【022】かつての約束
ヨエルを王子宮に連れ帰ると、心配そうな顔をしたエマとバルトが駆けつけてきた。
微笑を浮かべて追及を躱し、足早にヨエルの私室に足を踏み入れる。なるべく、王子の泣き腫らした目を人目にさらさないほうがよいからだ。
ついでに、リンダにも別室で待っていてもらうことにした。
といっても、幼い王子と二人きりになって「なにかよからぬことでも吹き込もうとしているのでは」などと噂が立つのもよろしくないので、扉は薄く開けたままにする。
流石に話す内容までは漏れないだろうが、こういうのは体裁が大事なのだ。
「……ローズ義姉さま、ごめんなさい」
部屋に入るとすぐ、消え入るような声で、ヨエルが小さく呟いた。
「まずは、温かい飲み物でもいただきませんか」
ヨエルが戻ってきたときのためにと思ったのだろう。テーブルの上に、カップとお湯が用意されていた。
「義姉さまが淹れるんですか?」
ロズリーヌに促され、ソファに座りながら目を瞬かせるヨエル。基本的に、貴族令嬢が自ら飲み物を用意することはないので、当然の驚きではある。
ロズリーヌが微笑みながら紅茶を淹れ出すと、青い双眸が輝きを増した。
「すごい! 義姉さまって、本当になんでもできるんだ」
「まあ! そのように思っていてくださったんですね」
「だって、頭も良いし、マナーも完璧だし、優しいし――あっ、たまには怒るけど、それはぼくが悪いことをしたときだけだし」
ヨエルが片手を掲げ、指を一本一本折りながら、『ローズ義姉さまのすごいところ』を挙げていく。
裏表のないヨエルのことだ。本心なのだろう。
ロズリーヌにもそれがわかるので、どこか気恥ずかしい気持ちになった。
「わあ……」
ヨエルは、カップに紅茶が注がれる様子を興味津々に見つめている。
それを微笑ましく思いながら、ロズリーヌは予備として用意してあったカップにも紅茶を注ぎ、ひとつはヨエルの前に、もうひとつは自分の前に置いた。
「殿下、このあと、授業はございますか?」
「……ううん、今日はお休みだって」
おそるおそるといった様子でカップに口を付けながら、ヨエルが首を振る。
「そうですか。では、今日はわたくしも、こちらで少し息抜きをしてもよろしいですか?」
ロズリーヌがそう言うと、パッと幼い顔が持ち上がった。しかし、すぐにその表情を曇らせる。
「あ、でも、義姉さま、忙しいんじゃ……」
「わたくし、ヨエル殿下には嫌なものは嫌だ、無理なものは無理だと言うほうですよ。先ほど、わたくしのことを『たまに怒る』とおっしゃったのは、殿下じゃありませんか」
「……そうだった」
かつてのエミールほどではないけれど、ヨエルの立場は弱い。
実母が側妃なので、もともとそうなのだが、同母兄であるエミールが問題を起こしたのだから、なおのこと微妙な立場に追いやられてしまった。
この賢い少年は、可哀想なほどに、自分の立場を理解している。
――自分の環境は周りの大人が用意するものだ。
それがわかっているから、常に大人の顔色を窺うようにしているのである。
(わたくしたちより、ずっと賢いわ)
けれどその分、嫌なものもよく見えるだろう。
子どもが健やかに育つには、王宮という場所は向いていない。今となってはもう、護衛を撒くような遊びもできないはずだ。
時折逃げ出してしまうのは、本人にもどうしようもないことなのではないかと、ロズリーヌは踏んでいた。
それから、ヨエルとロズリーヌは、時間を気にせず他愛もない話をした。
ヨエルがまだ赤ん坊だった頃のこと。まるで弟ができたかのようだと喜ぶロズリーヌが抱き上げたら、タイミングを見計らったかのように吐いたこと。じゃれ合っていたら、だんだん調子に乗ったヨエルが、ロズリーヌを転ばせてしまって初めて怒られたこと。最近、初めて食べた異国のデザートのこと。ロズリーヌと会わない間に、ヨエルが授業で学んだこと。
そこでふと、静寂が落ちる。
紅茶で唇を濡らし、ロズリーヌが窓の外に視線を向けると、すでに空が紫色に侵食されつつあった。
結局、この王子がたびたび姿をくらます理由はわからないまま。会話の中で、それとなく聞き出してみようとしたのだが、ヨエルの顔がみるみるうちに強張ったので、それきりだ。
アーロンに許可を得て、たまには様子を見に来るべきかもしれない――そんなお節介なことを思いながら、ロズリーヌは立ち上がる。
「義姉さま、もう帰ってしまうんですか?」
不安げに、透き通った瞳が瞬いた。
「わたくしももう少しお話ししたかったのですけれど……アーロン殿下に許可をいただいたら、また伺いますね」
ロズリーヌは次の約束を取り付けるつもりだったが、ヨエルの表情が晴れることはない。
「でも……」
それどころか、なにか言いづらそうに口をもごもごとさせている。
「殿下――」
「でも、そうならない、かも、しれないからっ」
喉の奥から絞り出すような声で、顔を俯かせたまま、ヨエルはそう言った。膝の上で握り締められた拳を見れば、体に力が入っていることがわかる。
小さく震える姿が、今にも泣き出してしまいそうに感じられて、ロズリーヌは慌てて義弟になるはずだった少年の隣に腰を下ろした。
ギュッと力の入った体は、ロズリーヌを拒絶しているように感じられる。
「殿下、わたくしが何か嫌なことをしてしまいましたか?」
実のところ、ヨエルが泣く場面は何度か目撃してきたが、このように興奮し、荒ぶっているところは見たことがなかった。
だから、きっと自分が何かしてしまったのだろうと結論づける。
しかし、ヨエルは口をきつく結んだままだった。
(『そうならない』って……どういうこと?)
いつまでも根気強く待ち続けたいが――ロズリーヌは改めて、窓の外を見る。
例えば夜遅くに、ロズリーヌが王子宮を出て行った姿が目撃されてしまうと、非常に厄介なことになるのだ。相手が幼い王子だからこそ。
困り果てた気分で、荒く息を吐き出す王子に視線を戻す。
仕方がないので、もう一度声を掛けようとしたその時。
「……さまは……」
ヨエルが掠れた声で、話し始めた。
「義姉さまは、ぼくの義姉さまになるって……」
「え……」
「兄さまと結婚して、ぼくの義姉さまになって、三人で一緒に暮らそうって!」
吐き出すような叫び声に、ロズリーヌの呼吸が止まる。
――ローズ義姉さまは、ヨエル殿下のお兄さまと結婚しますから、そうしたら三人だけで楽しく暮らしましょう。
言った。
確かに言った。
数年前の、今よりさらにヨエルが小さい頃の記憶が蘇ってくる。同時に、当時のつらい気持ちも思い出された。
「でも、義姉さまはもう、兄さまとは結婚しないんでしょう? 使用人たちも……アーロン兄さまも言ってた」
数年前といっても、三年ほど前のことだ。
もうその頃には、エミールは随分とつれない態度になっていて、ロズリーヌとしても、ただひたすら突っ走るしかないような状況だった。
大丈夫。結婚さえしてしまえば元の関係に戻れると、自分自身を騙して。
そんな時だった。
齢四の幼いヨエルが、使用人たちに心ない言葉をかけられているのを目撃したのは。
「スペアにすらなれない王子に価値はない」だとか「一度も母親が訪ねてこない可哀想な王子」だとか、そんなことだったと思う。
事実、この時点ではアーロンとエミールがいて、どちらかが国王に、どちらかがスペアにという考えが主流だったので、歳の離れたヨエルは、あとはもういずれかの爵位を賜ってひっそり臣下に下るだけだと考えられていたのだ。
ロズリーヌとしては、「あの国王がそんな無駄なことをするとは思えないけれどね」と、半笑いでそれを傍観していたが。
まさか、王子に対してそんな戯言を吐きかける無礼者がいるとは夢にも思わなかった。
幼いからわからないだろうと侮ったのか。
しかし、ヨエルはしっかり理解していた。
自分の立場の不安定さも。
幼心に、なぜこんな目に遭わなければならないのかと思ったのに違いない。ロズリーヌが、使用人の心ない言葉に傷付くヨエルを慰めていると、ヨエルはこう言った。
「ずっと、兄さまとローズ義姉さまと遊べたらいいのに」
ロズリーヌに対する態度は別にして、エミールは同母弟であるヨエルを可愛がっている節があったので、ヨエルも懐いていたのだ。
だから、言ってしまった。
自分もつらかったから、そうだったらいいなを口にしてしまった。
「ローズ義姉さまは、ヨエル殿下のお兄さまと結婚しますから、そうしたら三人だけで楽しく暮らしましょう」
エミールと元の関係に戻れて、可愛い義弟がいて、自分たちを傷付けるものはなにもなくて――そんな生活が待っているのならどんなにか、と。
「殿下……」
何か言わなければと、ロズリーヌは口を開く。
だが、何も思いつかない。
考えているうちに、ヨエルが勢いよく顔を上げた。興奮からか、ふっくらした頬が上気している。
「兄さまが何かいけないことをしたんでしょ? 仲直りできなかったって、アーロン兄さま言ってた。だから、もうぼくの『ねえさま』じゃないって。それに、兄さまは……」
ヨエルは何かを言いかけて、ひゅっと息を吸い込んだ。
そのまま、また口を噤んでしまう。
「……ごめんなさい」
ぽろり。
ロズリーヌの口から、そんな単純な言葉が零れ落ちた。そして、そのまま小さな体を抱き締める。
ヨエルはびくりと一度体を震わせたものの、その抱擁を拒絶することはなかった。
「殿下が、わたくしからの『約束』を信じられないのも当然ですね。わたくしがあの時、勝手なことを言ってしまったから」
けれど、と続ける。
「けれど、義姉さまはね、本当にそうだったらいいのにと思ったのよ」
腕の中で、ヨエルがもぞりと身じろぎをした。
「本当に、そうなったらいいなって……」
――ああ、どうしよう。
なんだか泣いてしまいそうだ。
幼い少年を抱き締めながら、ロズリーヌは天井を見つめた。当時のことを思い出して、少し感傷的になっているのかもしれない。
「義姉さま、泣かないで」
下から声を掛けられて顔を戻すと、ヨエルがいつの間にか、こちらを見つめていた。
慌てて指先を頬に触れさせる。
涙は出ていなかった。
「……大丈夫。泣かないわ。義姉さまですもの」
「約束も、もう二度と破らない」ロズリーヌが改めて言うと、ヨエルは声を返す代わりに、いっそう強くロズリーヌにしがみついた。
やはり余計なお世話だろうと思いながらも、この子をひとりにしておけないという気持ちが湧き上がってくる。血のつながりなんてないのに、妙な感覚だ。
「……義姉さまは、兄さまのことが嫌いになった?」
今度こそ立ち去ろうという時に、ヨエルは意を決したような表情で、ロズリーヌに訊ねた。
ロズリーヌは、ドアのほうへと向けていた足を一度止め、振り返らないまま――けれど、はっきりとした声で告げる。
「――嫌いだと思ったことなど、一度もありませんよ」
嫌いになれたならよかったのに、と思いながら。




