貴族令嬢VS一軒め酒場
「まあ、なんて安っぽい居酒屋ですの……こんなところで庶民は癒されるのかしら……?」
「はいいらっしゃませ」
無言でドレス姿が店の入口を潜る。力無く指を1つ立てて視線を送る。
「あ、おひとり様ですね、ではこちらのカウンター席いかがですか?」
やはり無言で席へと歩き出す。背負われたリュックサックは、ずしりと彼女の細い背中にくい込んでいた。
どっかりと腰を降ろし、ため息をつく。
「ふうううう〜〜……」
深いため息だった。体の奥から吹き出しているようなため息だった。
「お飲み物どうしますか?」
「あ、レモンサワーで」
「へい」
ぐったりとしながら、マリーはメニューに目を通す。ここはなにを頼んでも安いが、さてどうするか。
「鯖の塩焼き、れんこんのきんぴら、胡瓜の1本漬け」
「はい、承りましたー。こちらレモンサワーです」
「あ、ども」
受け取ったレモンサワーをぐびりと呑む。半分近くを飲み干し、グラスを置いた。そして、
「は あ あ あ゛あ゛あ あ ……!!」
またも大きくため息をつく。そのままカウンターに突っ伏した。
「10日連続出勤なんてやるんじゃなかったですわ……」
マリーはかなりお疲れだった。無理もない。春先は年度末の関係で予算消化のための工事も多く、調子に乗って仕事を取っていたら休めなくなっていたのだ。
優雅さを美徳とする貴族でもハードワークは効いてくるものだ。
「まだあと2日仕事がありますわ……憂鬱……」
ずずずずっと音を立ててレモンサワーを啜る。
「……梅サワー、くださいませ!」
疲れた時は梅干しだ。
「はい。こちら塩サバときんぴら、きゅうりです。あと梅サワー」
マリーは無言で塩サバに醤油を降ると、大根おろしをのせ1口頬張る。安物のサバだ。だが今はこれでいい。
「……」
梅サワーをぐびりと1口飲み、そしてれんこんのきんぴらに箸を伸ばした。香ばしいごま油の香り、シャクシャクという歯ごたえ。そして辛味。酒が進む。
「……」
それでも、マリーは無言だった。疲労が彼女から表現性を奪っていた。今はとにかくつまみと酒を腹にぶち込んでおきたい。余計な体力を使いたくない。表情を出すことさえ疲れる。
「……」
もしゃもしゃと塩サバを齧り、酒を啜り込む。合間に齧るキュウリ。塩気で酒が進む。進むだけだ。
グビリと梅サワーを飲み干す。だん、と勢いよく空のグラスをテーブルに置いた。
「は あ あ あ あ あ……」
またもため息。疲労感が抜けない。いや、今日のアンニュイなマリーには別の理由があった。
「本当に終わってしまうのね、タモリ倶楽部……」
永遠と思えるものがある。しかしこの世界には永遠など存在しない。いつか来る終わりをマリーは噛みしめていた。
「私手ぬぐいしかもらってないのに……」
空耳アワーで高評価を得たもののみが持てるジャンパーはもう遠い夢の彼方へと消えてしまった。
ここ、1軒め酒場は低料金と速さをメインとし「とりあえず1件目」に飲みに行ける気軽さを武器にした養老乃瀧系列の居酒屋チェーンである。
「特に目新しさや品質のこだわりもないけれど、ツマミも酒も安いのが強みの店ですわね……」
だがそれがマリーには良かった。とにかく疲れて細かいことを考えずに手っ取り早く安く飲みにいくならここがベストマッチだ。毎度丁寧にばかり飲んでも居られない。貴族といえど雑に酒を飲みたいときもある。
「こういういい意味で力の入っていない店は、これはこれで居心地がいいものですわ……」
店の良さは食べ物ばかりではない。この力なくなんというかぐんにゃりとした雰囲気が、ダラダラと飲むには最適なこともある。
「あ、店員さん、梅サワーもう1杯とじゃこ天とエビフライ……」
そろそろこの1杯であがって明日に備えるか。
「へい、ただいま。それとお連れの方来ましたよ」
「へ?」
間の抜けた返事をした直後、真横から声がした。
「マリーさん、偶然ですね」
気だるげな居酒屋の空気と反比例する快活な声。方向を向かずともマリーには誰か分かった。
「初めて入った店でマリーさんに会うなんてビックリです。いつもここに来てるんですか?」
喋りながら座り込む。相席いいですか?とはもはや聞かなくなっていた。
すこしギクシャクとした動きでゆっくりと振り向くマリー、黒髪とメガネの見覚えが──いやよく知っている女性がそこにいた。
「あ、あら、偶然ねかなえさん……」
「そうですね、よく会いますねマリーさん」
穏やかな笑顔を浮かべる女子大生、かなえがいた。
「あ、私レモンサワーで。あとこのポテトサラダとハムカツお願いします」
「へい」
もはや手馴れた感覚でメニューを頼み春物のコートを脱ぐ。最初に会ったころのようなおどおどとした様子は無くなっていた。
「たまたまそのへん歩いてたらマリーさんが行きそうな居酒屋があったので、入ってみたんですけど……まさか本当に会えるなんて」
「そ、そうね、本当……偶然よく会うわね私たち」
かなえと「偶然」会う機会はなぜか最近やたら多い。まるで、マリーが行くところを予め抑えられているように。
「ねぇ、かなえさんあまりにも偶然が多すぎるような」
「そ、そうですかね、たまたまですよたまたま! あはは!」
少々ひきつりながら偶然を主張するかなえ。
「なんだかまるで……」
「え、え、いやそんな」
「なんだか運命みたいですわねぇ」
ぽつりとこぼし、マリーは届いた梅サワーをすすりこむ。
「え」
思わぬ一言に、かなえが止まる。そろそろ怪しまれる頃合かと思えばそんなことを言われるとは。
「偶然が重なれば必然、必然は運命ですわ。そう思いません、かなえさん?」
「そう、ですねなんだか……本当に運命みたいですね」
ただの尾行と出現地の把握の成果なのだがここは運命ということにしてもらおうとかなえは思った。
「ただ、今日は正直私もお疲れで実はこうして人と話すのも少々おっくうなのですわ……酒も3杯呑むのがやっとな程で」
むしゃむしゃと大根おろしを乗せた鯖の皮を食べる。鯖の1番美味い部分だが、マリーにいつもの食を堪能している姿はない。
「はいポテサラとハムカツのお客さん」
「あ、ありがとうございます。いやそれは十分健康なのでは……? 一体どうしたんですかマリーさん」
「最近仕事がキツくて……調子乗って沢山取りすぎましたわね」
「疲れているなら無理をせず休んだほうがいいですよマリーさん……」
「かなえさん、あなたはまだ学生の身なのですから少し分かりづらいこともあると思うけれど……働くということは簡単に投げ出していいものではないのですわ」
「は、はい……」
マリーの声のトーンが変わった気がした。すこしかなえも神妙になる。
「給与が発生する以上はそこに責任が伴い、約束が発生するもの。責任を背負い人との約束を果たすことが大人というものなのですわ」
いつもふざけているとしか思えない格好だが、今日のマリーは大人びているようにかなえには見えた。
「す、すいません。大学が春休みなので私なんだか浮かれていて……マリーさんがどういう気持ちで働いてるのか考えていませんでした」
「良いですのよかなえさん。人はその時の状況で実感を知るもの……働いてみればいずれはわかるものですわ」
儚げに、そして優しくマリーは微笑む。多くのものを飲み込むように。正直分かりたくないが、大人になるとはそういうことなのだろうとかなえは思った。
「でも本当に体が悪かったら無理はしないでくださいねマリーさん」
「そう、無理は禁物……たとえば今は大丈夫でも明日にはなにか熱が出たり体調を崩すこともあるかもしれませんわ……」
未来とは予測できない。ならば不確定な物事を折り込んで明日を考えるのが人類の知恵である。
「……かもしれないですか」
「かもしれない、ならば今のうちに対応をしておくのが大人というものですわ。こういうことは早いほうがいい。ちょっと失礼しますわね」
スマホを取り出すと、マリーはどこかに電話をかけ始めた。
そして、今までと全く違うまるで死にかけて絞り出すような声色で喋り始める。
「はい、はい、お疲れ様です……実は帰ってきてから頭が痛くて気分も悪く……はい、はい、すみません明日の現場は休みということで……はい、はい、すみません、お願いします」
ピッと切り、マリーは額の汗を拭った。
「ふぅー、明日は休みにしましたわ」
「あー私も学校とかずる休むときそういう死にかけた感じで連絡することありますよ」
「ずるではありませんわ「かもしれない休暇」ですわ」
「なるほどかもしれない休暇ですね」
なんなん今までのやりとり?
「なんか明日休みになると思ったら急に元気が湧いてきましたわ! 不思議ですわね!」
マリーは運ばれてきたエビフライにタルタルソースを塗りたくると、豪快にかじりつき梅サワーを飲み干す。普段の調子が戻ってきていた。
やはりマリーさんはこうでないと、とかなえは思う。
「店員さん、焼きそばとバクハイひとつ」
「あいよ」
「それからかなえさん明日休み?」
「は、はい。春休みなんですけど予定あんま無くて……」
「じゃあもう2人で朝まで……シませんこと……?」
「ええっ!?」
妖艶なマリーのつぶやき。自分の耳を疑いながら、かなえの頭の中には「2人で朝まですること」の例がグルグルと渦を巻く。
「あ、朝までって、その、ナニを……?」
「え、朝まで酒呑むって話だけど」
「ですよね」
だよね。
「近くの24時間の健康ランドのタダ券持ってるから終電過ぎても大丈夫ですわ」
備えあれば憂いなし。マリーは備えまくっている女なのだ。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えてお供しますね」
「そうこないといけませんわね!」
マリーとかなえが酒杯をぶつける。2人の夜はこれからだった。
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