鳥人族のローレ 前編
風が裂け、空が開ける。
渦巻く風の目から放り出されるように、ローレの身体が宙を舞った。
その姿を、カリュアは見逃さなかった。
「……来た!」
彼女の背中の翼が大きくはためく。
その瞬間、拘束していたスミレの腕を解いた。
言葉はない。ただ、条件が満たされた、それだけの判断だった。
風を蹴って、カリュアは一直線にローレの元へと向かう。
その速度は、他の誰よりも速い。空気の流れを読み、風を利用して滑空する鳥人族ならではの動きだった。
「ローレ!」
彼の名を呼んだ声には、強さよりも焦りが滲んでいた。
カリュアの姿を認めたローレが、ぴたりと動きを止める。
渦巻いていた風が一瞬だけ静まり、赤い瞳がカリュアを捉える。
「……カリュア……」
その名が、唇からこぼれ落ちた。
それは、荒れ狂う風の渦に沈んでいた彼の心が、一瞬だけ地上へと引き戻されたような声だった。
ローレの視線は、ただひたすらにまっすぐだった。
まるで、暴風のただなかに沈んでいた意識が、彼女という存在に触れたことで浮かび上がってきたかのように。
その一瞬、空に沈黙が訪れる。
だが──
「ローレ!!」
声が割って入る。ホクトだった。
ローレの視線が、ゆっくりとカリュアから離れてホクトへと向かう。
そして、すぐに全身が震え出す。
「……なぜ……お前が、そこにいる」
低く、風を巻き込むような声だった。
その声とともに、再び風が荒れ狂い始める。
「消えろ……!」
ローレの暴走が、今度こそ完全に再燃する。
風が唸り、空が引き裂かれる。暴風の中心に立つローレの力は、かつてとは比べものにならないほど膨れ上がっていた。
カリュアはその風の中に身を晒したまま、目を細めた。
(違う……こんなはずじゃなかった……!)
彼女の目は苦しげに揺れている。
攻撃するつもりはない。止めたい、それだけなのに──
ローレを殺させたくない。誰にも、殺させたくない。
だが、目の前にいるローレは、もはや“止まって”くれそうにはなかった。
(どうする……どうすれば、あなたを……)
風の中、カリュアは答えを探していた。
──そして、暴風が再び爆ぜた瞬間。
「……クソッ!」
このまま見てるだけなんて、できるかよ……!
蓮は風の圧に身を伏せながら、歯を食いしばった。
空に浮かぶカリュアの姿。ローレを止めようとしていた──確かにそう見えた。
だが、止まらなかった。ローレは叫び、風は暴れ、全てを巻き込もうとしている。
「これが……あいつの、本気の力かよ……」
剣を握る手が、汗ばむ。
だが、それでも──止まらないわけにはいかなかった。
暴風が空を切り裂く。
ローレの叫びが風に乗って響いたとき、蓮の身体はもう動いていた。
剣を手に、風に逆らいながら、一歩一歩空へと駆け上がるように跳躍する。
意味なんて、まだ何も分かっていない。
この空のことも、ローレのことも、カリュアの過去も。
それでも、ただ一つ──放っておけなかった。
「ローレッ!!」
風に声を乗せて叫ぶ。
その叫びが届いたのか、ローレの赤い瞳が蓮を捉えた。
「何も知らない人間ごときに、俺を止められるかああああぁぁぁぁぁぁ……!」
その声は悲鳴のようだった。
歯を食いしばったローレが、暴風とともに手を振り上げる。
刃のような風が蓮に向かって走る──
「ッ……!」
剣を振るって受け止める。
体ごと吹き飛ばされながらも、蓮は踏みとどまった。
「俺は、お前を殺しに来たわけじゃない……!
だけど、誰かが苦しんでるのを見て、何もしないなんて──
できるわけないだろ!!」
その一瞬、ローレの風が鈍った。
だが──次の瞬間、彼の怒りは爆発した。
「ふざけるなァ!!」
空が裂けた。
「俺の家族を……! 俺の家族の翼を剥いでおいて!! お前らはどうして、何もなかったような顔で空を飛ぶ!? 正義を名乗る!? なんで俺に刃を向けられるんだ!!」
声が、怒りと絶望で揺れていた。
風が唸るたび、空の温度が変わるようだった。
蓮は一瞬、剣を下ろしかける。
何が正しいのか、分からない。
その言葉が事実なら──誰かが、彼の家族を殺したというのなら。
頭の中がかき乱される。
ミネルは、静かに呆然とその言葉を聞いていた。
彼女の顔からは色が消え、何も答えられずにいた。
(まさか……)
蓮の胸に、疑念が滲んだ。
そんな中、風の中心にホクトの声が響く。
「──ローレ!!」
その声は、いつになく激しかった。
ホクトが、ようやくその力を解放する。
竜の血を引く者としての、本来の力。
金の瞳が閃き、背には風の流れを裂くような気配が走る。
「お前の苦しみは分かる……だがな!」
ホクトの身体から立ちのぼる魔力が、空を震わせた。
「今そこにいる《《こいつ》》は、あの時のお前の家族を殺した女じゃない!
……話せば長くなるが──全くの別人格だ!!」
「……え?」
蓮とミネルの声が重なる。
ミネルは、まるで殴られたように目を見開いた。
「別人格」──その意味が、彼女自身にも分からなかった。
「別人格のデータは、記憶に存在しない……」
震える声がこぼれる。
彼女は自分の記憶をたどろうとするように、胸元を押さえた。
だが、そこに何もなかった。
その過去に関する情報も、罪も、後悔すらも──記憶として刻まれていない。
そして、カリュアの視線がホクトを鋭く睨みつけた。
「……ふざけないで!
私には……そこの女が……ミネルが、あの時ローレの家族を殺した女と同一人物にしか見えない!!
だから私は、彼女をここまで連れてきたのよ……!」
言葉が空気を切る。
それぞれの言葉が、空に交差する。
誰の正義が正しくて、誰が何を信じているのか。
蓮はまた、分からなくなった。
けれど、心は知っていた。
それでも、誰かが誰かを殺すなんて──もう、見たくなかった。
「綺麗事かもしれないけど! 俺はっ……誰にも傷ついてほしくない! 何が何だか分かんないけど、誰かが傷つくっていうなら──俺が止める!!」
蓮の声が空に響いた。
その横に立つスミレも、息を整えながら、ローレを見上げる。
「私も……もう、誰にも傷ついてほしくない。ローレ、あなたの痛みを、苦しみを……私たちに分けて。一人で抱え込まないで」
その言葉に、ローレの風が緩んだ。
暴風が少しだけ鎮まり、空に静けさが戻りかける。
赤い瞳が揺れる。
怒りと哀しみの奥で、何かが崩れかけていた。
だが──
「ローレ! お願い、もうやめて……あなたが壊れてしまう……!」
その言葉に、ローレの瞳がカリュアを捉える。
一拍、沈黙。そして──声が漏れた。
「……お前も……俺が“壊れている”と、そう思うのか」
低く、冷えた声だった。
「違う、私はそんな──!」
「皆そうだ……皆、俺を哀れな化け物みたいに見る。
だったら俺は、壊れてやるよ。お前らの目に、ふさわしくなってやる……!!」
──再び風が爆ぜた。
空が悲鳴を上げた。ローレの怒りが再燃する。
押し殺していた憎悪が一気に噴き出し、暴風がカリュアに襲いかかる。
「カリュア、危ない!!」
誰かが叫ぶ。けれど──風が速すぎる。
ローレの爪が、風の刃とともにカリュアの胸元へ突き立てられようとしたその瞬間──
「お願い、やめてっ!!!」
スミレが、風を裂いて飛び出した。
彼女の背に広がる白い翼が、カリュアを庇うように前へ出る。
刹那、紅い風が翼を斬った。
羽根が散った。悲鳴が空に響いた。
血が、空に舞っている。
スミレの身体が、宙に投げ出されるように吹き飛ぶ。
「──スミレッ!!」
蓮の叫びが空を裂いた。




