77話 カビ暗殺
コーヒー豆に混入したカビ成分に端を発したヒステリックな暴動から一週間が経過した。
コーヒーをきっかけにこれまで注目されなかった多くの話題や問題、ガセ情報が世間を賑わせたが、政府の賢明な対応により事態は沈静化され、全く意味の無いコーヒー店の襲撃も収まってきた。
ところが、ユアの住む町を含む一部の都市では事件は収まっていないどころか次第に悪化していた。
下校前のホームルームで教師がしょうもない二言三言を呟く退屈な時間は、今や聞き飽きた注意事項を延々と脳に刷り込まれる時間へと変わっている。
「繰り返しになりますが、生徒は必ず警察の指定した通学ルートを通って帰宅するように。スクールバスを利用する生徒も家に帰るまで油断はなし。夜の町に繰り出すなど以ての外です。この一週間で周辺の店舗襲撃事件は三十八件、死者十六名、負傷者四十一にも及ぶ被害が出ています。この危険な騒動を警察が終息させるまで不要不急の外出をしてはいけません。では、解散」
オウルの予想は見事に外れ、すっかり町は危険になってしまった。
ユアとしてはオウルが詫びとして勉強を教えてくれるので少し得しているくらいなのだが、好きに外出できないのはどうしてもストレスが溜まる。
スクールバスに向かいながら、ユアはいつものスマホでオウルたちとやりとりした。
『Y:いつになったら収まるの?』
『O:なんとも言えん』
『O:警察の介入でクアッドからも手が出しづらくなっちまった』
『O:そのうち正義感の強い警察官がユニットでも持ってこなきゃいいが』
オウルが言っているのは、イーグレッツ・アテナイ特務長だろう。
ユア達とそう違わない年齢ながら警察で特務課という特別な権限を持つ組織のリーダーを務め、更にはユニットの所持を政府から許可されている美丈夫だ。
ユアたちとは少しばかりの縁があるが、彼らが来ると当然クアッドはいつも以上に動きづらくなる。イーグレッツの強い正義感は、些細な悪も見逃そうとしないからだ。
おまけにイーグレッツはオウルを内心どこかで不審がっている節がある。相手したくないというか、相手をしても損するだけなのでオウルは彼を露骨に遠ざけたがっている。
『Y:ただの暴動で来るかなぁ?』
『O:唯の暴動ではなければ来る可能性は十分だ』
『Y:もう原因は分かってるんだ?』
『O:そのうちニュースで報道されるかも程度の原因だ』
つまり、予め知っていると怪しまれるから言わないが、そんなにひた隠しにするほど極秘でもない程度の原因のようだ。
ならばいつも通りユアに出来ることはない。
とりあえずクアッドの足手纏いにならないよう忠実に学校の言いつけを守るだけだ。
と――背後から急に電子音が鳴り、二人は同時に振り返る。
そこには学校でも不良寄りの存在で有名な男子生徒、ベンサム・ハミルトンが人を苛立たせるにやけ面でガンタイプの測定装置のようなものを二人に突きつけていた。
指輪にピアス、ピンクのメッシュを入れた金髪と目立ちたがり丸出しの彼からはきつい香水の臭いがした。
彼はユアたちとは友達とは言えずクラスも違うが、学校外で幾度も問題を起こしたり教師の見ていないところでいつも下らない悪事を行なったりとお近づきになりたくないタイプだ。
(うわぁ、嫌なのに絡まれた……)
「カビ人間はっけ~ん! おやおや、カップル揃ってカビの生えた汁を好き好んで飲んでるなんてまさにアツアツだなぁ!」
一瞬何を言ってるのか訳が分からずユアが呆けると、先にオウルが彼の手に持つ測定装置の正体に気付く。
「ドッグノーズかそれ? ああ、そういう……」
「え、なになに?」
ベンサムは自慢げにガンタイプの装置を掲げる。
「ご名答! この装置を使えば学校内のカビ人間を発見出来るってわけ」
「ドッグノーズは特定の臭いを記録し、その臭いと同じものを感知したら音で知らせる装置だ。まぁ、そんなもの手に入れて喜ぶのは警察くらいだろうけど」
ユアの記憶では警察犬に頼らずそうした臭いを判別するのは技術的にかなり難しいと聞いた事がある。つまり、多分高価なものだ。しかも日常生活で活用する術があまり思いつかない。
こいつ絶対どっかでパクってきたろ、と小さく呟くオウルにユアは内心で同意した。
「おおかたコーヒーの臭気を記録して学校中の奴に試して、ほんの微かにでもコーヒー反応が出たらカビ人間だって騒いでんだろ。ほら、前にニュースになってた」
「あー、あれね。そっか、一緒にコーヒー飲んだ時に制服着てたこともあったっけ」
コーヒー豆からカビが検出されて騒ぎになったあの一件を律儀にも覚えていたベンサムは、コーヒーの臭いを装置片手に探し回っているのだろう。本人の顔から察するに、ただ純粋な嫌がらせの為に。
なんて嫌な奴なんだろうとユアは不快な気分になった。
そもそも一部からカビ成分が出ただけでコーヒーを飲んだ人間はカビ人間と呼ぶという発想があまりにも幼稚だ。
幼稚すぎて言い返す気も起きずにいると、ベンサムは「頭にカビが回って思考能力が低下してるみたいだ。重傷だな。もう手遅れだ」と畳みかけるようにわざとらしくユアに顔を近づけて稚拙極まる煽りをしてくる。
――前に聞いた事があるが、ベンサムはこうした幼稚な煽りで相手が手を出してくるのを待ち、実際に出されるとその様子を隠し持ったカメラで撮影して「相手が暴力をふるった」と吹聴するらしい。
実際にその手に引っかかって何人かの教師が処分されたとか、両成敗扱いにされたという話は有名だ。
(どっちがカビ人間よ、ホント迷惑なんだから! こんなとこでバカに構って無駄な時間使いたくないし、ガマンガマン……、……あれ?)
無視していればそのうち飽きるだろうと思ったユアは、ふとオウルの顔を見て内心で焦った。
オウルも顔は嫌そうにしているのだが、問題はその瞳だ。
彼の視線は、余りにも平坦で冷めていた。
まるで、ユアのストレスの種になるなら消してもいいかな、と考えているかのように――。
(もしかして裏でこっそり殺す気!?)
オウルは自分が何をされても学生の演技を続行するだろうが、ユアに危害を加える者に対する処遇となると話は別だ。こんなバカを庇うのも馬鹿らしいが、それでも自分のせいでオウルが無駄に罪を重ねるのを恐れたユアは彼の手を抱いて急いで帰ろうと促す。
「オウル、もう行こっ!」
「……そうだな。バカが感染るとまずい」
「へぇ~、カビ同士は惹かれ合うってことかなぁ? おっと、俺も逃げた方がいいか!? カビの胞子で穢されたくないもんなぁ! でも大丈夫、こんなものもあるんだ! 備えあればうれしいな!」
どこまで周到に下らない準備をしていたのか、ベンサムは本格的な防護マスクまで装着してみせる。周囲もベンサムに不快そうな視線を向けているが、関わり合いになりたくないのか目を合わせないよう去って行ってしまう。
ベンサムは悪知恵だけでなく格闘技も囓っており、喧嘩になっても強いのだ。しかも非常にしつこく、人によっては家まで付いてこられた上に上がり込んで冷蔵庫の中を荒らされ、金品まで奪われたという噂もある。
(もう、コーヒー一緒に飲んだだけでなんでこんな奴に絡まれないといけないのよ! でもオウルに力尽くで振り払わせる訳にもいかないし、とにかく逃げて――)
「――奇遇だなぁ。僕もコーヒー飲んでからここに来たんだ。ちょっと調べてくれないか?」
とても柔和で、しかしどこかに底知れなさのある少年の声。
声の主はいつの間にかベンサムの背後にいた。
ベンサムは相手も確認せず喜色満面で自分の背後にドッグノーズを突きつける。丁度ガンアクション映画で背後の相手に振り向かず銃撃するような格好つけた動作だった。
装置が電子音を発し、そこでベンサムはガンマンのような気取ったポーズで振り返る。
「おっとぉ、こんな場所にもカビ人間……が……」
しかし、彼の威勢よく腹立たしい声は尻すぼみになって途絶えた。
彼が銃を向けた先には、警察手帳を突きつけた美少年がいた。
「君に会うのは二回目だよね、ベンサム・ハミルトンくん。以前に学校で出会ったとき君の前科について相応に灸を据えたつもりだったが、残念なことに変わりないようだ」
「お、おま……貴方は……!」
噂をすれば陰がさす。
威圧も迷惑行為も全てが通じない最悪の相手にベンサムの顔はみるみる蒼白になり、ユアはある意味助かったと胸をなで下ろし、そしてオウルは盛大に煮詰まったコーヒーにげんなりしたような渋面を浮かべた。
「イーグレッツさん! お久しぶりです!」
「げっ、出たよ……」
「元気そうでなによりです、ゆ、ユアさん! そして相変わらず失礼だなオウルくん」
そこにはこの国の警察で最も強権を振るうことを許された正義の権化にしてクアッドが一番来て欲しくない存在――警察の若き天才特務家長、イーグレッツ・アテナイの威風堂々たる姿があった。
お願い、死なないでベンサム!
次回、ベンサム死す!




