30:使徒への洗礼
『曇りなき眼で見る世界は醜く、軽薄な人々で満ちている』
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ユウがゴーストロッドのある部屋に入った頃、リリィは公園のベンチに座っていた。
ちょうど以前のループでユウと話した時と同じ場所に座ってハムサンドをかじる。
(そろそろかしらね……)
考えているのはもちろんユウのことだ。
(あの様子だと、まだ『ドッペルゲンガー』の存在には気がついてないはず。……完全に詰んでるわね)
公園には彼女以外に人の気配はなく、ただ金色の蝶だけが暇そうに近くの木の枝で羽を休めている。
「アンタもご苦労さんね。でも、私を探ったって尻尾なんか出してあげないわよ?」
リリィが指を差し出すと、金色の蝶は時間潰しが見つかったとばかりにそこに向かって飛んできた。
(あの子が仮に上手く神殿内の女神教を突破できたとして、残る懸念は……、最低でも二つ。つまりドッペルゲンガーをどうにかできたとしても、まだもう一つ残ってる)
差し出した指先に蝶が止まる。
(”自称”ロト。エル・グリーゼに入り込んでる工作員の中で、こいつだけはどの陣営に属しているのかまだわかっていない。他の陣営はゴーストロッドを壊したいわけだから、少なくとも今回はユウに協力するはず。つまりどう動くのかわからないのはコイツだけ。妹と血がつながっていないのは確認済みだし、何かの目的があって本物と入れ替わったのは間違いないけど……)
リリィは人差し指に止まった蝶と見つめ合った。
今のロトがいったいどのタイミングで本物と入れ替わったのかはわかっていない。
それがわかれば正体も推測できるのだろうが。
「……アンタ達もまだわかっていないのよね?」
金色の蝶はなんのことかと首を傾げる代わりに羽を動かした。
とぼけたというよりは、単にリリィの思考が読み取れなかったからだが、この状況においてはそれほど差はない。
今の発言によってリリィが把握していない情報が存在するという可能性が蝶の向こう側の人物に伝わったことになるが、むしろそれがブラフである可能性を相手は疑った。
「まあ、ブラコンかつファザコンのアンタに聞くだけ無駄かしら?」
金色の蝶はその言葉に抗議するかのように飛び上がると、リリィの顔の前で激しく羽をばたつかせた。
「別に本当のことでしょ? 『口には出せないけど、本当はお兄ちゃん大好き!』って。だからあの”偽物”はなんだって話になったんじゃない」
リリィの発言が図星だったのか、蝶の羽ばたく勢いが少し弱くなった。
「これもブラコンのなせる――!」
それを笑おうとした時、リリィはこの世界にトリップが発生しようとしていることに気がついた。
ユウの持つターニングポイントは既に死に戻り能力を使い果たしているので、”もう一人”の死に戻りが発動したのだと予想する。
もしかすると、この影響でユウの状況も好転するかもしれない。
同じ死に戻り能力でも、巻き戻す時間の計算方法はターニングポイントとは違うからだ。
自陣営に有利な展開を狙って計算方法や条件を設定するため、それぞれの死に戻り能力によって巻き戻る時間が同じであることはまず無い。
これが果たして吉と出るかはまだわからないが、万事休すの現状からすればユウは首の皮一枚つながることになる。
(あの子ってば運だけは……、え?)
天頂に現れた月。
やれやれと思いながらそれを見上げたリリィは大きく目を見開いた。
(月の色が……)
「黒じゃ……、ない……?!」
彼女の視界の先には青い月が佇んでいた。
天頂に現れる月の色は、その死に戻り能力がどの勢力によって制作されたのかによって決まる。
つまりトリップ直前に出現する月の色を確認することで、どの能力によってトリップするのかをおおよそ推測することが可能だ。
白ならばターニングポイント、という具合に。
しかし彼女が把握している死に戻り能力は白と黒の二種類だけ。
ということは、まだリリィの知らない三種類目の死に戻り能力が発動したということになる。
(最近追加されたのかしら? 何にせよ、このタイミングで発動してくれるなんてあの子は本当に運が……、あれ?)
ユウは本当に運がいいと思った矢先、リリィはその考えの違和感に気がついて固まった。
(ちょっと待って……。もしかして、あの時の”あれ”はまさか……?!)
先日のユウとの”あるやり取り”を思い出したリリィは、自分がとんでもない見落としをしていたことに気がついた。
表情が一気に青ざめ、全身の毛が逆立つ。
そんな彼女の様子の変化に、金色の蝶も戸惑っているようだ。
「やられた……! つまりこのトリップのトリガーは――」
状況の深刻さを悟ったリリィは思わず立ち上がった。
(このトリップを発生させている能力の所有者はユウ! ターニングポイントとは別にもう一つ持たされてたんだわ! 一人に複数の死に戻り能力……。確かに理屈の上では可能だけど、あの子の場合は不発リスクに加えてロゼッタストーンでの能力消失リスクまであるのよ?! 影響しあって時間軸が止まった場合のペナルティだけでも十分過ぎるハイリスクだっていうのに、いくらなんでもそこまで危ない橋を渡るなんて……!)
自分が出し抜かれた事実を理解して、彼女は奥歯を噛みしめた。
リリィの内心に焦りが広がっていく。
見えてきたのは、針の穴を通すように絶妙な相手の立ち回りだ。
ターニングポイントでリリィ達の陣営に状況が有利に傾くのを妨害すると同時に、自分達の陣営に有利な方向へと誘導する。
効果は非常に大きいが、これを成功させる難易度はそれ以上に大きく、リスクも全く割に合わないと言っていい。
(迂闊だったわ、いったいどのタイミングであの子に接触を……。違う、問題はそんな碌でもないことをしたのは”どこのどいつ”かってことよ)
ユウにターニングポイントが付加されたのはこの世界に現れたのと同時。
しかしその時点では他の能力は持っていなかった。
いったい”いつ誰によって”二つ目の死に戻り能力が付加されたのか。
ユウがこの世界に現れてからまだ一ヶ月程度しか経っていない。
死に戻りによる実働時間を入れても精々が数ヶ月分といったところだろう。
その期間でユウの正体を看破し、さらにターニングポイントの詳細を把握した上でそれと噛み合うように二つ目の死に戻り能力を制作して付加する。
(あの子の態度からして、このことにはまだ気がついてないでしょうね……)
それをユウ本人に気が付かれないように実行するとなれば難易度はさらに跳ね上がる。
彼女から見ても神業といっていい芸当だ。
これを意図的に行ったとなれば、リリィ達だけではなく他の既存陣営にとってもとんでもない脅威である。
(月の色が青ってことは、つまり仕掛けたのは『青』の勢力に属する使徒。オリヴィエが言ってた連中ね……!)
リリィはその人物と直接の面識がない。
しかし候補となる人物はいないかと必死に記憶を漁った。
少なくとも、どこかでユウとの接点があったのだけは間違いない。
(まさかエニグマ? あの猫はバンドーラをやられたのを今でも恨んでるはずだし、ストラの奪還を目論んでいるとすれば動機は十分……。それとも自称ロト? 接触する機会も多いし、正体がわからないのはアイツだけよね?!)
しかし確信までは至らない。
それがリリィを苛立たせた。
「いったいどいつなのよっ!」
そして彼女がベンチを蹴った次の瞬間、その叫びを飲み込むかのように世界は巻き戻った。




