【046】その部屋で見たもの
ふと、ロズリーヌは足を止めた。
「まあ」
通りかかったとある一部屋。そこだけが、まるで切り取られた空間であるかのように綺麗だった。
そう、綺麗だったのだ。
自分が放置されていたあの部屋や、今まで覗いてきた他の部屋とは違って。
「わたくし、閉じ込められるならこの部屋がいいわ」
その部屋の前で立ち止まると、若い男は薄く開いていたドアを閉めながら肩を竦めた。
「ああ、この部屋は駄目だぜ。お頭が使ってるから」
「……そう。それは残念ね」
たった今目にしたものを反芻しつつ、ロズリーヌは再び歩き出す。
(今のは……)
そこに、お頭が向こうからやって来るのが見えた。随分と大股で急くように歩いている。
「まったく、とんでもないお嬢ちゃんだ」
お頭は、ロズリーヌの目の前に辿り着くなりそう言った。どうやら文句を言いに来たらしい。
「わたくし、何かしてしまったかしら」
「確かに敷地内なら出歩いていいと言った……言ったが、まさかこうも自由に過ごすとは思わないだろう!」
「そう言われても、歩かないと気が滅入ってしまいそうだったのだもの」
「恐怖心がないのか? ここには貴族に恨みを持っている人間もいる。そんな奴らが、目の前に現れた貴族のお嬢さまに手を出さないと?」
「でも、生きて帰すつもりはないのにそのまま放置するのは、まだそうしてはいけないからでしょう。違う?」
最初はぼんやりしていた頭も、次第にはっきりしてきていた。だからといって、ここにいる男たちに正面から戦いを挑んで勝てるわけもないが。
「――可哀想な子」
脈絡なくロズリーヌがそう呟くと、お頭と若い男はそろって訝しげな表情を浮かべた。
「……可哀想?」
『子』と言ったので、自分たちのことだとは思わなかったのだろう。不可解そうに訊き返してくる。
「ルフィナさまよ。彼女、こんなことをしでかして無事で済むわけがないわよね。わたくしの生死にかかわらず、これが彼女の仕業だということはいつか気付かれる。そうなったときが見物だわ」
「いや、あの女は公爵家の人間だぞ」
「まあ! 公爵家の人間ならなんでも思い通りにできると? だとしたら随分と思い上がっているのね。世の中、そんなに都合良くできていないわ」
しかも、周辺国に比べるとヴェリアの持つ権力は低い。表面上は対等に見せていても、実際はそうでもないというのはよくあることだ。
そう考えると、たかがシュパン公爵を切り捨てるのに、ヴェリアの王も思い切った策に出たものである。余程うまくやらなければ、ヴェリア国もろとも周辺国に非難される。
おそらくそのあたりの根回しはしてあるのだろうから、できる王なのだろう。
――そこまでできるのなら、すべて国内で処理してほしかったところだが。
まあ、国内の事情のほうが複雑で厄介なことがあったりもするので、理解できなくもない。
「彼女がもしそんなこともわからずに今回のことを仕掛けてきたのだとしたら、そこに付随する結果もまるで想像していないのでしょうね」
「まさか。バレるようなことがあっても、あいつの父親がどうにかしてくれるさ」
「そうね。公爵だものね。そういうこともあるかもしれないわ」
ヴェリアのだけど、とは口に出さずにおいた。人は信じたいものを信じるものだ。
「お頭!」
その時、部下と思しき若い別の男がお頭に近寄ってくる。そして、耳元に何事かを囁いたかと思うと、再び足早に去って行った。
お頭が振り返る。
鈍い光を宿した瞳がロズリーヌを捉えた。
「――お嬢ちゃん、遊びの時間は終わりだ」
お頭は不敵な笑みを浮かべ、そう言うや否や、ロズリーヌの腕を乱暴に掴んで歩き出す。
ほとんど引きずられるような状態で、ロズリーヌは転ばないようになんとか足を動かした。
「遊んでいた、つもりは……ない、のだけど」
息も切れ切れに、ロズリーヌが口走る。先を行くお頭がふんと鼻を鳴らして嗤った。
「あんたらはいつもそうだ。こっちの生活も気持ちも知らず――知ろうともせず、まるで遊ぶかのように土足で立ち入りすべてを荒らしていく。後始末もしない。それでいいと思っているんだろうがな」
妙に熱が入った語り口に思わず聞き入ってしまいそうになるが、その瞬間、ロズリーヌは思い切り手を下に振り切った。
それまでろくに抵抗してこなかったからか、思いのほか簡単にお頭の手が離れた。
「なっ――」
お頭が慌てた様子で振り返る。
しかし、ロズリーヌはすでに走り出していた。背後には先ほどの男もいたが、ロズリーヌの突然の行動に呆気に取られたらしい。立ち尽くす男の一瞬の隙を突いて、ロズリーヌはその横を擦り抜ける。
「女が逃げた! 捕まえろ!」
背後でお頭が叫んだ。
(馬鹿ね。わたくしが普通に走って逃げられるわけないじゃない)
女であるうえ、今は簡易的なものとはいえドレスを着ているのである。ここにいる屈強な男たちと正面から争うつもりはない。
だが、何もしなければここで終わりだ。
ロズリーヌは目的の部屋――先ほど、男が『お頭の部屋』と言っていたそこに飛び込んだ。
そして、男たちに捕まる前に、机の上に置かれていた明かりがついたままのランタンを手に取る。
すぐそこまで迫っていたお頭が、足を止めた。
「あんた……!」
「そこを動いたら大変なことになるわよ」
「……は、この屋敷ごと燃やすっつうのか? お嬢ちゃんも一緒に死ぬぞ」
「どうかしら。やってみなければわからないわ。試してみる?」
しばしの間、お頭とロズリーヌは睨み合う。
「どちらにしろ無事に帰すつもりはないのでしょう? なら、今ここで火を放ったところで、わたくしにこれ以上の損はない。むしろ、一人や二人ぐらいは道連れにできるかもしれないし――」
「いや、待て。ああ、待て」
本気だというのが伝わったのだろう。
お頭はまるで嫌なものでも見てしまったというように顔を強張らせ、片手を中途半端に持ち上げた。
「……お嬢ちゃん、あんたはどうやら俺が思っていた以上に賢いようだ」
ちらと壁際を一瞥して、お頭が宥めるような声色で言う。
「なんて思われていたか気になるところですけれど。でも、そうね。あなたが貴族の娘をどうにでもできると考えているだろうことは伝わってきたわ」
「実際、そうだろう。今のあんたに何ができる? ここで火を放てば、そうだな――あんたの言うように一人や二人は道連れにできるかもしれないが、あんたはこうして俺を脅している。つまり生きて帰りたいんだろう。そのために交渉したいと思っている。だが、俺が『ランタンを置く代わりに生きて帰そう』と口にしたとして、それを信じられるか?」
「信じられないでしょうね」
「……なに?」
「近付かないで」お頭が足を踏み出す素振りを見せたので、ランタンを前に突き出す。今すぐにでも、これを床に打ちつけるぞという脅しである。
ロズリーヌの思った通り、お頭は足を一歩下げた。この人は、この部屋にあるものを焼失させたくないと思っているのだ。
「そもそも、わたくしを誘拐した本人に向かって命乞いをするつもりはないわ」
言いながら、ロズリーヌは机の上に無造作に置かれていたペーパーナイフを手に取った。
「何を……?」
ランタンを持っているほうの手にペーパーナイフを持ち替えて、じりじりと後退していく。
背中が壁に当たり――これ以上進めないというところまで。
「ひとつだけ助言してあげる」
ロズリーヌは薄く笑み、ランタンから手を離した。
「おい――」
お頭が息を呑む。
しかし、ランタンは壊れなかった。――壊れてもいいと、ロズリーヌは思っていたが。
お頭の意識が逸れている間に、ロズリーヌは窓枠に足を掛けた。
「は……そこから逃げようってのか?」
視線を戻したお頭は、驚いたようだったが、今度は嘲るように嗤う。ランタンという脅しの道具がロズリーヌの手を離れた今、それこそどうにでもできると思ったのだろう。
「やめときな。地面に激突して大怪我するのがオチ……」
「――大事なものがあるならね、ほんの少しの躊躇もしては駄目なのよ」
満足げに微笑んで、ロズリーヌは窓から飛び出した。




