赤雷の傷 参
お待たせしました。
最新話です!
令月が扉を開けると、それに気付いた菫が飛び出してきた。
「お父、母上が……母上が!?」
「なに!?」
菫の顔は酷いものだった。汗と涙、鼻汁で汚れて着衣も乱れているという有様だ。狭い屋内を駆け抜け菘が臥床している部屋に入ると、彼女は幾度も痙攣していた。衣服の端から覗く腕や脚には、青紫色の痣が数箇所浮かび上がっている。呼吸は断続的で、顔は土気色──死相が出ていた。
神父が軽く様子を見てから口にした言葉に、彼は雷を受けたような衝撃を覚える。
「今夜辺りが峠でしょうな」
「貴様、治療が出来るんだろうが!? 何とかして見せろ」
神父の胸倉を掴みあげ、罵声を浴びせる。
令月も分かっていた。これはただ感情に任せて八つ当たりをしているだけなのだと。
しかし、ふとした疑念に彼は打ちのめされる。
──菘と菫が辛い時に、俺は何をしていた?
養っていく為、治療の為にと先立つものを手にいれた。そこまでは良いだろう。
寝込んでいる母親と、年端も行かない子供が一人だ。買い物すら満足に出来なかったのだろうか。菫は痩せ細っており、筋張ったような手足で、顔面蒼白である。こと異邦人に対して冷たい気風があることは、令月も承知だったはずだ。
そこまで気が回らなかった。成る程確かにそれはあるだろう。臥せってしまった妻の様子に慌てふためきながらも、自身の行える範囲で最善を尽くそうとしたのだから。
──だが、父親としては失格だ。
支え合うのが家族というものである。彼はそう考えていた。
だが、蓋を開ければこの体たらく。考えに考え抜いた末、漏れるのは乾いた笑みだった。
「……これ以上は私の手に余る。他の者に診てもらうのが良いでしょう」
神父の声すら、耳に入らなかった。次いで、やや乱暴に手を振りほどかれる。
それが匙を投げた際の断り文句だとも知らず、彼はひたすら医者を探して回わった。
結局誰一人として令月らに手を差し伸べる者は現れず、彼と菫は悲嘆に暮れる。
看病疲れで、いつの間にか眠っていた彼は僅かな朝日で目を覚ます。休みなしでの行動は、彼にとっても耐え難いものだった。
「……ぅん。しまった、菘は!?」
時間というものは残酷である。
それは誰にでも平等だが、同時に何人たりとも待ちはしないのだから。
菘の呼吸は荒く、小刻み。喘鳴まで発しており、危篤状態であることは明白だった。慌てる令月をよそに、程なくしてそれすらも途絶える。
「嘘だろ、菘。 お前が死んだら俺は……俺は、どうすればいいんだ!? 頼む、永らえてくれ!」
彼女の顔は、ひどく苦しげであった。小刻みに震える身体が、呼吸困難に耐え忍ぶようで痛々しい。彼としてはその苦しみを取り除いてやりたいところだったが、刀傷を手当てする程度の心得しかないのだ。
だからこそ、彼は妻を励ますことしか出来ずにいる。無力な己を恨み、妻の悲運を嘆くより他にない。
──菫の涙声ですら、彼女の意識を繋ぎ止め得ないのかも知れない。
想いを巡らせるほど、どつぼに嵌まっていくように思えた。まるで泥濘に足をとられた時にも似た、そんな不安感に苛まれる。
程なくして、菘の呼吸が止まる。最悪の状況で、彼女の右腕が震えながら宙を探る。その手を握りしめ、令月は声をあげる。
「おい、菘! 俺は此処だ、此処に居るぞ。だから頑張るんだ‼」
最早彼も必死だった。彼自身、何を言っているかも分からないが、ふと彼女の表情が僅かに和らいだ。それは気の迷いか、はたまた寝惚けているからなのかは判然としない。ただ、そう思えたのだ。
──瞬間、菘の手から力が抜ける。
彼は、疲弊して眠ってしまったのではないか、とも考えた。しかし、脈がない。そこから導かれた答えは一つしかないだろう。
「菘、嘘だろ!? しっかりしろ。……おい、俺が分からないか!?」
言いながら、令月の頭は何処か冷めていた。
死を間近で見てきた彼には、落ちていった妻の手が何を意味するのか理解できたのだ。掌から溢れる命の感触。頭の中が白一色に侵されていくような虚無の感覚に、しかし彼は何時しか膝を折っていた。
菘は倭ノ国における小国の姫君であり、令月とは政略結婚という形を取っていた。小国が滅びを避ける為には、それしか方法がなかったのだ。爪紅は将の家系になることが噂されており、かの国もそこに着目したのだろう。
病気がちだが献身的な彼女と、ぶっきらぼうな令月の取り合わせは、意外にも合っていたのか。互いの距離が縮むのはすぐだった。
歳に似合わず子供のような仕草を見せるところ、怒るとむくれる顔。笑顔を浮かべると笑窪が出来る、そんな女性だった。
遠く異国の地で、彼女は果てる。愛する者達に囲まれ、「逝くな」という悲痛な叫びも空しく、黄泉路へと旅立った。
「母上……母上ぇ!?」
菘にすがって泣く菫の姿が痛ましい。言い様のない感覚に五感を支配されていく。居たたまれなくなり、そこを離れて令月は自室へ戻る。
──結局俺がやったのは、あいつらの苦痛を増やしただけかよ。……くそっ、くそぅ‼
婚姻を持ち掛けた際に言った、『お前を幸せにする』という言葉が白々しい。
机に伏して組む腕に爪が食い込んでいく。肉をゆっくりと傷付けていくその感触にも一切頓着せずに、彼はひたすら声を殺して泣き続けた。
──破滅の音が着実に忍び寄っていたことも知らずに。
NGシーン。
これから先は、没シーンとなります。
本文とは一切関係ないのでご安心を。以下がそれに当たります。どうぞ↓。
「……これ以上は私の手に余る。他の医者に診てもらうのがいいでしょう」
そこで菫が這い出すように神父の脚絆──その裾を引っ張る。
「お願い、母上を──きゃっ!?」
「──何を、うわっ!?」
二人は縺れ合うようにして盛大にバランスを崩し、転倒。日用品と言わず蝋燭などの明かり取りをも床に散らばした。
菘も気分が悪いのか、激しく嘔吐し、床に吐瀉物が広がる。
死屍累々といった様子を目の当たりにし、思わず令月は顔を抑え、天井を振り仰ぐのだった。




