19話 必要悪の暗殺
ユアの精神が落ち着いたのは、それから暫くしてのことだった。
イーグレッツは宣言通りユアの目当ての店に車で連れて行ってくれ、代金を持ってくれた。
オウルが根気強く彼女の手を握って事件と関係の無い話をし、そして喫茶店という平和な空間と鼻腔を擽るスイーツの甘い香りが漸くユアを落ち着かせた。
ここは朝に赴いた高級カフェとは違い、ケーキが売りの隠れた名店だ。
提供する商品全てをオーガニックに拘っているが、これは本当に美味しいものを追求した結果としてそこに辿り着いただけで、オーガニックそのものは売りにしていないらしい。
温かいロイヤルミルクティーをちびちび飲むユアの向かいでは、イーグレッツが紅茶の香りを楽しんでいる。ユアから見ても所作の一つ一つが洗練されていて、彼の教養の深さを感じる気がした。
「とてもいい店だね。変な菜食主義者相手に商売してる店とは違う。なんというか、店主が本当に良いものを追求した感じがするよ」
「そ、そうですね……」
まだ少し緊張してしまうが、なんとか相手の顔を見ても先ほどのバイオレンスな光景を思い出さずに済む程度には、ユアは落ち着けた。
端正な顔立ちは同級生たちと比べても飛び抜けて美麗で、取り調べを受けた女子生徒は「王子様みたいな人がいた」と噂になったほどだ。
一方のオウルは隣でコーヒーにミルクとシュガーをぶちまけてがちゃがちゃかき混ぜているが、普段はブラックを普通に飲んでいたので演技だろう。演技と分かってはいるが、もう少し行儀良くしてくれないかなと恥ずかしく思った。
イーグレッツは改めて慇懃に頭を下げる。
「改めて、君たちの休日を邪魔して大変申し訳なかった。この通りだ」
「全くだ。どうせなら最初から主義者共を追っ払ってくれれば良かったのに」
「ちょっとオウル!」
堂々と悪態をつくオウルをユアが諫めるが、イーグレッツは気にしてないとばかりに手で制す。
「警察はああいう連中を捕まえたがらないからね。刺激するとすぐに暴徒化するくせに、捕まえても大した罪にならな上に反省しない。とはいえ、実際に逮捕者が出れば流石に地元警察も今まで以上に睨みは利かせてくれる筈だ」
「だといいけどな……」
オウルはそれ以上の追求はしなかったが、あまり期待していなさそうだった。
そんな態度を取らなくともいいだろうに、とやきもきする。
イーグレッツは気分を害した様子もなく紅茶に視線を落とす。
「主義者による犯罪行為はメディアでもよく取り沙汰されるが、統計で見れば犯罪率には殆ど変わりがない。だから彼らを危険思想の集団と断じることは難しい。それに国民の自由と権利は彼らにもあるからね。世界情勢がもっと安定すれば、今は主義にハマっている人々も目が覚めるだろう。それまでは僕たちもなるべく目を光らせていくよ」
人は将来に不安があるとそれを解消する何かを求める。
ある者は金に、ある者は愛に、ある者は地位に――そして、そうしたものを手に入れられない貧困層の人々は労せず簡単に手に入る安価な主義に手を伸ばす。
ならば不安が少なければ主義者は減る。
それが難しいから主義が蔓延し始めている訳だが、道理ではある。
(――って、オウルなら言うだろうなぁ)
ユアは話を聞きながらケーキにフォークを伸ばす。
店舗オリジナルのケーキらしいが、クリームの濃厚さとオレンジピューレのアクセントがハーモニーを奏でていて素晴らしい、と自分でもよく意味の分からないことを思う。ユアは、こうしてたまに美味しいものが食べられればいい暢気な一般人であり、主義にハマるくらいならスイーツにハマればいいのにと思う。
イーグレッツはそんなユアの様子に気が緩んだように笑うと、自身も頼んだクッキーに手を伸ばす。バターとナッツの香ばしい香りが食欲をそそり、ユアは今度お持ち帰りを頼もうと決意した。
「あっと、そうだ。僕が勤務中に暢気にティータイムを楽しんでいたことは他言無用で頼むよ」
イーグレッツがイタズラっぽくウィンクした。
「はーい」
「税金泥棒」
「手痛いなぁミネルヴァくんは。それじゃ、建前だけでも仕事をしておこうかな」
オウルの毒を笑って受け入れたイーグレッツは、取り調べのときとは違うフランクな様子だった。
「君たちが巻き込まれたバス事故だけど、不思議なことに『謎の黒いパワードスーツ』を目撃していないのは君たちだけだったよ。君たち、そんなに互いを見つめ合っていたのかい?」
「そそそそれはだってその……!」
思わぬ追求に、ユアの頬に赤みが指す。
本当はユアはばっちり見ていたしオウルに至ってはパワードスーツの操縦者張本人なのだが、それよりも、そういえばオウルに庇って貰ったという偽の証言を元にすればユアは事件の際に庇ってくれたオウルしか見てなかったことになるのか、と考えるとなんだか気の多い女のようで恥ずかしくなった。
オウルはわざとらしく咳払いし、うんざりだとばかりに肩をすくめた。
「またその話かよ……はいはいそうです。庇ったユアに夢中で見ていませんでしたっての」
「あの、ごめんなさい。全然見えてなくて、力になれなくて」
「いいっていいって。見てないものはしょうが無いんだから。それにしても君ら、僕みたいな子供が警察してることに全然追求してこないね」
思わぬ不意打ちにユアの体が凍り付きそうになるが、オウルが間髪入れずに返答する。
「三、四年前にテレビであったからな。警察を目指す天才少年って触れ込みで出てただろ? まさか本当になってて直に出くわす思わなかったからビビったけど」
「うえ、あれ見てたの? それはちょっと恥ずかしいな……当時は結構世間知らずなこと言ってた気がするんだけど」
「そうだろうと思って気を遣ってたのに自分から切り出されるとはなぁ」
イーグレッツは思わぬ反撃を受けて狼狽える。
危なかった、と、ユアは内心冷汗をかく。
確かに、普通なら中学生くらいの年齢の警察官などあり得ない話だ。
ユアは一度は不思議に思ったが後でオウルに質問して答えを得ていたので、疑るのをすっかり失念していた。オウルがしれっと辻褄を合わせなければボロが出たかもしれない。
(でも言われて見ればそんなのあったような……ノットイェットとかいう番組だよね)
ノットイェットは今なお続く、将来有望な子供を紹介する長寿番組だ。
オウルはああいう番組を見るのかと意外に思ったが、後になってオウル・ミネルヴァの設定でしかないかもしれないと考え直した。当のオウルは生意気な中学生の態度を崩さない。
「で、その天才刑事さんはパワードスーツの調査のためにこの町へ赴いたと」
「どうかな? どうであれ立場上言えないから追求しないでくれよ。気のない返事しか出来ない」
「もし見つかったら教えてくれよ。市民を救ったヒーローの顔は見てみたいけどな」
「確かに、命の恩人だもんね」
なんの気はないやりとり。
しかし、そのやりとりを聞いたイーグレッツがクッキーに伸ばした手を止めた。
「ヒーローではない。断じて」
「えっ……?」
彼の目には先ほどまでの気楽さなどない。
魘されるほどの熱狂が渦巻き、溢れそうな声だった。
「無許可のパワードスーツ所持、使用、高エネルギー兵器の市街地での使用。全て法律を逸脱し、国民の権利を無視した違法行為だ。罰せられるべき罪人だ。そのくせ警察に名乗り出もしない」
冷静さを保とうとする意思が底から湧き上がる怒りの熱に炙られ、次第に言葉が熱を帯びていく。ユアは反射的にオウルの服の裾を握る。イーグレッツにはもうユアもオウルも見えていない。そこにいないヒーローへの激憤に拳がギリギリと握りしめられる。
「秩序を逸脱した存在は断じてヒーローではない……!」
ぽた、と、テーブルに赤い何かが落ちたことにオウルは気付く。
イーグレッツは余りにも手を握りしめすぎて、自分の爪で掌の皮膚を突き破ったのだ。
オウルはそれに気付かないふりをして身を乗り出す。
「じゃあ俺たちはあのままビルに押し潰されて死ねば良かった訳か?」
視線と視線が交錯し、びり、と、空気がひりついた。
イーグレッツはオウルの言葉を峻酷に切り捨てる。
「犯罪者を庇うのか、君は? 人助けというお題目のためには犯罪も辞さないと? その思想は危険だな」
まるでオウルの正体を知っているかのような発言。
否、恐らくオウルを通してオウルが庇うヒーローを幻視している。
オウルはオウル・ミネルヴァとして、感情的に反論する。
「あんたの方が危ないぜ。俺からするとな」
目立たない為には何も言わない方が良かったのだろうが、そのリスクを差し置いてもオウルはイーグレッツという存在を知るべきだと思った。
「溺れ死にそうだったときに助けてくれた奴がたまたま犯罪者だったとしても、誰だって感謝の気持ちくらいは抱くし、そもそも庇う庇わない以前の問題だろ」
「ジルベス合衆国の世界最先端の法律に違反した者は須く罰されるべきだ。犯罪者がヒーローになることは許されない。罰されるべきことをしてでも人助けをしたいなら、助けた後に自首するのが国民のあるべき姿だろう? 自己満足のために法を犯し、我が身可愛さこそこそ罪から逃れて危険行為を繰り返す存在などこの国家に必要ない。実力を以てしてでも排除すべきだ」
一切の迷いなく、イーグレッツは他人の感情を切り捨て、自分の正義の御旗を立てた。
その正義と自分の感情がまったく同一であると信じて疑わずに。
自分が悪と断じた存在は誰が止めようが決して逃がさないとばかりに。
オウルの殺し屋としての本能が、警鐘を鳴らした。
(秩序と感情は常に隣にありながら完全には交わらないもの。なのに、こいつの中では二つは完全に結合するばかりか、意にそぐわないものを全て異物と見なしている。唯の狂信ならそれでいいが、公権力に加えてユニットという暴力までもが付随してる――危険だ)
この男はオウルがユアを助けるためにユニットを使う所を目撃したら、社会的な正義の為に躊躇いなくユアを見捨ててでもオウルを殺害しようとするだろう。しかも格闘術の達人で、同じ土俵に立つユニットを所持しているのだから厄介などという次元ではない。
彼にとっては秩序と信じる何かが世界の全てだ。
この男は、致命的な邪魔者になる前に殺すべきかも知れない。
ムキになったふりをしながら、オウルは氷のように冷たい判断を下そうとする。
一触即発の張り詰めた空気を破ったのは、イーグレッツの手から滴った血がテーブルにじわりと広がり始めたことに気付いたユアだった。
「うそ……二人ともそこまで!! イーグレッツさん、手、手!!」
ユアが慌てて鞄から簡易治療ポーチを取り出すと、これまでの張り詰めた緊張感を無視してイーグレッツの手を躊躇いなく取った。自分の手が血で汚れることなど微塵も考えない動きだった。
「何してるんですか! 手を開いて、早く!」
「……? 君は突然何を言って――」
「早く!!」
「え、ああ……?」
何を言われているのか本気で分かっていないイーグレッツの手が開かれると、皮膚が爪の形に抉れた痛々しい傷痕が露になる。痛みすら忘れる不正義への圧倒的な激情の痕跡が、彼の正義への熱狂を物語っている。
だが、ユアはそんなことはどうでもいいとばかりに傷口にポーチから取り出したスプレーガーゼを噴射した。スプレーガーゼは噴射された泡状の薬品が空気との化学反応でガーゼのような機能の個体に変化する一般的な止血アイテムだ。
イーグレッツが狐につままれたようにぽかんとその様子を見ていると、ユアは手早くガーゼ化した部分をテープで固定する。きちんと固定されて出血が一応止まったのを確認したユアは目を吊り上げてイーグレッツを叱った。
「自分で自分に傷をつけるなんて何考えてるんですか! その、警察だから色々考えちゃうのは分かりますけど、いや、分かってないかもしれないけど……自分の体を自分で労らなくてどうするんですか!!」
それは国民の権利でも義務でも法律上定められたものでもない、今を生きる人として当たり前のことだった。先ほどまで雰囲気に気圧されて言葉を発することができなかったとは思えないほどの勢いでややズレた叱責をかますユアにオウルは呆れ、イーグレッツは言われるがまま呆けていた。
「……」
「聞いてますか!!」
「……えっと。す、すまない。熱くなりすぎたようだ」
さっきまであれほど正義に燃えていた筈のイーグレッツは素直に頭を下げ、自分の手とユアの怒った顔を交互に見ながら必死で自分の戸惑いを解消しようとしている。自身の自傷行為にも彼女に怒られたことにも意識が追いついていないようだった。
ユアは「ならいいんです」とほっと息を吐くと、ポーチを鞄にしまうついでに時間を確認する。
「あ、もうこんな時間……」
オウルはそれを聞き、今だとばかりに立ち上がる。
これ以上彼と話をしてもキリがないし、これ以上深入りするメリットがない。
「ユア、もう出よう。こいつちょっとヤバ……いや、とにかくもう充分協力しただろ。イーグレッツ特務官だっけ? 約束通りゴチになるぞ」
「えっと、イーグレッツさん、ご馳走していただいてありがとうございます。それと、次からは自分で自分を傷つけるようなことしちゃダメですからね? それじゃ失礼します!」
丁寧に頭を下げたユアにつられるようにオウルも頭を下げ、二人は喫茶店を後にした。
遠ざかる途中、イーグレッツが「心配された、のか。この僕が……ユア・リナーデル……」と呟きながらユアの背中を先ほどとは違う熱に魘された視線で追っていることにオウルは気付く。そして、その隣で手を握るオウルへの視線が厳しくなったことに内心呻いた。
「オウル・ミネルヴァ……何故、君が彼女の隣なんだ」
何でも恋愛に絡めようとするミケではないが、流石にオウルも勘付く。
(あの純情狂信おまわりさんは……叱られて好きになる上に相手の彼氏に嫉妬とか、世間知らずか! お願いだから公私混同してユアを監視するようなマネすんなよ。俺が余計に動きづらくなるから!)
ただお茶とケーキを奢って貰うだけの筈が、ユアがイーグレッツに感情移入して彼を暗殺しづらくなるし、彼は彼で警察のくせに職務中にユアに発情するし、成果らしい成果と言えばデート代が少し浮いたこととイーグレッツが予想以上の要注意人物であることが判明したくらいだ。
そんなことはつゆ知らず、ユアは店を振り返ってぽつりと呟く。
「自分で自分の手を怪我させるなんて凄くおっちょこちょいな人だね」
「ユアほどじゃないんじゃないか?」
「そうかな……って、さらっと悪口言ったぁ!! 誰がおっちょこちょいなのよ、このこのぉっ!!」
私、怒ってます! とばかりにぼすぼすと威力の無いパンチで抗議してくるユアを遇いながら、オウルは偽装交際という作戦は早まったかもしれないと珍しく後悔に襲われていた。
……この時、既にアジトではサーペントが隠し撮りした二人のデート映像上映会が開かれ、ミケとテウメッサがポップコーン片手に「チューだ、チューしろ!」「もうオウルったら、そこは自分から誘いを仕掛けないと!」等と無責任に囃し立てながら盛り上がっていることをオウルは知らない。
一回優しくされただけで好きになっちゃうタイプの男子……。




