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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

傷だらけの回送電車

作者: イズシロ



 毎日来るたび、この寂れた駅構内で人を見つけるのが困難であった。


 自販機もない、こんな田舎の閑散とした無人駅に立ち寄る物好きは一人としていない。必要とする人さえあまりいないのだ。

 都会の生活に疲れて、田舎暮らしを始めて……。

 人が嫌いになって田舎暮らしを始めて……。


 私は逃げるところまで逃げてきたのだろうか。


 駅員室には駅長もおらず、待合室には錆び付いた灯油ストーブがあるだけだった。


 都会の鬱陶しさから逃げてきた私は今もリクルートスーツを着ていた。慣れないメイクに時間をかけるのは直らなかった。ここへ来て変わったことといえば、髪を後ろに縛っただけだった。

 丁寧に梳かしたり、とにかく髪に気を遣わなくてよくなった。

 気にする人もいなかった。


 一本に縛れば、それなりに清楚さを演出できたのだ。

 それが心のゆとりだとは思わなかった。寧ろ、心の堕落だと、この一人立ち竦む時間の長い駅で、私はそう感じるようになった。


 誰もいない田舎で、身なりに気をつけるなんて馬鹿馬鹿しくて、それをやめられない自分が情けなく思えてくる。


 陽も昇らない朝に出て、隠れて見つけられない真っ暗な夜に帰る。

 電車の時間を把握しているのは行きと帰りの二本だけだった。それ以外ともなると、一時間置きだとか、遅延で三十分ずれたりだとか、ほとんど当てにならない。


 日によってはたった一人、駅のホームで一時間以上待ちぼうけを食らうこともあった。時間にルーズな電車だ。


 ホームには朽ちた木のベンチが一つ。

 腐ってるのか、わからないが、一言でいえばダメになったベンチだった。私は一度も座ったことがなかった。綺麗なスーツが汚れてしまうのが嫌で……。

 そんな考えをする自分も嫌だった。


 田舎の解放感は結局のところ、自分で解放してあげることでしか味わえないのだと学んだ。

 自分で自分を縛り上げて、環境を変えただけで檻から解き放たれたとは言えないのだ。

 私は鍵の掛かっていない開きっぱなしのゲージの扉を眺めるだけで、そこから飛び出せなかった。


 卑屈な人生をこのホームで呆然としながら振り返る。


 今、そう、いまだ。

 卑屈な人生をやり直せるのであれば私は、このホームから身を乗り出すこともできるだろう。

 ただ、飛び出すのではなく、怪我をしないように足から着地できるように跳ぶ気がする。

 私は私をちゃんと殺せるのだろうか。


 テレビは引越しの時に処分したが、最後に見た番組の内容に、私は一人でツッコミを入れていた気がする。

 あれは自殺を考えていた人の体験談だったはずだ。

 自殺しようと語る口調は悲壮感の塊で、こちらの同情を誘うように己を卑下しまくるのだ。自分のダメさ加減を惜しげもなく披露するのだ。勿体ぶることもなく、自分はこんなにも辛いのだと。


 でも、部屋は荒れているわけでもなく、それなり充実していそうな生活感が所々に滲み出ていた。


 手首にはリストカットの痕もない。髭まで綺麗に剃って、取材に備えていた。もう準備万全といった具合に。


『あぁ、この人、さらさら死ぬ気がないんだ』


 そんな感想の後、私は「自分を傷つけられない人に死ねるはずがない」と妙に経験者っぽい言葉をブラウン管のテレビに向かって吐いた、気がする。


 ふと、電車を待つこの長い時間の間に、そんなことを思い出していた。

 綺麗なスーツに綺麗なバッグ。それなりに小綺麗な格好で私は田舎の寂れた駅に立っていた。


 もうどちらから電車が来るのかもわからない。

 どっちを見ても、朝も夜も薄暗い闇がそこから先の景色を見せてくれないのだ。


 飛び降りるにしても、随分心の準備をさせてくれる駅だと私は思った。飛び出すタイミングを図るにしても、この駅では突発的に死にたくはさせてくれないのだろう。ちゃんと準備をさせてくれて、計画をさせてくれる。

 死のうかな、と思ってからが異様に長かった。


 私は死の縁——ホームの縁に立ってどちらから来る電車をずっと待っていた。


 頭だけ出しておけばいいんだっけ?

 でも、せっかく髪を縛ったのに、もったいないかな。髪も結構伸びたし、愛着はないけど、女の髪は命より大事とかなんとか聞いたこともある。


 電車が来てから飛び降りるのは待ち疲れが起きるし、いざという時に怖気付いて足が動かなくなってしまうかもしれない。

 なら、いっそ線路に降りてから動けなくなった方が諦めもつくだろう。


 そう思いながら私はいそいそと線路に降りた。

 手際が悪いのは仕事でもよく言われていたことだった。要領が悪いだったけ?

 とにかく、いそいそというより、登ったはいいけど降りられなくなったみたいに私はおっかなびっくりに線路へと降りた。


 革靴は線路の石にやられてさっそく傷がついた——のを目敏く見つけてしまう。


 遠くで電車の明かりが見えてきた。左? 前? だと思ってたけど、それは後ろからだった。

 こっちだったけ? まあいっか。


 前ではなく後ろから私の人生を変えてくれる電車がきたようだ。

 都会みたく、忙しない速度ではなく、暗いせいかやけに遅く感じる。


 近づくにつれて私は、ハッと気がついた。

 そうだった、私は今自殺しようとしているけれど、『自分を傷つけられない人は自分を殺せない』。物理的にせよ精神的にせよ、死への選択は自分でするものだ。

 自分が選んで、決めたから死ぬ。


 それはいいんだけれど、結局私は自分を殺せるのだろうか。

 田舎暮らしは自分を解放する目的だったけれど、こんな形で解放されるとは思いもしなかった。


 ならば私は事前に計画を立てて死ぬのではなく、やっぱりこれも突発的な衝動なのだろうか。


 私は自分の手首を確認する。

 綺麗な手首だった。自分で自分を傷つけられない。けれども死のうとしている。


 私は間違っていたんだ。

 衝動的に死のうと試みたけど、つまるところ私は死ねない人間なんだ。


 近づく電車は私が見えているはずなのに警笛を鳴らすどころか、ぐんぐんと速度をあげて迫ってきていた。

 もう止まれる速度ではなくなっている。


 選ぶ、選ばざるとに関わらず、私は土壇場で気の引けてしまう気弱な人間なのだ。

 だから安心して、線路から出ようとする。

 幸いホームの向かいは、何を作っているのかわからない、畑が広がっているだけだ。ひとまずあっちに避難しよう。

 電車には乗り遅れてしまうかもしれないが、仕事を欠勤することで何かが変わるかもしれない。


 あれ?


 今何時だっけ?


 朝だっけ、夜だっけ?



 夜ならば終電で帰ってくるはずなので、電車が来ることはないはずだった。



 そもそも私の仕事ってなんだったっけ?


 目前に迫る電車に、私は靄のかかった考えを振り払う。

 まずは逃げよう、危ないから逃げよう。

 私は怖いから逃げられる弱い人間だ。


 ギリギリで、いや余裕を持って命を優先してしまう人間なのだ。


 でも、私はふと見えてしまった。

 電車の先頭、運転席に家族のような人たちが乗っているのを。

 小さな子供、小学生の子供。中学生の子供。高校生の子供。大学生の子供。

 そして二ヶ月前の私——ここに引っ越してきた直前の私。


 全てが私だった。

 自分とは思えない笑顔で、自分とは思えない幸せそうな瞳で、家族のような暖かさがその運転席に広がっていた。

 みんな前を向いている。先を見ていた。

 目の前の私ではなく、ずっと遥か先の暗闇を楽しそうに見ていた。


 小学生だった頃の私が運転席から遊園地で次に乗るアトラクションを選ぶように、指を差した。

 私ではなく、私の頭上を越えてさらにその奥に向けて。無邪気な顔で未来を指差していた。


 私はつられるように、後ろを振り返る。

 そこには何か小さい私が心躍らせる何がかあるはずだったが、私には見えなかった。視界を塞ぐ暗闇が広がるばかり…………きっとあの頃の私が見えていたものがそこにあるはずだった。


 私は必死に探す。

 でも、背後で突如鳴り響いた警笛の音が荒れ狂った。


 私の体は私の体ではなくなった瞬間。私は自分を傷つけていたことだけを静かに悟った。


 


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