鮮血の聖女と群青の魔女 9
「聞きたいことは何でしたっけ」
「シンボル。そして空亡惡匣についてだったか」
現状私達が把握している中で、神薙信一に触れることが出来るのはこの二つのみ。
「でしたら二つ纏めて話をしましょう。その二つには繋がりがありますので」
「助かる」
椅子に座って話を聞く。
せっかくなので茶菓子を速攻発揮正宗で持ってきた。
「あなたは知っている箇所もあると思いますが。いいですね」
「ご自由に」
とりあえず真百合にも向かって意思表示を出してもらったのは良かったと思う。
「まず話すのはσφについてです。私達があれについて何を思って何をなしたかの話です」
「……」
「およそ200年前、ご主人様が青春というものを満喫している時期、とある存在を観測しました」
「それが、空亡惡匣」
「えーとですね」
言うべきか、否定するか迷ったかのような表情をしていた。
「ええ。σφの一欠片です」
最終的にはσφで通すことにしたようだが、私には必然違和感が残る。
「すまん。σφって空亡惡匣のことでよいか?」
前も説明してもらった気がするが、どうしても違和感がある。
空亡惡匣と呼んだ方が認識しやすい。
「動物で言うところの、パンダにあたるのがσφ。チンチンやマンマンといった固有名詞が空亡惡匣」
「その例えいるか?」
「いる」
「いります」
「そうか」
いるのか。
初めてではないだろうか。
真百合と椿さんの意見が一致したのは。
そしてその内容がこんなのでいいのか。
「一々訂正するのも大変なので私はσφで統一してますが、脳内では空亡惡匣と変換してくれて構いません」
「分かった。続けてくれ」
「σφがなぜ地球にやってきたか。理解できる理由はありません。ただ何となく、「人類を滅ぼしたかったから」が目的だと我々は認識していた」
200年後の私達は思う。
事情を知った人は、多分みんな一度は思っていることだと思う。
宇宙の頂点にいた存在が、わざわざ下々の世界に降りてまで、滅びを招こうとした理由。
神薙信一という癌が出来たから、それ除去をしにきたからではないのかと。
これは喩えだ。他に良い考えが思いつかなかった。
ただやはり、良くない喩えだと思う。
自分が癌だって言われたら悲しむのは当然で、不適切だ。
すまないと、心の中で謝った。
「生存戦略、当然私達は抵抗します。ですが、ただの神と人の生存戦略なら普通に神を倒せばいいじゃないかなんて思いませんか?」
「た、確かに。神であろうと殺せばいい」
「実際神殺しの手段として、専用の刃なんてものも作ったことあるんですけどね」
そういえば○○が振り回していた点牙も、昔の技術で作られたと言っていた。
試作品だったのか。
「ですが早々に打ち切られました。結局あれは神じゃなかった。神の中で上だったのは亡き妹さんの方。神々が神の中の神、最上の神と敬っているだけで、実態は別の存在でした」
「ではなんだったのだ」
「正確には分からないです。できるだけ短文であれを表現するなら、存在しない全集合、もしくは原初の相対者とでもいいましょうか」
「数学は分からん」
JKにも分かるように頼む。
「ではもう少し分かりやすく。σφは「どんな」、「全て」、「あらゆる」「いかなる」そういったものですら、極小点にする存在」
「……」
「表も裏も、有も無も、過去も未来も、運命も因果も、次元も空間も、理も死も、すべて、言葉で定義できるものもできないものも、旧世界も、全部、σφの一部。それもただの点にすぎません」
こまった、まだ分からん。
「先ほど欠片という表現を使いましたが正確には誤りです。正しくはσφが濃くなった場所がたまたま私達の居る地球だったが正しいです」
「真百合、分かりやすく頼む」
「神薙信一がすべての能力を無限に持っているという意味で、He has all. とするのなら 空亡惡匣はShe is all.」
「もう一声」
あと少しで分かりかけるのだが。
「じゃあ、紙とペンを用意して」
「どうぞ、なのだ」
「ここに衣川早苗とあります」
紙には箇条書きで以下のように記載する
・名前:衣川早苗
・性別:女
・能力:鬼人化 弱い
と記載している。
「それね、実はこう」
紙の上下に赤字で追記した。
内容はこうだ。
『以下の記載は空亡惡匣の要素の一つです』
・名前:衣川早苗
・性別:女
・能力:鬼人化 弱い
『以上が空亡惡匣についてでした。実際の空亡惡匣には一切影響がありません』
「分かるかしら。あなたのことを書いていたはずなのに、いつの間にかそうじゃなくなっていることに」
「……」
「手紙における、背景敬具のように。全ての存在に対して、「この話は空亡惡匣のことです」という言葉が先頭につき、「以上が空亡惡匣の話でした。実際の空亡惡匣には一切影響がありません」という言葉が末尾につく。そういう存在」
「……」
「勘違いしないよう補足しておきます。今の説明が当てはまるのは人じゃなくていいです。物も現象も数式も感想も、全部当てはまると思ってください」
つまり宇宙も世界も私ですら全部が空亡惡匣の一要素でしかなく、どこまで集めても無限分の1にしかなりえない。
「そんなの……反則じゃないか」
むしろ何でそんな奴に神薙信一は勝ったんだ。
だって神薙信一も、空亡惡匣の一部だってことになるのだろう?
しかし、これで私達の目的の一つ
そんな存在なら確かに勝てるかもしれない。
「…………」
一方真百合の顔はうかなかった。
テスト終了後、自身がない問題を教科書で確認したら誤った回答をしたと気づいてしまった時のようだ。
「だから、神薙は新世界を作ったの?」
「その質問ははいともいいえとも答えられます。σφという巨大な敵と戦ったことによる副作用という観点ならば、その回答は是となります」
説明はされたが正直新世界については全然わからん。
人の妄想の中に確かに宇宙や世界が存在し、その中にも更にも人がいるからその妄想の中に……なんて続くわけだが、実際のサイズ感をピンと来ていない。
「ですが戦うためにσφより巨大な存在になった。という考えだとすれば誤りです」
「どうして? 所詮は旧世界の超常主だったのでしょう。新世界の範囲なら、質量の差で塗りつぶせるわ。それとも空亡惡匣は元々それくらいのサイズだったとでもいうつもり」
言われてみれば。
そもそも私が戦ったモンスターと呼ばれる神ですら、神薙によって強化されていたというのがオチだったわけで。
「あれが最悪なのは、強いからでも大きいからでも広いからでもないです。一点。ただその点。何かが有ることが、彼女の存在を十全に決定づけている」
「つまり?」
「さっきと同じように例えるわね」
私の悪意あるプロフィールにペンタイプの消しゴムをこすりつける。
見る見るうちに書かれた文章が消えていき……消えない。
『以下の記載は空亡惡匣の要素の一つです』
『以上が空亡惡匣についてでした。実際の空亡惡匣には一切影響がありません』
一番消したかった文が消えなかった。
「単純に消えないんです。消しゴムを使っても修正液を塗りたくっても、この定義に関わることができないです」
「“・”一つ残しても良かったけど、空白ですら存在する扱いっぽかったからこうしたわ。あっているわよね?」
「ええ。無や空も対象ですよ」
言葉が通じる存在ではない。
怪物とか概念とかそういう存在だということだ。
「σφは最初の存在。この世の原初の定義です。既に”{”は始まっています。”{}“の間に何もなくても定義として成立しますが、”}”で閉じない限り人類は成立しない。何かが有るということは、”σφ{ };”で閉じられていることが確定している。σφが確かに機能して成立する証明なのです」
私が使わない言語の話をしているのだろう。
だが私が聞いているのだから、分かる言語で話してくれ。
「纏めると、全てやあらゆるですら極小点になるほど空亡惡匣の定義は広く、細胞や原子一つの極小点が存在するだけで空亡惡匣の完全性が証明される」
「そういうことです。全にして零、零にして全。それがσφ」
――そういうことか。
あり得ない、理解できない話だった。
「これが、既視感の正体なのか」
「そういうことです」
だが同時に納得できる話でもあった。
私は空亡惡匣を自分のことのように知っている、既視感があった。
私という定義は、つまりは空亡惡匣のことだったのだ。
みんながみんな空亡惡匣を知っている。自分のこと以上に知っている。
ゆっくりと深呼吸をする。
どうやら誰かがこの動作をするだけで、空亡惡匣が存在し、それが決定的なものになるとのことだ。
「ついでに本件とは関係ないですが補足しておきます。柱神や主人公理論といった中心があるから物事が存在する理論は、いわば空亡惡匣のまねっこ。あれがあるから世界があるのと同じ理屈。劣化コピーのようなものです」
「勝てる勝てない以前に、無理くないか?」
得体のしれない。想像のはるか上を出されたわけで。
しかも神薙信一よりも悪意ある存在のような気がするのだが。
「こんなの攻略しようがない…… 神薙信一ですら勝てない気がしてくるのだが」
「……当初はそう思ったので、ご主人様は攻略法を探しました。そして苦節2年、遂にその攻略法を作ることが出来たんです」
攻略法なんてないように思える。
大体あったところで、最初と最後に注釈を付けくわえられるのではないのか。
だがもう一つ気になることがある。
椿さんの歯切れが悪い。
嘘はつかない約束だった、それは信頼しているし、私の直感でも嘘はついてないと思う。
「それがシンボル」
真百合は先ほどの用紙に一文を付け足す。
・シンボル:速攻悪鬼正宗
するとどうだろう。
空亡惡匣についての記載が掠れ地面に落ちていく。
私という存在が確かになった。
「こうすることが、シンボルの本来の意味です」
「真百合が消したという意味ではないのか?」
「違うわ。シンボルは何なのか、視覚的に分かりやすくしただけ。要するにシンボルは空亡惡匣を否定する何かがある」
ああ。ようやく少しだけ話が分かるようになった。
私は最終傀で空亡惡匣を倒しそれの通りに動いていたと思っていた。
ただ当初の予定だと、シンボルという存在で空亡惡匣を対策していたということか。
「では次にシンボルについて詳しく説明しますが、長くなったので次話に行きます」
「了解よ」
もう一度言うが、私の知らない言語を話さないでくれ。
諸事情により明日も更新します(ボロボロ)




