26 冬の背中合わせ
レガート皇国が輩出する芸術家の多くは、レガティア芸術学院を卒院する。
ゆえに入学すること自体が至難の業だ。一般的な学術筆記試験に加え、各実技試験。その抜け道として多額の寄付金という手もあるが、入りさえすれば成績優秀者の場合制服も無料付与。授業料も免除された。
さらに、抜け道ではない正規の、もう一つの手段――美術科の場合は著名な芸術家自身による推薦と本人自筆の添え文、作品の提出という方法がある。
キーラ画伯家三女ロゼル。
御年十四歳。
彼女の場合は当然のように三つ目の手段となった。
* * *
「うーん……自画像は、描くと自分の顔が絵に合わせて変わる気がするな」
突如、ぼそりと呟いたロゼルの凛々しい声は傍らに立つ青年のなかで、妙なツボを直撃した。
ぶは、と遠慮なく吹いた優しげな家庭教師に、一方的に笑われた美少年風の令嬢が眉をひそめる。
「真剣なんだが?」
「すみません」
くくく……と、まだ背中が震えている。もはや隠しもしない。何事もなかったかのように、すとん、とみずからの椅子まで戻ってしまった。
このひとが失礼なのは、今に始まったことじゃないな――と、ロゼルは半眼になって再びキャンパスと向かい合う。
今日は邸内でのイデアの部屋に来ている。一使用人の部屋よりは多少広く、客間に近い趣だ。
外は雪。昼下がりの長閑な時間。
明日は隣のバード楽士伯邸から招待を受けているし、課題はさっさと済ませてしまいたかった。
せめて、夕食までには。
ぱちん! と、時おり暖炉の薪がはぜる。
暖められた部屋で師と絵に向かい合う時間は嫌いじゃない。どころか――
(たのしい)
キャンパスのなかの自分はやたらと澄まし顔だったが、今このとき、ロゼルはふふっと頬を緩ませた。
――すると。
右側から視線を感じた。
制作中の絵ではない。自身を直接視られていると瞬時に察する。
パッと振り向いて視線を流すと、ほぼほぼ背中合わせだったはずの銀縁眼鏡の青年と目が合った。
油彩を乗せて重たくなったパレットを下ろす。筆もろともキャンパスを乗せたイーゼルの足にぶつかる。
「……何? 先生」
「いえ。大きくなられたなと」
(そこまで、しみじみ言わなくても)
口角が下がるのを意識した。
まじまじとかれの顔を下から覗き込む。
――なんと言うか。
最近、このひとから子ども扱いされると反射でムッとしてしまうのだ。
「――試してみる?」
「へ?」
なな、何を……? と妙にあたふたするのが面白く、ロゼルは本格的に筆を休めた。きちんとパレットを置いて再度振り返り、無駄な動作を省いて立ち上がる。
つかの間見下ろしたかれに立つよう促すと、実に素直におっとりと従った。
(先生、従順すぎ)
大人のくせに、と揶揄いそうになったがやめた。
自分が『子どものくせに』と言われたら絶対に良い気はしない。秒で考えを改め、本題に入る。
「よく見て。二年も会ってないから気付いてないかもしれないが、私だっていつまでも子どもじゃない。前はここまでだったけど」
「!」
わずか一歩の距離。
目線を下げて、指先で触れたのはイデアの胸下。鳩尾のあたり。
黙りこくって微動だにしない青年には一切構わず、今度は半歩まで距離を詰める。あえてどこにも触れない。両手を腰に当て、挑むようにほぼ真下から水色の瞳を覗き込んだ。
――早々に『そうですね』なんて苦笑で流されておしまいかと思ったが、イデアは動かない。
こればっかりは追いつきそうにない、わりと大きな両手は中途半端な位置で固まったままだ。
(?)
まだ、足りないかなと言葉をかさねた。
「ほら、こんなに顔が近くなった。言っとくけど先生がいない間に壁画にも挑戦したからね?」
「……はい」
「? 驚かないの。知ってた?」
「いえ。ある意味いろいろ驚いてます。ただ迂闊に触れないようにするのに……その、精一杯で」
「触れる……何に? みんなにも内緒で壁に絵を描いてたことに?」
「内緒って。すごいな、どんな荒業ですか。
――――じゃなくて。貴女に不用意に触れるわけにはいかないんです」
「こんな形なのに?」
肩をすくめ、両手を広げて貴族の令息にしか見えない自分を誇示する。
が、イデアは断言のうえ力強く首肯した。
「危険でいっぱいです」
「ふーん……」
よくわからなくて、年長の教師を追い詰めることに飽いたロゼルはふいっと目を逸らした。
その瞬間。
ほんの少し、身を屈めたイデアが彼女のそっぽを向いた頬に顔を寄せ、ちいさな問い掛けを落とす。
「――それとも。僕から貴女にどのように触れたとしても。許してくださるんですか?」
小首を傾げ、ちょっとぞくっとする声音で囁かれた気もしたが、すでに描きかけの課題と目が合ってしまった。意図的に無視する。
するっと身を翻して何もなくなった宙を、イデアの手が素通りした。短く切ってしまった焦げ茶の髪に掠りもしない。
カタン、と椅子を鳴らして座り、再び筆をとる。
「…………」
「ん。そんな戯れ言ほざいて遊んでないで。お互いさっさと仕上げよう。先生のそれは、納品いつまで? どこの?」
「届け先はセフュラなので……往路を考えれば明後日ですね」
「私と遊んでる暇、あるの?」
「……ないですね。そもそも貴女で遊ぶなんて大それた考えはありませんが」
「じゃあ真面目にしようか」
きっかけはどちらかと言うと少女にあったはずだが、場はそれで無理やり収められた。
背後から、それこそ苦笑で「はい」と流したイデアが再び着席する。
互いに背を向け、それぞれの絵に没頭する。
しんしん。しんしんしん……と、雪が降り籠める。
静けさと各々の筆を走らせる音のみが部屋を満たす。
――――先ほどの。
ふいに落とされた囁き声を、ちらりと思い出した。
(危険でいっぱいなのは、先生じゃないかな)
呟きはもちろん、胸に秘めた。




