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世界のはじまりは指先から【連載中】  作者: 桜木彩


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【018】絡みつく人

 いつも通り登校してきたロズリーヌは、出会い頭にそう言われてはたと立ち止まった。


「エジェオさま、おはようございます」


 とりあえず、淑女として挨拶は欠かせない。


 「うん、おはよう」エジェオは可笑しそうに笑いながらそう返し、そしてもう一度、

「君、悪女なんだって?」

 と、繰り返した。


 しかし、すぐに面食らったような表情を浮かべる。まるで、思いもよらない反応が戻ってきたと言わんばかりに。


「驚かないんだね」


 ロズリーヌは笑みを浮かべたまま、小首を傾げた。


「なんのことでしょう?」

「僕がアディルセンの言葉を話せること。もしかして知っていた?」


 ああ、と頷きながら、ロズリーヌは足を踏み出す。

 エジェオもそれに倣って、歩き出した。

 ――確かに、今、エジェオは我が国(アディルセン)の言葉を話している。しばらくは頑としてヴェリア語しか話さなかったというのに、今になってどういうわけか。


「あまりに流暢(りゅうちょう)にお話しなさるので、気付かなかっただけですわ」


 実際には、前もって受け取っていた留学生たちの調査書に書かれていただけだが、それを正直に言うわけにもいかない。


「それに、公爵家を継ぐ方でいらっしゃいますもの。周辺国の言語ぐらい学ばれていても、可笑しくはありません」

「君と同じように?」

「……と申しますと?」

「いや? 周辺国といっても、すべての国の言語を習得しているわけじゃない、ということだよ」


 何が言いたいのかと、ロズリーヌはほんの少しだけ警戒心を強めた。

 いつの間にか、さも親しい友人であるかのような話し方になっているし、どこか軽薄な印象を与えるエジェオ・トノーニ。

 だが、彼には底知れぬ何かがあるような気がしていた。


「ヴェリアは、ここよりもずっと小さな国だからね」


 エジェオは相変わらず友好的な笑みを浮かべたまま、話を続ける。


「この国の王族となれば、もっと重要な国々の言語を優先して学ぶものだろう?」

「まあ。我が国にとっては、どの国も等しく()()ですわよ」


 言いながら、ロズリーヌは(しと)やかに笑った。

 厳しい妃教育を受けた結果、このような応酬には慣らされているが、もしかして失言するのを待たれているのかしらと身構えてしまう。

 ここで「そうですね」などと同意すれば最後、「アディルセンはヴェリアを下に見ているらしい」と報告されるのではないかと。

 相手は確かに小国。

 暗黙の了解として、立場で言えばアディルセンのほうがやや強くはあるのだが、表面上ではあくまでも対等な国同士として交流しているのだ。

 エジェオ自身もわかっているのだろう。

 ロズリーヌの言葉に対しては、ほんの少し肩を竦めただけで、さして気にしたふうでもなく続ける。


「今代の国王陛下ですら、ヴェリアとの会談には通訳をお連れになる。知っていた?」

「ヴェリア語がおできになるといっても、やはり異なる言語。会談ともなれば、大事なお話をなさるのでしょうし、言語の違いによる問題は極力起こしたくない。そうした配慮の結果でしょう」

「ああ、当然それはあるだろうね。でも、そんな陛下も、挨拶はヴェリア語でしてくださる。それを聞いていたらわかることだけれど、きっと簡単な会話ができる程度にしか習得されていないと思うな」

「……それで?」


 なんてしつこい人なの! とロズリーヌは心の中で溜め息を()いた。

 言いたいことがあるのなら、もっと直接的に言ってほしいものだわなどと頭の中でひとりごちたものの、次の瞬間には、そう思ったことを後悔した。


「うん。だから、陛下ですら完璧にとはいかないヴェリア語を、なぜただのご令嬢がすらすら話すのかなと思って」


 思わず息を呑むが、なんとか取り繕うように口を開く。


()()()()()ではなかったからですわね」

「それは、王子妃になるための教育を受けたからということ? ヴェリア語が必修だったとは思えないな」

「正直に申しますと、ええ、そうです。ですが、わたくしは学ぶのが好きでしたので。王子妃になるためという名目で、最上級の教育が受けられるのですもの。こうなったらとことん賢くなってやるわと思っただけです」


 半ば開き直るようにそう言ってやると、エジェオはきょとんと目を丸くしたあと、可笑しそうに肩を震わせ始めた。

 その表情は、先ほどのものよりも幾分か幼く見える。


「ああ、いや、ごめんね」


 対応に困ったロズリーヌが黙り込むと、それを怒らせたと思ったのか、エジェオは笑みを引っ込めようとして――けれども、失敗したように、小さく()き込んだ。


「わたくし、なにか変なことを言ってしまいましたか?」

「え? ううん、ただ意外だっただけだよ」

「……意外?」

「僕が思っていたより、ずっと芯のある女性なんだなって」

「ええと……それは……ありがとうございます、と申し上げてよろしいのですよね」

「ふふ、もちろん」


 張り詰めていた空気が、柔らかなものへと変化する。

 しかし、ロズリーヌの中ではまた別の心配が生まれていた。


(出会ったばかりのエジェオさまが疑問に思われたんだもの。セレスタンさまも、不思議に思ったかもしれない……)


 婚約者は、ロズリーヌが妃教育を受けていた時のことをあまり口に出したがらない。

 なので、ロズリーヌがヴェリア語を習得していると知った時、驚いてはいたようだったが、深く聞かれることはなかったのだ。

 それが、単に妃教育時代の話題を避けただけなのか、妃教育の内容を把握していなかったというだけの話なのかはわからない。

 ただ、前者だった場合、ヴェリア語を学んだ理由を話しておくべきか――いや、でも――と、ロズリーヌが葛藤し始めたその時。


「あら、随分と親しくなったみたいですね」


 高飛車な声が割り入ってきた。

 ヴェリア語だ。

 エジェオと二人して振り返ると、伯爵令嬢のドロテが佇んでいた。

 ロズリーヌがハッとして周囲を見渡す。先ほどまではまばらだった人影が、ほんの少しだけ増えていた。


「ドロテさま、おはようございます」


 相手の無礼な声掛けにも、おっとりと挨拶で返すロズリーヌ。

 誰かの妃という立場になることはないにしても、ロズリーヌは上級貴族の娘で、次期公爵の妻になる人間だ。淑女として、他の令嬢の手本になる立ち振る舞いが求められるのである。

 セレスタンがそんなことを聞けば、「それが君の精神的な負担になるなら、父の跡を継ぐのはやめておくよ」とデタラメなことを言い出しそうだが。


「王族と婚約を結んでおきながら、不貞を働き、相手に罪を(なす)りつけ、さも自分は被害者だというような顔をして、婚約破棄直後に恥ずかしげもなく、不貞相手と再婚約するだけあって、異性と見ればそうやって擦り寄っていくのね。驚きました」


 怒涛の勢いで罵倒され、ロズリーヌのほうが驚いてしまった。

 だが、ロズリーヌとて、厳しい妃教育を受けてきた身だ。立ち直りも早かった。


「ドロテさま。今おっしゃったことは、すべて噂でしかありませんわ」

「どうかしら。火のないところになんとやらとも言いますし」

「だとしても、噂でしかない段階で、まるでそれを真実であるかのように語るのは、あまりおすすめできませんね」


 噂はおそらく学院内に収まっているので、厳密には、大人貴族の社交界ともまた違う。

 けれど、誰かの陰口を聞いて「そうよね」と相槌を打っただけで、あの人があなたの陰口を言っていたわよ――と本人に告げ口されてしまう世界なのだ。真偽が確かでない噂を積極的に広めるのは、頭が良い行為とは言い(がた)い。

 なぜ喧嘩腰なのかはわからないが、ドロテは最初からそうだった。


「少なくとも、わたしは真実だと思っているわ」


 今のところ、一番の()()()は彼女である。


「では、噂の当事者として申し上げますけれど、あなたが真実だと思っていることは、真実と大きく異なります」

「まあ、こんな醜聞、本人が肯定するはずはないでしょうね」

「不貞を働いてなどいない、というのは声を大にして訴えたいところですが――他国の婚約事情が、そんなに気になりますか? 残念ですけれど、この国の上位貴族のご子息のほとんどがすでに()()()()かと」


 隣国(ヴェリア)では、幼い頃に婚約を結ぶのが一般的だという。にもかかわらず、ドロテ・ランバルドにはいまだ婚約者がいない。そう調査書に書いてあったのを、ロズリーヌは覚えていた。

 だから、ちくりと言ってやる。

 もっとも、婚約者がいないのは、エジェオも同じであるが。


「な、っ」


 ドロテが羞恥に顔を赤らめた。

 しかし、なんとか言い返そうと口を開く。


「だ……としても、すぐに別の男に乗り換えたあなたよりずっとマシよ!」

「乗り換えた? わたくしが?」


 相手を威圧するように半笑いで首を倒すと、馬鹿にされたと思ったのか。


「この――あばずれ女が!」


 ドロテが悲鳴を上げるように甲高い声を放つ。


「まあ、なんて品のない声かしら」


 そこに、聞き慣れないひとつの声がやんわりと割り込んできた。






明日も更新します。

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