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蛇足ですが。
「お嬢様、本当によろしかったのですか?」
付き添ってきていたミアが問う。あの騒ぎ以来、ミアはほぼブリジッタの専属になっていた。
既にブリジッタは与えられた客室に戻っている。国王陛下に公爵たちは具体的な息子たちの処遇などの話し合いに残っているが、彼女は無理はするなと休まされた。
「とりあえず、不服は無いわ。エルスパス領で良くしてくれた皆は、デザスタ領までついてきてくれたし、そのデザスタ領も役立っているという実感が持てる。……まだ当分は、領内の開発にかかりきりでしょう」
ブリジッタはちょっとワーカホリックのきらいがある。自分の仕事があることが自分が必要とされていることと認識していて、時に自分の体より仕事を優先する。
その辺りを、デザスタ領にきてから自分でも理解した。カレルや彼の下で働く者たちが、こぞって『無理はするな』『十分休んで』と戒めてくる。今までずっとこれでやってきた、と言えばだからこそ休め、と返される。今まで十分過ぎるほどに働いてきたのだから、休める時には休んでおく方がいい、と。
確かに、カレルの働き方を見ていると、ブリジッタが教えられたのとは全く違う。
彼女は母の後を継いで、少しでも早くエルスパス領を治められるようにならなければ、と子どもの時分からあれこれ詰め込まれて他の子どものように遊んだり友達を作ったりする時間もなかった。
必要なことだったとは思うが、今になって考えれば、無駄になってしまった。それでも、自分にとっては無意味ではない。少なくとも経験や知識、人脈を得るにはこの上なく重要だった。
そしてその代わりに、普通の貴族令嬢が楽しむような物事とほとんど縁がなく過ごしてきた。社交上最低限必要なドレスやそれに付随する諸々は購っても、あまり自分の好みは反映されなかった。それを仕立てる側は、『イザベラ様はこういうのがお好きでしたから』『イザベラ様なら、こちらが似合いました』と、ブリジッタより既に亡い母に合わせたものにしてくる。ブリジッタ自身あまり自分の好みや似合うものがわかっていなかったせいもあるが、当然のことながら母娘でも似合うものは違う。
どこか儚げで甘やかな美女だったイザベラより、ブリジッタは引き締まった印象の容姿だ。『可愛い』と『綺麗』の違いというか。父ライアンの要素が入ったこともあるだろうが、その雰囲気はかなり異なる。
彼らは結局、ブリジッタを通して今はいないイザベラを見ていたのだろう。それはブリジッタも理解していて、だからこそエルスパス領へ戻る気はない。
その幻想に付き合うのは疲れた。正確には、エルスパス領を離れたから、自分が疲れていることに気づいたのだ。
「お嬢様……」
「あなたや、使用人でも若い人たちはそうでもないわ。でも昔からいる人たちはどうしても、ね。それも彼らが悪い訳ではないけど」
その自覚も、あのままエルスパス領にこだわっていたらできなかっただろう。彼女自身、固定観念に捕らわれていた。
「……シモン様には、その点感謝しているの。あの方がしでかしたおかげで、私も我が身を省みることができたのだし」
「……あの人に感謝する必要なんてありませんよ、お嬢様。血筋と見てくれ以外、何の取り柄もないじゃありませんか」
「まあ、ミアったら。……まあもう不敬にもならないから、いいけれど。……彼にも、他にもいいところがなかった訳ではないのよ」
「……そうですかあ?」
「ええ。……少なくともシモン様は、私をお母様と比べなかった。単にあの方は、私の母親を知らないだけなのでしょうけど」
おっとり微笑むブリジッタに、ミアは何も言えなくなった。
お嬢様が、頭の悪い元婚約者やら全く家庭を省みない父親、そして彼らを誑かすダリアとデイジー母娘にうんざりしていたことは、エルスパス家に仕える者なら皆知っている。彼らの中でもその評判は極めて悪い。
少なくとも、人の上に立つ者の振る舞いではないと、特に彼らに使われる立場だった使用人たちはしみじみ実感している。身勝手で我が儘、使用人に八つ当たりし、その癖自分で責任を負うことさえまともにできない。
ブリジッタが追いやられてからの短期間で、エルスパス家の使用人もかなり減っていた。彼らの振る舞いを嗜めて馘首になった者もいれば、目をつけられて逃げるように退職した者もいる。
翻ってデザスタ領では、人数こそ多くないものの、カレル以下領内の開拓に真面目に取り組んでいる。ほとんどが騎士団あがりのむくつけき男どもだが、女性の絶対数が少ないせいもあってかブリジッタだけでなく彼女の侍女であるミアにも丁重な態度が統一されている。他の女性は職人のおかみさんや少数の針子くらいで彼女たちが一番年少、つまりそれほど若い女がいないのもあるようだ。
もちろん多少の怠け者やお調子者がいない訳ではないのだが、概ねここより他に行く場所もないことを弁えているのか、ほぼほぼ皆が自分の仕事には忠実だ。よくいる、要領のいい立ち回りだけが上手い類いはおらず実直な努力家が多い。
その辺りもブリジッタには好印象なのだろう、エルスパス領ではイザベラの信奉者が幼いブリジッタを侮ってろくに働きもせず文句ばかりつけて批判したりしていた。そしてそういう連中に限って、古参へのごますりばかりが達者でそれなりに甘い汁を吸っていたのだ。
そうした諸々に疲れたブリジッタが、デザスタ領で少しずつ癒されていたことはミアも承知している。カレルの意が良く行き渡ってブリジッタの扱いは丁重だったし、彼女が自分で頼んで仕事をさせてもらうようになってからも協力的だった。
上手くいかないことももちろん多かったが、投げやりになることもなく努力を続ける彼らと、ブリジッタの関係は良かった。
ミア自身も、むさい男どもに最初は怯えていたが、基本的に気の良い連中であることを理解してからは打ち解けた。実は中の一人と恋仲になっていて、落ち着いたら一緒になろうと約束し、上司のカレルからも承認を得ている。ブリジッタも祝福してくれた。
だからこそ、彼女にも幸せになってほしいと思うのだが。そんなミアは、恋人(カレルとは付き合いの長い腹心の一人)の言葉を思い出す。
『お嬢様は、まだ色恋に戻れるほど気力が充実してないかもしれないよ。うちの閣下も、そっちは疎いから……あまり口を出さずに、そっとしといた方がよくないか』と、武骨な男は淡々と述べた。
ミアも、ブリジッタの苦難を知らない訳ではない。事の始末が済んだ後、彼女に残されるものが少ないのではないかと案じてもいた。
けれど、何よりブリジッタ自身が、彼らに関わることもエルスパス領を取り戻すことにも関心がないのなら、これ以上傍からどうこう口出しする必要もないことはわかる。
結局エルスパス領は、王家に返還されパーサプル公爵家も統治に関わることになった。正確には王家と公爵家で経費を負担し、収益をブリジッタ個人に渡すことで賠償に当てる、という。
ブリジッタ自身はそこまでせずとも、とは言いながら払われるのなら拒否はしなかった。その収益をデザスタ領に投資して更なる発展を促す、と結構乗り気である。
カレルは付き合いの長い部下やら使用人やらからかなりせっつかれ、焦ってもしょうがないとは言いつつ、それなりに攻める気はあるらしい。だが当のブリジッタ自身が色恋沙汰はしばらくごめんだと宣言し、彼の決意も振り出しへ。
『確かに焦ってもしょうがありませんね』とカレルの周りでも一番古株の家令が納得し、とりあえずは信頼関係を強化することから始めることにした。先は長いが、それこそ焦る必要もない。




