65話 探し物はなんですか
「―――馬鹿が!」
「させない!」
ザザさんとエルネスが瞬時に戦闘態勢に切り替わるのを、しゃがんだままのザギルは胡乱な目つきで見上げる。
「……お前らのそれが全てこいつの痛みになるのにか?」
多分その一言で虚を突かれた二人は、ザギルの接触を許してしまった。魔力を狩られたであろう二人がそのまま床に倒れこむ。
私の足元にいたはずのザギルはいつのまにか二人の間に立ってて、それからソファに座っている私を抱き上げた。
「これ、大丈夫?」
「しばらく動けない程度だ。つか、こいつらクラス二人分はさすがにもたれすぎるな」
「ザザさんももたれるんだ?」
「魔力量だけじゃなくてな、強ぇやつは濃いんだよなぁ……お」
ザザさんが、白くなるほど強く握りしめた拳で床を押さえつけて頭を上げた。エルネスも。
「……時間かければいいだろう、何があっても俺が引き戻す」
「カズハ、調律するから。一日中だってしてあげるから」
幸せで、震えるほどに身体中が痛い。
「よくまあ、そんだけ動けるもんだ。……お前らこいつ殺せないだろ」
「それはお前だって」
「俺は契約破ったことねぇつったろが。それにもともと俺はこいつが喰いたくてしょうがねぇし、これは裏切りにはなんねぇ。主サマの望みだかんな。だろ? お前らちゃんと今のこいつの目ぇ見てみろ。魔色でてんだろうが」
「―――なんだっけ。本当のこと言うと魔色でるんだっけ?」
自分じゃわかんないんだよね。瞬きで幾粒かこぼれ落ちた涙を舐めとられる。
「見せてやんな」
「……なんかこう、服脱ぐみたいで恥ずかしいねそれ。今なってるの?」
見おろせば、二人の顔色が更に悪くなった。ほんとに大丈夫なんだろうか。
「あのね、何があってもザギルに何もしないでね。金庫の中身全部渡して解放してあげて。これ、勇者の決定だから。ね?」
「あんた……私にそれ言うの」
ごめんね。ごめんなさい。
「細やかなサービスじゃねぇか」
「お手本にカザルナ王がいるからね。最高の雇用主でしょ」
「駄目だ。そんなのは、生きてれば」
「ザザさん、どう生きるかは私が決めるの。あなたに決めさせない」
これは譲れないの。私は今の私でいたいんだ。
「―――だったら俺がやる!」
「はっ、訓練どころか触れることもできなくなった奴がか? 無理だよなぁ」
む? ザギルまたすごい悪人面に磨きがかかった。
「ほんとになんでそんな意地悪な顔すんの」
「で、どうする? 俺は別にここでやってもいいけど」
「ほんとサイテーだね!?」
◇
「…右五…左七……よし! 開いたし!」
私の部屋にきて、金庫を開けっぱなしにした。閉まらないようにスツールを扉にひっかけておく。一応ね、転ばぬ先の杖だからね。勇者の決定は守ってもらえるはずだけど一応ね。私はとても愛されてるからね。
「……まあ、番号知ってるから俺でもあけれっけどよ。結局まだ黙って鍵開けれないままか」
「また番号口に出してたかね」
「出してたな」
抱き上げたままベッドに腰かけるザギルは、膝に私を座らせて向かい合う。
部屋の鍵はかけてある。扉とかあちこちにザギルの張った障壁がある。ザザさんたちから奪った魔力でいけるらしい。どんだけ器用なんだろ。
「扉や窓はわかるけど、壁とか天井に張ってあるのはなんで?」
「色々あんだよ」
ついばむ口づけを何度も繰り返すザギルは随分と穏やかだ。
「ねえねえ」
「んー?」
「ちょっと訓練してみてよ」
「んあ?」
「だって魔力交感で思いだしちゃうからダメって言ってたんでしょ? じゃあついでじゃん。大は小を兼ねるじゃん」
「……無駄だっつったのは別にそれだけのせいじゃねぇぞ? 別にいっけどよ」
首筋に舌先が這って悲鳴が出た。
「それなしっ」
「なしはなし。ちょっと力抜いて我慢しててみな」
唇を合わせたまま、ザギルは言葉を続ける。うなじに左手をあて、右手を尾てい骨の上あたりの腰にあてて、私を引き寄せた。
「最初魔力は触れるだけ」
手を当てられたところがぽうっと熱くなり、それがゆっくりと広がっていく。
ちりちりと私を焼いていた小さな痛みが、柔らかく宥められていった。
「俺の魔力がお前にはいれば、同じだけお前の魔力が俺にはいってくる」
深くかみあわされる唇が熱い。湿った音をたてて舌が絡む。
するりと背骨にそって皮膚の下を何かが走った。
びくりとはねた身体を抱きしめるザギルの腕は動かない。
「俺の魔力がどう動くかしっかり追って、俺の中にあるお前の魔力を同じように動かしな―――一見で踊るよりかは簡単だぞ」
私のものではない魔力がゆったりとじんわりと染み渡るように私の中で広がって、まじりあうことのないそれは魔力回路にそって、くすぐり、宥めて、噛んでいく。
ザギルの手の位置は変わらない。しっかりと私を抱き支えている。
最初何も知らずにザギルに「試された」ときに走ったのの何倍かもわからない快感が、体の中を押し流していく。
「……声殺すたぁ余裕だな? お前の魔力は仕事してねぇぞ?」
いやいやいやいやむりむりむりむりもう何が押し流されてってんのかわかんない!
抱きしめてキスしてるだけなのに。
勝手に漏れそうになる声を抑えるのだけで手一杯で。
骨が溶けたみたいに力の入らない手足と同じように、ザギルの中にある私の魔力はまるで言うことを聞く気配がない。
耳が熱い腰が熱い顔が熱い脳が熱い
首筋を甘噛みされて流れた痺れで、もう声を抑えられなくなった。
「な? 無駄だろ? 訓練どころじゃねぇよなぁ?」
「……くっ」
にんまりと笑って覗き込んでくるザギルから顔をそらす。
抱きしめられたままだから、差し出すようになってしまった首に唇を落とされてまた震えた。
「やんのとかわんねぇって聞いてたろうが」
「……ずるい」
「あん?」
「これは私が知ってるのと違うし。しょ、初心者向けを要求するし」
「―――っおま……」
なぜだか絶句したあと、大爆笑された。失敬だな! そんな笑わなくても!
「笑わせるのか煽るのかどっちかにしろや……よし、訓練終わり。こっから本気だ」
「……今までのは!?」
「訓練で本気出すわけねぇだろ。まあ、お前の身体に無理なことはしねぇよ。俺の魔力をひたすら覚え込むだけでいい」
「無理?」
「……サイズがなぁ」
「サ!? ―――っサッ、サイズいうなああ!」
ぱふんとベッドに押し倒された。ふかふかの布団から小さな風が吹きあがる。
ザギルらしくもない柔らかな優しいキスが何度か。
顔にかかった髪を撫でてどけてくれる。
「いいか。魔力が暴れるのも暴れる痛みも調律してやる。でもお前の記憶の中の痛みは消せねぇ―――忘れんな。ヘスカは死んだ。お前が叩き潰した。お前ん中にいる奴はただの亡霊だ」
「亡霊」
「そうだ、あいつは弱かったろう。蹴り上げて一撃だろうが」
「うん。あいつなら負けない。勝てる」
私の中に何がいるのがわからなかったから怖かった。
恐怖が私自身そのものなら勝てるかどうかわからなかった。
私が持ってる勇者の力は強すぎる。重力魔法は危険すぎる。
こんなものを正気失った人間に持たせちゃいけないんだ。
リコッタさんのように、自らの呪いに縛られて誰かを引きずり落とすかもしれない。
ミラルダさんのように、自らの欲望だけに駆られて誰かを追い回すかもしれない。
いつだってなんだって、欲しいものは力づくで奪いつくせる、気に入らないものは殲滅できる、こんな力は凶悪すぎる兵器でしかない。
幸宏さんは二歳児にサバイバルナイフ持たせる勇気があるかと言ったけど、同じように壊れた私にこの力を持たせる勇気などあるはずもない。
私が負けて壊れたらどうなるかと考えたら怖くて動けなくなった。
けど、何と戦えばいいのかわかれば戦える。
「あんな屑に私を支配なんてさせない」
「おうよ。お前はこの俺が初めて主と認めた女だ。敵は叩き潰して帰ってこい」
◇
魔力回路は体中に広がる血管と同じように伸びている。
糸のように細いのもあれば親指ほどの太さのものまで。
魔力が流れ絡み合い束となって循環する場所がいくつかあり、二の腕の内側、脇腹、左胸、内腿にもそれがある。魔力点というらしい。
ザギルの手のひらが次々と魔力点を撫でていけば、そこから飴細工みたいな魔力が細く細く伸びていき回路がからめとられていく。
深い口づけが息を塞ぐ代わりに吹き込まれていく熱い吐息。
波打ち際の砂浜みたいに押し寄せる快楽を私の身体が吸い込んでいく。
滲んで揺れる視界は海底から空を見上げるようで、柔らかな光がいくつもきらめく。
左胸に落とされた唇がチョコレートのように腰をとろけさせていく。
二の腕を、脇腹を甘ったるい痺れが走り抜けていく。
溺れていくようなのに、口の中が渇いて喉が枯れていく。
名前を繰り返し呼ばれて、なかなか定まらない焦点を合わせていくと、あの虹色が見たことのないほど熱っぽくて。
前髪を撫でつけるようにかきあげてから、優しく梳いてくれる。
「お前のな、その目の色が、気に入ってる」
「魔色? 今出てる?」
お互い荒い息を弾ませて囁く声は少しかすれてる。
「出てる。鮮やかな、いい色だ」
「ザギルの、虹色も、綺麗だよ」
ふっと笑って額に、頬に、繰り返されるキス。
「お前、欲しいものないっていうだろ。いっつも」
「ん? うん」
「本当のこというと魔色でるっつうあれな、実は少し違う」
「うそ?」
「いいや、欲しいもんがあるときにでるんだ」
「よく、わかんない」
不意に背筋を駆け上がった痺れに声があがる。
うなじから背中、腰を、内腿を滑っていく指先に、心臓がついていってるように脈打つ魔力。
「抑えつけてる感情とかそんなのがよ、あふれだしたりあふれそうになってたりすると出る。その声みたいにな」
体中に張り巡らされたザギルの魔力に揺すぶられて、かき回されて、言葉の意味なんてもうわからない。
「制御は、抑えつけるだけじゃ駄目だ。上手いこと逃がしていなして乗りこなせ。欲しいものは欲しいって言えばいい。欲しがって強請って奪い取れ」
「いま、そんなん、いわれても」
「『私も愛してる あなたがほしいの 愛しいひと』―――だったか?」
耳元での囁き声は、掴まれた内腿から沸騰する熱さに呑まれて溶け込んでいった。
頭を真っ白に塗りつぶしていく強い快感が連れてきたのは、あの砂嵐とヒカリゴケの灯り。
甘くとろけていた神経を、びりびりとした痛みが逆立てていく。
天蓋から垂れていた華奢なレースが無骨な石壁へと姿を変えていく。
力強く支えてくれていた腕も、硬い肩も、分厚い胸も、虹色ももう見えない。
そこにいるのはあの悍ましく薄汚れた亡霊。
たどたどしく紡がれている呪言に怖気だつ。
―――アア ホソイノニ ヤワラカイ フワットシテ チイサナ
アイスピックの銀色が薄闇の中翻る。
二の腕に、左胸に、脇腹に、ヘスカは順に穴をあけていく。
―――イタイネェカワイソウニ ホラ キモチヨクサセテアゲル
何度も何度も抉られる穴は広がり引きちぎられる寸前で癒される。
いやらしく歪む三日月の眼は、私が悲鳴をあげるたびに恍惚として澱んでいく。
痛みは慣れていくものだ。継続的に与えられる痛みは感覚を麻痺させて身体の持ち主を守ろうとする。
けれど回復魔法が塞ぐことのできるぎりぎりの傷は、最大限の痛みを与えてすぐに癒されてしまう。
そしてまた新たに穴を開けられる。慣れを覚える前の新鮮な痛みとともに。
塞がれた瞬間と、また抉られる瞬間の僅かな合間に与えられる快感。
繰り返される激痛と快感は、いつしか身体がその反応を間違え、すり替わり、上書きされていく。
ああ、でもどうだったろう。確かエルネスはログールと首輪の相乗効果で回復魔法も調律も効果がない上に激痛だと言ってなかったか。
ではなぜ傷は塞がっていくのだろう。ほらまた傷痕も残さず消えてゆく。
回復魔法は万能ではない。この世界の魔法使いには噛みちぎられた指を再生させることなどできはしない。
切り裂かれた腹を、溢れでた臓腑を、もぎ取られた乳房を癒やすことなど出来はしないはずなのに。
汚らしく伸びた爪が肌に食い込み突き破っていく。
骨ばって皺のよった長い指が腹の中を搔きまわす。
引きずり出された内臓を音を立てて咀嚼して嗤う亡霊。
こんなはずはない。これで何故私は生きてるの。
生きてられるはずがない。
逆流する血が喉を塞ぐ。
耳鳴りが脳を揺さぶる。
痙攣が骨を砕いていく。
逸らすことも出来ないまま視界が歪み切った途端に血も傷も内臓も消えていて。
そして襲ってくる激痛に、神経が混乱してゆく。
生きてられる筈のない光景が、身が崩れるほどの快感とともに訪れる。
傷ひとつない身体が訳の分からない痛みに叫んでいる。
どうして生きてるの
痛いだけ苦しいだけなにが起きてるの
なんで怖いの
なんで私はまだ生きてるの
もうやめて治さないで
その傷塞がないで 呼吸させないで 鼓動を止めて
怖い怖い痛い怖い痛い痛い痛いやめて生きてるのが痛い怖い
もっと切り裂いて
もっと掻き回して
もっと―――
亡霊の歪んだ三日月にそう叫びかけて、その醜悪さに言いしれない嫌悪感が蘇った。
―――もっと? なにがほしいの? なにそれなにがほしいの 私誰に何を言っているの
この屑に何を言おうとしてるの?
湧き上がる嫌悪感が瞬時に怒りに変わった。何やってるの。何しに来たの。何に溺れようとしてるの。
快楽? これが? こんなものが? 薄汚い亡霊が、私の上で何をしている?
こんなやせ細ったみすぼらしい男に、なんでいたぶられてなきゃいけないの。
なにが気持ちよくさせてあげるだ。気持ちいいわけあるか馬鹿か! 少しはザギルを見習え!
こんなの痛いに決まってる。こんなの怖いに決まってる。でもそれだけ。
腕も胸も脇腹も、アイスピックで抉られた傷があるだけ。
生きてるのが痛くて怖いなんてそんなの今更だ。
全部捨ててこの世界まで逃げ出してきて、やっと手に入れたうれしいことも楽しいことも、幸せなことも、なんでそんな今更なことで投げ出さなきゃいけない。
やっと戦える力を手に入れたのに、今それ使わないでどうするんだ。
忘れるなって言われたでしょう。
これは亡霊。ヘスカは私が叩き潰した。もう一度叩き潰せばいいだけだ。
これは幻覚。ログールと首輪の力を借りなきゃならない程度のしけた魔法使いがかけた幻覚。
こんな屑に私が負ける? そんなわけがない。
欲しいものはこんなものじゃない。
ヒカリゴケが灯る薄暗い石壁の部屋で、両手両足縛られた子ども相手にアイスピックを突き立てるような屑がいる。
リコッタさんを抱きとめているザギルがいる。今ならわかる。すごくむかついてる不機嫌な顔だ。
ロブは見えない。どうでもいい。
たったそれだけの光景だ。怒り狂った私に蹴り上げられて叩き潰された屑が二人。それが現実だ。
今は私の中にあるだけの記憶。
その記憶通りに、屑を二人始末した。
屑になんて支配させない。お前は私が管理する。
ほら、今私が本当にいるのはこんな薄暗がりの部屋じゃない。
私に触れている魔力がちゃんと感じられる。これを追えばいい。
逆立てられてた神経が凪いでいく。
ヒカリゴケが這っていた石壁は、天蓋から垂れる華奢なレースへと姿を変えていく。
力強く支えてくれていた腕が、硬い肩が、分厚い胸が、虹色が目の前にある。
「―――今帰ったぞ」
「……どこの亭主だよ」






