の物流を押さえている実質魔族国トップの大商会。秘かに人族の商品を扱うとなれば、この商会こそが一番可能性が高かっただろうに。
灯台下暗しとはよく言ったものだ。最高機密の情報漏れがこんな身近で起こるなんて考えもしなかった。
「人族エリアへの出入り禁止令が解かれ、取り引きに向かった者が本日昼前に戻りましてね。報告を聞いたところ、持ち帰った情報の中に大変興味深いものがありました。イスフェルト王都で長時間に渡る落雷があり、何頭もの竜が咆哮を響かせながら上空を飛び回っていたそうですよ」
住民たちはいかに恐ろしかったかを口々に語るばかりで、詳しい情報は得られなかったとその者は報告したという。
ただし、彼は噂を一つ拾っていた。その雷は聖女が報復のために放ったもので、聖女は王や宰相を嫌って魔王と共に去ってしまったのだと。
残念ながら、流言飛語の取り締まりが強化されたため、既に噂は下火になっていて裏を取ることはできなかったそうだが。
何頭もの竜? 飛んでいたのはカシュパルだけなのに、だいぶ情報が錯綜しているみたいだ。
オーグレーン商会ですらその程度の情報しか入ってないのは良かったけど――って、今はそんなことを考えている場合じゃない!
「聖女が現れたという話も真偽は定かでないとその者は言っておりましたが、間違いないと私は思いました。言い伝えによると、聖女の御業には嵐や雷を起こすものがあるそうですからね。それだけではありません。ピンと来たんですよ、魔王の元に去ったという聖女はあなたに違いないと。ここ最近で魔族国へ亡命してきた人族はあなただけですからね!」
昼前に得た曖昧な情報をもとに、情報の精査もしないまま、わたしが聖女に違いないという直感だけで即座に執事を寄越したのか。
何てことだ。わたしを知っている人なら、人族=聖女なんて短絡的な思考はしないと思っていたのに!
でも。そうか。面識の浅いヒュランデルは、元々わたしのことをたいして知らないんだ。更に、異変の詳細な情報が伝わらなかった。
その結果、「聖女の服装や口調は普段のわたしとはかけ離れているから別人と判断される」という思惑から外れてしまったのか……。最悪だ。
正体がバレた以上、いつまでもここにいてはいけない。すぐにここを出て、魔王に知らせないと。
どこで伝言を送ろう? 相手が大家だから自宅はダメだ。部屋を出てすぐ、人目のないところで『透明化』して魔王城へ『転移』するのがベストか。
「仰る意味がわかりません。食事も終わりましたし、わたしはもう失礼します」
失礼は承知の上ですっぱり会話を断ち切り、立ち上がる。だが、軽く礼をして踵を返そうとした瞬間、手首を掴まれた。
掴まれた反動で振り返ると、テーブル越しに腕を伸ばし、縋りつくようにしてわたしの手首を掴んでいるヒュランデルと目が合った。
咄嗟のことに声が出ない。
「お待ちください! あなたがその尊い御身を隠しておられたことは理解しております。ですが、どうかお隠しにならないで下さい。私は聖女を深く敬愛し、崇拝する者。あなたが心配なさるようなことは何もいたしません!」
声を出せないでいるわたしを見て、彼の言動を許容しているとでも思ったのか、ヒュランデルが再び恍惚とした表情になる。
テーブルを回り込み、手首を掴んでいた手を緩めると、そのままわたしの手をすくい上げて跪いた。
「子供の頃に初めて聖女様の言い伝えを聞いて以来、私はいつか聖女様にお会いできるようにと願い続けてきました。そして、ついに願いが叶ったのです! 何たる幸運、何たる喜び! ああ、尊い聖女様がこんなに近くにおられたとは。私は今ほどオーグレーン商会の会長であることを誇りに思ったことはありません!!」
ヒュランデルが熱っぽく語るさまに、既視感を覚える。
イ軍平地でイスフェルト兵の前に立った時も感じた、聖女への期待を孕んだ熱っぽい視線。歓喜の声。こちらへと伸ばされる手。
────気持ち悪い。
あの時と同じように、嫌悪感と拒絶感が体を貫く。
だが今回は、更にそこへ絶望が加わった。
またか。
わたしはまだ、「聖女」という役職だけを見て、「スミレ」というわたし自身を見ない視線に晒されるのか。
イスフェルトと決別したら、もうこういう視線に煩わされずに済むと思っていたのに。
まさか、魔族にまでそういう目で見られるなんて思いもしなかった──!!
「……離して、ください」
「お願いです、聖女様。どうか私を拒まないでください。遥かな時を経てようやくこの魔族国に聖女様を迎えられたのです。あなたの崇拝者が長年温めてきた想いをどうかお聞きください。私ども竜人族の里に初めて聖女様が降り立った時──」
何とか声を絞り出したけれど、尚もヒュランデルは切々と、一方的に熱く語り続ける。
わたしの言葉など聞きやしない。
──── うるさい、嫌だ、離して
聖女だから何だというんだ。
わたしを聖女だと認識した途端に跪いて熱く語り出したこの男は、わたしを一人の人間としては見ていない。
わたしを聖女としてしか見ないという点においては、聖女という利用価値だけを欲するイスフェルトと大差ないじゃないか。
一方的に召喚されたわたしの心の傷も、わたしがこの世界でどんな風に暮らしていきたいと望んでいるかも顧みない。
ただただ自分の想いと望みだけを言い募る、その言い分も話し方も表情も、何もかもすべてが嫌だ。
気持ち悪い。吐き気がする。
「私ども竜人族は嵐や雷を大層好むのですが、それを知った聖女様が術を振る舞ってくださったのです! 一斉に空へ上がった部族の者たちが、雨と雷に打たれながら歓喜の咆哮を上げたという話が伝わっており──」
──── 手を、離せ
一体、いつまで「聖女」の器として扱われるんだろう。
グニラの足を治したり、樹翁の状態異常を治したりと、聖女の力で誰かの役に立てて嬉しかった。
精霊たちと契約できたのはわたしが聖女だったから。調合した薬の薬効が高くなるもの聖女だからだ。
聖女も悪くない。そんな風に思えるようになってきていたのに。
以前、聖女の役割と向き合えるようになりたいから、魔素の循環異常が発生した時は教えて欲しいと魔王に頼んだことがある。
聖女の役割と向き合うつもりはあった。徐々にそうなっていければいいと思っていた。だけど、魔族にも「聖女のわたし」しか見ない者がいるなんて。
辛い。苦しい。耐えられない。
「魔素の循環異常が起こった時、聖女様が振る舞った術は本当に素晴らしかったそうで! 私はその話を聞いた時から強い憧憬を抱いていたのです。ぜひ、いつか私もこの目で聖女様の御業を拝見したいと熱望して──」
──── はなせ ハ ナ セ
「離せ!」
そう叫ぶのと同時に、わたしは無我夢中で『朦朧』、『感電』、『移動』を唱えた。
体を捻って腕を外す動きがきちんと出来たかはわからない。
咄嗟に執事を範囲に含めなければと頭に浮かび、『朦朧』が強くなった。バチッと強い音。感情が高ぶって、たぶん『感電』も制御できていない。
『移動』の距離も不十分。でも、ヒュランデルの手が届かない範囲には何とか逃れられた。
ただ、バランスを崩してコケてしまった。足が震えてすぐに立てない。
跪いていたヒュランデルが『感電』を受けた手をもう片方の手で押さえながら、驚いた顔で立ち上がろうとしているのがスローモーションのように見える。
ダメ。立つんだ。ここから逃げないと。
力を振り絞って足を踏ん張った、その時。
わたしの視界が黒に覆われた。
でも、暗転したわけじゃない。
視界を遮っているのは黒い布地。
いつかも見た、この光景。
「スミレ、大事ないか」
黒い布地が揺れて、背中で一つにくくった黒い髪がさらりと動く。
気怠そうに振り向いた魔王がわたしを見下ろしながら、そう訊ねた。
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