鳥人族のローレ 中編
風が揺らぎ、空がざわめく。
まるでこの世界そのものが、少女流した血にざわついているようだった。
空に浮かぶ二つの影──翼を裂かれたスミレと、彼女を抱きかかえる蓮。
彼の腕の中で、スミレの身体は小さく震えている……ように見えた。
それが生の証か、それとも──ただの錯覚か。
重たい沈黙を引き裂いたのは、誰よりも早く空を見上げていたミネルだった。
「スミレ……!」
ミネルが走り出す。風をかき分けるように、崩れかけた大地を駆け抜けていく。
息を切らし、蓮の元へとたどり着いたミネルは、スミレを見て顔色を変えた。
その目に宿るのは焦りと恐怖──冷静な彼女には珍しい、生々しい感情だった。
「スミレ、お願い、目を開けて……っ」
そう呟くと、ミネルはすぐにスミレの胸元に手をかざし、魔法の光を灯す。
ふわりと花びらのような光が舞い上がり、傷口に吸い込まれていく。
「……深すぎる……傷の修復がどれくらいかかるか、分からない……」
その声は震えていた。
ただの動揺ではない。
仲間を守れなかったという痛みが、彼女の理性を確実に蝕んでいた。
スミレの白い翼は、無惨に裂けていた。
風に舞う羽根が、まるで彼女の命が散っていくように見えて──ミネルは必死に魔力を注いだ。
一方で、カリュアはただ立ち尽くしていた。
目の前で自分を庇った少女が、紅い風に吹き飛ばされた。
自分のせいで、あの翼が──
手も、声も、伸ばせなかった。
それでも、目だけはローレを追っていた。
まだ彼を止めなければという思いが、胸を締めつけていた。
(どうして、私なんかを……)
呆然とつぶやくことすらできず、ただ息を詰める。
目の奥に焼き付いていたのは、スミレが庇う瞬間に見せた、迷いのない瞳だった。
その光景を、ローレが見つめていた。
スミレの翼が裂かれ、血が空に舞う──その瞬間が、彼の視界に焼き付いていた。
見慣れたはずの紅い風。けれど、その風が“血”を連れてきたとき、ローレの中で何かが静かに崩れた。
「……血……?」
ぽつりと落ちた声は、自分でも気づかぬほど小さかった。
風が止まる。
自分の周囲を取り巻いていた暴力の渦が、まるで手を引くように静まっていく。
ローレの爪が、だらりと下がった。
その目は何かを捜すように彷徨い、けれど何も捉えられない。
「……あれは……俺じゃない……」
声が震える。
自分に言い聞かせるように、否定するように、言葉が溢れる。
「違う……違う……俺はそんなつもりじゃ……」
思考が混線する。
何を言っているのか、自分でも分からなくなっていた。
「俺は……ただ…………!」
どこかで聞いたはずの叫びが、今は自分の口から漏れていた。
ローレは両手で頭を抱える。
耳を塞ぐ。視界を閉ざす。
自分という存在そのものを、今すぐ掻き消したくて。
「やめろ……やめてくれ……!」
それでも、胸の奥からはっきりと突き上げてきたのは、たったひとつの願いだった。
「……俺を……殺してくれ!!!!!」
その叫びは風よりも鋭く、世界に亀裂を走らせた。
暴風が崩れ落ちる。
何もかもが壊れたように、空が深い沈黙に包まれる。
それを見届けたホクトが、ぽつりと呟いた。
「……悪い、ローレ」
その目には、獣のような鋭さはなかった。
ただ、深い痛みと迷いが、にじむように宿っていた。
「……俺がお前を、止める」
呟きと同時に、ホクトの背にある翼が静かに開いた。
竜の血を継ぐその翼は、ただの羽ではない。
無音のまま、空気を震わせ、風を巻き、空そのものを支配する。
次の瞬間、重く、鈍い音とともに魔力が解き放たれた。
まるで地を割るかのように、空間にひびが走る。
大剣が呼応するように唸った。
鍔から柄へ、柄から手へ、手から全身へと、魔力のうねりが這い上がってくる。
それはまるで、剣が意志を持ち、ホクトの“迷い”を見透かしているかのようだった。
(行け。今しかない。終わらせろ──)
何度も、この剣で仲間を斬ってきた。
そのたびに、心は少しずつ削れていった。
けれど、誰かがやらなければならなかった。
それが自分の役目だと思い込んできた。
「これ以上……苦しませたくない」
ホクトは、そう言った。
だがその声には決意ではなく、どこかで途切れそうな哀しみが滲んでいた。
空を駆ける。
魔力が尾を引き、剣が軋む。
けれど、その勢いとは裏腹に──心は、鈍く、重い。
風が抜けた先に、ローレの背中があった。
崩れた肩。塞がれた耳。恐怖に震える背中。
あれは、かつて「仲間」と呼んだ男の姿だった。
剣を構えた腕が、震える。
この剣で終わらせることが、救いだと思っていた。
だがーー斬れない。
足が、止まる。
背に広がるはずの風が、音もなく揺らいだ。
剣は、震えを持ったまま動かない。
目の前のローレが、何かを呟いた。声にはならない。
ただ、その震える肩が全てを物語っていた。
ホクトは、ゆっくりと剣を下ろす。
(──俺は、もうこれ以上……)
次の瞬間、彼は剣を逸らし、まっすぐローレを抱きしめた。
重い魔力が、一気に収束する。
大気が、静けさを取り戻す。
剣ではない。
この手で、救う。
たとえそれが、自分の存在を否定するような行為だったとしても。
そうするしかなかった。
それが──今のホクトにできる、唯一の“答え”だった。
「……ここでしまいにしよう」
その声は、まるで自分自身に向けているようだった。
その代わりに、ホクトはローレを強く、強く抱きしめた。
ホクトの表情は見えなかった。
だが、その背は、まるで──戦いよりも、救いを選んだ男のように見えた。
“あのホクト”が、斬らなかった。
それだけで、何かが音を立てて崩れた気がした。
ゆっくりと、ホクトはローレを抱えたまま降下していく。
静まり返った空のなか、ただ一人の仲間を抱えて──
「……これで裏切り者じゃあ、ないだろう」
その呟きだけが、風の中に溶けていった。
スミマセン昨日更新忘れちゃいました……




