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 尖った歯が皮膚を裂いて、肉へと到達する。

 力を入れると、さらに牙が深く突き刺さる。

 菜穂が吐き出す息に呻き声のようなものが混じる。


 腕を強く掴まれる。

 酷いことをしていると思う。

 でも、止められない。


 突き立てた牙を抜いて、溢れ出た血を啜る。

 頭の中が血の色に染まって、思考も赤く染まる。意識が深く暗い場所へ落ちていき、飲み込んだ血も胃へと落ちていく。どんなお菓子よりも甘い液体が私の体に広がる。シロップに浸かっているみたいに甘い香りが辺りに漂っている。


 菜穂のことしか、彼女の血のことしか、考えられない。


 二口、三口と血を吸って飲み込むと、牙が裂いた皮膚が再生する。傷が塞がって、私は菜穂にもう一度牙を突き立てた。

 ぐっと私の腕を掴む手に力が入る。

 爪が食い込んで痛いけれど、菜穂は私の何倍も痛いはずだ。でも、痛いとも苦しいとも言わない。ただ細く息を吐いて、私に爪を立てている。


 また菜穂の血を飲む。


 喉はもう渇いていないから、啜っている血は嗜好品と変わらない。ケーキを食べるように菜穂の血を飲んでいる。

 血を吸わなくても死にはしないのだから、これ以上もらう必要はない。わかっているのに菜穂から血を啜り続けている私は、人間から随分と遠いところにいる。


「ごめん、菜穂」


 私は幼馴染みから唇を離して、傷があったはずの首筋を撫でる。


「謝るよりは、ありがとう、って言ってほしいかな」


 菜穂から、過去に何度も聞いたことのある言葉が聞こえてくる。


「……ありがと」


 口にした言葉は適切なものだと思えない。

 傷をつけ、痛みを与えた相手に言うものじゃない。


 できることなら何度も謝りたいし、もうこんなことはしないからと言いたい。ごめん、と繰り返すことで私の気持ちは軽くなり、ありがとう、と言うことで重くなる。でも、だから、菜穂はありがとうという言葉を欲しがっているように思える。


「無理しないで、血がほしくなったら言ってよ」


 菜穂が優しく笑うから、私は彼女から目をそらして唇を拭う。笑顔が目に映ったままだと気持ちがさらに重くなって、心の暗い場所へと沈んでいきそうだ。


「教室、戻るの?」


 菜穂に尋ねられて、私は首を振った。

 まくったままの袖を下ろす。

 かちゃり、と鍵を開けて個室から出る。

 手を洗って、鏡を見る。

 朝とは違って顔色がいい私がいる。


「あのさ、八千花ちゃん。高塚さんのどこがいいの?」


 鏡ににこやかな菜穂が映る。


「どこがって?」

「付き合ってるんでしょ」

「付き合ってないってば」


 断言してから、濡れた手を拭く。

 鏡の中、菜穂から柔らかな笑顔が消える。でも、それは一瞬のことですぐに口角が上がった。


「朝、予定があるから一緒に帰れないって言ってたけど、予定ってなに?」


 菜穂が鏡に話しかけるように言う。


「委員会の仕事」

「終わるまで待っててもいい?」

「いつ終わるかわかんないから」

「そっか。そうだね」


 独り言のようなつぶやきが聞こえて、トイレが静かになる。


 第二校舎の人がほとんど来ない場所。

 世界に私と菜穂だけが取り残されているように思える。


 本当にそんなことになったら、なにも気にせずに好きなだけ菜穂から血をもらえそうだと考えて、私は小さく息を吐いた。私ごと世界が滅べばいいと願わずにはいられない。


「八千花ちゃん。私、教室に戻るね」


 鏡の中の菜穂が微笑んで、じゃあね、と手を振る。

 そして、不誠実な私がトイレに取り残された。

 ずっとここにいたいわけではないけれど、教室には戻りたくない。


 結局。

 私は保健室には行かずに、屋上へ続く階段で時間を潰すことを選んだ。お昼には教室へ戻り、午後の授業を真面目に受けてから学校を出る。


 委員会の仕事は明後日で、今日ではない。

 予定は、学校から歩いて十分のドーナツ屋にある。


 今日は五分で着きたいところだけれど。

 私は急ぎ足で目的地へ向かう。五分は無理だったが、六分で甘い香りのする店内に入ってドーナツを選ぶ。そして、トレイを持って店の奥へ行く。


「八千花」


 壁際に並んだテーブルの一つから聞き慣れた声が聞こえてくる。声の方に視線をやると手を小さく振っている凉子が見えて、私は笑顔を向けた。

 菜穂には言わなかったけれど、凉子とは毎日ではないが定期的にこの場所で会っている。


「ごめん。ホームルームが長くなって。待った?」


 凉子の向かい側に座って尋ねる。


「ううん。今きたところ」


 明るい声にテーブルを見ると、お皿の上に欠けたところのないドーナツが一つのっていた。でも、本当に今きたところかはわからない。

 彼女は、私よりも先にドーナツを食べていたことがない。いつも欠けたところのないドーナツと一緒に私を待っている。


「先に食べてればいいのに」

「だって、今きたところだし。それに一緒に食べた方が美味しいから」

「一緒に食べた方が美味しいのは認めるけど。……でも、ごめんね」

「すぐ謝る」


 凉子が困ったように眉根を寄せた。でも、私の「ごめんね」という言葉を否定することはない。私はそのことにほっとして、ドーナツを囓る。


「今日、元気そうだね。最近、ずっと顔色が悪かったし、調子悪そうだったから気になってた」

「勉強のしすぎかな」

「じゃあ、テストが楽しみだね」


 悪戯っぽく凉子が笑う。


「ごめん。勉強してない」


 本当のことを言っても信じてもらえないだろうし、言うつもりもない。

 凉子がずっと私のことを気にかけていたことは知っている。青白い顔を見て家まで送ってくれたり、ふらついた私にどうしたのと何度も声をかけてくれた。それでも、忌まわしい体質を彼女に伝えたいとは思わない。凉子の前では人でありたいと思う。


「凉子」


 私は身を乗り出して、「一口ちょうだい」とドーナツをねだる。


「いいよ」


 チョコレートでコーティングされたドーナツが差し出される。

 顔を寄せると、甘い香りがする。

 でも、それはドーナツとチョコレートの匂いだ。

 凉子の手が近いけれど、菜穂のような香りはしない。だから、血を飲ませてと頼まずにいられるのだと思う。


 私は、差し出されたドーナツを囓る。

 菜穂の血とは違った甘さが口の中に広がっていく。

 彼女の血はもっと甘くて、いい香りがする。

 私は思い出した血の味に、口の中のドーナツを飲み込む。


 人間らしい生活を送ろうと思ったら、血が必要になる。喉が渇いたまま生きていくこともできるけれど、今日のように授業を受けることもままならない状態になるし、自分の血を啜ることになる。それは普通の人間とは言えない。結局、どれだけ血を拒んでも、私は人の血を飲まなければ人らしい生活を送ることができない。


 わかってはいるが、人として普通に生活するための行為が人として普通ではない行為であることに罪の意識がある。今も、凉子を前に飲んだ血のことを考えている自分に嫌気がさす。


「ごめんね」


 ごめん、という言葉は私が楽になるためだけの言葉だとわかっている。けれど、言わずにはいられない。


「ドーナツもらって謝る人、初めて見た」


 凉子は、ありがとう、と言ってとは言わない。

 私はドーナツと一緒に買ったアイスティーを飲む。


 ごくりと喉が鳴る。

 もう喉は渇いていない。

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