26:魔法陣発動
『十字架の意味なんか知らなくたって生きていけるさ』
★
ユウがアナスタシアと話した日の深夜。
時間はもうすぐ日付が変わろうかという頃合いだ。
ホーリーウインドは街の東にある建物の屋根上に布陣し、攻撃目標である倉庫を見下ろしていた。
「そろそろ始めましょうか」
「ああ」
指揮官である少女の言葉に副官の少年が頷く。
昼間にユウから話を聞いたアナスタシアはすぐに偵察を指示し、次の儀式の準備をしていると思われる倉庫を発見した。
今回の任務は単に女神教の沽券に関わるということだけではない。
準備段階は既に佳境との報告を聞いた彼女は夜襲を決断した。
「ユニコーンアンドバイコーン、異世界からの侵略者に正義の鉄槌を」
落ち着いた声でアナスタシアが杖を構える。
彼女の瞳の色が一瞬だけ揺らいで白を纏った。
「マーダークイーン」
冷徹さを纏った彼女の声を合図に街中から雄叫びが上がり始める。
「女神様バンザァァァァァァァァッイ!」
「邪教徒を血祭りにしろぉぉぉぉぉぉぉお!」
熱気、怒気、そして狂気。
攻撃的な感情を纏った群衆が我先にと家々を飛び出して倉庫街へと走り始めた
目標はもちろん儀式の準備をしている倉庫だ。
倉庫街の近くに住んでいたと思われる住人たちがアナスタシア達の目の前を通って全力疾走で倉庫に到達した。
ガン! ガン!
扉に鍵がかかっていることを確認すると、持っていた手斧で扉を壊し始めた。
物音と群衆の奇声でようやく襲撃の対象が自分達だと理解した倉庫内が一気に騒がしくなる。
その様子を見たアイザックが静かに剣を抜いた。
「アイザックさん、早まらないでくださいね?」
「わかってる」
アイザックはじっと倉庫の方向から視線を逸らさない。
(……本当にわかってるんでしょうか?)
アナスタシアが溜息をついている間にも暴徒は続々と集まってくる。
扉を破って侵入したところを片っ端から魔法で吹き飛ばされているようだ。
武器を持って突撃した者達は炎で黒焦げに、盾を持って突き進もうとした者達は風の刃で五体不満足にされて命を落としていく。
倉庫に火をつけようとした者達は消化ついでに水弾を叩きつけられて肉塊へと姿を変えた。
相手にも強力な魔法使いがいるようだとアイザックも舌を巻く。
いきなり正面からぶつかれば、ホーリーウインドも相当な被害を覚悟せねばならなかっただろう。
(アナスタシア様々だな)
状況の推移を見守っているアナスタシアを横目で見た。
今でこそ立場は同格だが、彼女の能力を考えれば更に組織の上へと上がっていくことになるのはまず間違いない。
与えられた『福音』そのものの格の違いか、あるいはそれを使いこなせているかどうかなのか。
アイザックは後者だと思っている。
彼が『天使』を通じて女神から与えられた福音『バックドラフト』。
それを横にいる彼女の福音『マーダークイーン』ほどに的確に使いこなせているかと言われれば彼自身も疑問府を付けるだろう。
「敵に動きがありそうです。アイザックさん、準備を」
アナスタシアの言葉でアイザックは物思いから引き戻された。
断続的に倉庫の中から発射される魔法の起点は少しずつ移動して例の魔法陣がある付近に集中している。
敵としてもそろそろ後がない状況だ。
事態を打開しようと打って出る可能性は十分に予測できた。
ヴゥン!
二人の背後にいるホーリーウインドの僧兵達。
彼らが既に臨戦体勢に入っていることを確認して倉庫に視線を戻した直後、アイザックは『何か』の音を聞いた。
低い、唸るような振動音だ。
だがそれが何なのかまではわからなかった。
「魔法陣の起動音!」
戸惑ったアイザックの横で正体に気がついたアナスタシアが叫ぶ。
それに答えるかのように中から黒紫の激しい光が溢れ出した。
バンッ! ドシュシュシュシュシュシュシュ!
「――!」
倉庫の中へと侵入していた暴徒達が肉塊となって一斉に外に吹き飛ばされる。
さらに魔法陣の光の中から一つの影が飛び出し、周辺の暴徒達を瞬殺した。
アナスタシアは息を飲む。
敵の数は一人、そこまではわかる。
だが速すぎて動きを捉えきれない。
魔法陣の光があるお陰で、辛うじてその影を線として確認できるだけだ。
得体の知れない物を相手にしているという実感で背筋が凍りついた。
「アイザックさん! 来ます!」
「わかってる!」
暴徒達を一瞬で肉塊に変えた影は屋根上に陣取るホーリーウインドに向かおうとしていた。
アナスタシア達も即座に迎撃体勢を取る。
バン!
――音が爆ぜた。
「ドゥルグ!」
正面への防御の構えも虚しく、ドゥルグと呼ばれていた僧兵が腰から上を丸ごと吹き飛ばされた。
人を構成していた血肉が細かくなって撒き散らされる。
先程まで地面にいたはずの敵の影が、既にホーリーウインドの展開している屋根上へと移動を完了している。
地上に残されているのは残像だけだ。
バババンッ!
仲間をやられた事に気がついた周囲の数人が攻撃に転じようとするも、それよりも早く横薙ぎにされて同じように上半身を失うことになった。
一瞬足を止めた敵の姿が地平線近くからの月明かりに照らされる。
黒いマントを身に纏い、両手には黒紫のオーラで構成された短剣。
引き締まった肉体は中年と言うにはまだ少し早いが、少なくともアイザックやアナスタシアよりは年上だ。
そしてその鋭い眼光は命のやり取りを一切躊躇っていない。
音も無く背後を取った僧兵が右手のナイフで首を狙う。
バンッ!
音が爆ぜる。
男はその場で体をスピンさせると、迫った僧兵を容赦なく薙ぎ払った。
頭部、胴体、そして下半身に三分割されて大量の血と臓物を撒き散らす。
(死角からだったのに!)
完全な視覚外からの攻撃を造作もなく払い除けたことにアナスタシアは戦慄した。
数で劣ることはあっても質で負けることはないと踏んでいたが、敵の戦力が想定を大幅に上回っていたことを認めざるを得ない。
――強い。
――自分達よりも遥かに。
攻め手を見いだせない僧兵達を黒マントの男が圧倒的な速度と力で次々と屠っていく。
「この!」
焦ったアイザックが斬りかかるも、速度に差がありすぎて捉えきれない。
剣が空振りに終わった直後、背後から頭部を吹き飛ばされた。
粉々になった頭蓋骨と脳髄が宙に舞う。
「アイザックさん!」
アナスタシアは叫びながらも彼が既に手遅れであることを認識していた。
――傷を癒やすことは出来ても死者を生き返らせることは出来ない!
目の前に迫る死。
努めて冷静に敵の戦力を分析しながら、彼女はそれが避けられないものであることを確信していた。
「ショックウォール!」
バチチチチチチ!!!!
自分の周囲に電気の防御壁を隙間なく展開する。
先日のエル・グリーゼとホーリーウインドの戦いでダリアが使用していたのと同種の魔法だ。
夜の闇に走る白光を纏った美少女が男を睨む。
(せめて足を止められれば……!)
アナスタシアは順当に『殺処分』されていく味方を見て歯噛みした。
形勢を逆転できるだけの威力がある魔法ならば幾つか使える。
だが超高速で動きまわる敵に当てる手段が見つからない。
短剣を武器に近接戦闘を仕掛けてくる相手に対し、唯一カウンターで当てられる可能性がある魔法がこれだった。
足止めに使える魔法を習得しておくべきだったと後悔してももう遅い。
どれだけ考えを巡らせても彼女に勝ち筋は見えて来なかった。
防御壁の範囲外から魔法で攻撃される可能性もあるし、強引に突破されてしまうこともあり得る。
いずれにせよ雷の壁は気休めにしかならない。
最後の味方が胸から上を吹き飛ばれた。
これでもう屋根上に立っているのは敵と彼女だけだ。
いよいよ自分の番だと受け入れる。
「はあ、『あの人』ともう少しお近づきになりたかったなぁ……」
死の恐怖を感じるには状況の変化が早すぎたのだけが救いとばかりに、最後は片思いの相手に思いを馳せた。
バンッ!
雷撃の障壁ごと、アナスタシアは胴体を吹き飛ばされた。
首と左肩だけになって宙を舞う。
感覚はスローだ。
痛みはまだ来ない。
(ユニコーンアンドバイコーン、略して U&B。まさかこれほどのものだったなんて……)
これほどの戦力を有しているとなれば、女神教としても相当な被害を覚悟しなければならないだろう。
――いや、そもそも正面からぶつかって勝てるのかどうか。
回転するアナスタシアの視界の中に赤紫の光が二つ映った。
先程まで襲っていた倉庫で発生したのと同じ光が街の他の場所でも発生している。
(あれは、もしかして複合型の魔法陣……? こんなに強力な魔法陣があるんだ……。どうやったら使えるんだろう?)
意識を失うまで、あと数秒。
妙にゆっくりと進む時間の間、他にやることも無かったので敵のことを考えることにした。
まだ痛みも恐怖も襲ってこない。
(まさか……、これも何かの『福音』?!)
それはおそらく天啓。
究極の状況下に置かれた彼女の意識は最後に核心への切符を手に入れた。
視界が闇に侵食されて狭まっていく。
だが、もはや自分の人生が終わるということも忘れてアナスタシアの思考は目まぐるしく展開していた。
(もしそうだとしたら……。U&Bというのはつまり――!!)
核心に至ったのと同時に、アナスタシアの体は彼女にそれ以上の思考を続けさせる能力を完全に失った。
意識が体と共に闇へと落ちていく。
まるで正解を引き当てた報酬は安らかな死だとばかりに。




