風の目
白――
ただ、それだけだった。
世界は光に満たされ、音も、匂いも、重力さえも存在しない。
浮いているのか、落ちているのかも分からないまま、蓮はただ、意識だけを抱いて彷徨っていた。
「……っぐ……!」
不意に、何か硬いものに叩きつけられる感覚とともに、地面の感触が足元に戻った。
目を開けると、そこには不思議な空間が広がっていた。
青く淡い霧が一面を漂い、空も大地も区別のつかない“虚無”のような世界。空間はゆらゆらと歪み、音のない風だけが、耳の奥でひそやかに囁いている。
「ここが……風の目の、内部……?」
自分の声すら、ほんの少し遅れて響いた。音が歪んでいる。
まるでこの世界が、“現実”と“記憶”のはざまのような存在であることを告げているようだった。
そのときだった。
「対象の敵意、継続中。加えて、干渉者の接近を確認」
かすかに届いた、聞き覚えのある声。
「黙れ……黙れ!貴様に、言葉をかける資格など……ッ!」
怒りと苦悶の混じった叫びが、霧の向こうから響く。
蓮の鼓動が跳ね上がる。
「ミネル!……ローレ!」
迷う間もなく、声のする方へと駆け出す。靴が霧を払うたび、地面はうっすらと形を変え、まるで彼の意志に応じて道を創っているかのようだった。
そして――
開けた空間に出た瞬間、蓮はその光景に息を呑んだ。
正面には、漆黒の翼を風をまとった異形の存在ーーローレがいた。
その身から発せられる魔力は嵐のようで、髪も衣も風に逆巻き、瞳には尋常ならざる紅い光が宿っている。
その姿は、まさに「悪魔」と形容するにふさわしい。
その風を避けながら、必死に立ち向かっているのが――ミネルだった。
ミネルは剣を構えているが、その動きには僅かなタイムラグがあった。
まるで「最適解が出ない演算」を繰り返しているように――。
ミネルの瞳が、ローレの顔を正確に捉えながらつぶやく。
「記憶に存在しない人物を検知中」
その言葉に、ローレの肩がびくりと震えた。
「その顔で……その声で、何も知らぬなどと……!」
怒りの風が渦を巻き、刃となってミネルへ向かっていく。ミネルは紙一重でそれを避けながらも、よろめく。
「ミネル、大丈夫か!? こいつは……ローレ、だよな?」
蓮は思わず一歩退く。
その男の背後で、風に押されながらも応戦している紺色の髪の女性――ミネルが、機械のような口調でつぶやく。
「推測される対象名:ローレ。ホクトの情報によると五大悪魔の一人だ。確認取れていないが、条件一致率87%。命中率の乱れが大きい。制御不能な暴走と判断する」
その時、ローレが振り返る。
目が合った。
「……お前は……誰だ?人間……?いや、その竜の翼ーー」
声は低く、かすれ、怒りで震えていた。
「蓮だ。俺は、スミレを……彼女を取り戻しに来た。カリュアと話すためにも、お前には――」
「カリュア……っ! 人間ごときがその名を口にするなッ!」
ローレが咆哮する。
暴風が炸裂し、蓮は横っ飛びでかわす。ミネルもすかさず宙を舞って着地する。
「会話不可能。敵意レベル、臨界超過。暴走因子確認。理性残存率――15%未満!」
「そんな数値言われても……っ!」
「彼に止まる意志はない。撤退もしくは処理が望ましい」
「処理って……! 俺はローレを“殺す”わけにはいかない!」
ローレの翼が大きく広がった。
「何をゴタゴタ言っているのか分からないが、俺の邪魔をするな!」
羽ばたきとともに、黒き風が蓮を襲う。
ミネルがそれを割って入り、剣で風を弾いたが、勢いは止まらない。
蓮は心の中で、強く自分に言い聞かせた。
――殺すな。
――生きたまま、連れていけ。
――スミレを救うために。
「くそっ……止まれよ、ローレ!」
風の中で、蓮の叫びはかき消された。
ローレの瞳が紅く燃え上がる。
言葉を交わす余地は、もはやどこにもなかった。
「――消えろ、人間!」
刹那、ローレの黒い翼が大きく羽ばたいた。
その一振りが、空間ごと裂くような斬撃となって蓮を襲う。
「うわっ!」
紙一重でかわしつつ、蓮は剣を抜いて反撃に転じた。
振るった刃が、ローレの右腕をかすめ、羽根がひとつ、黒い火花とともに砕け散る。
だが、ローレは止まらない。
「その程度か……っ!」
反撃。空中からの急降下。
爪が蓮の肩を裂き、風の刃が地面を抉る。
「……くっ、何なんだこの力……!」
蓮の視界が揺れる。
ローレの力は、これまでのサタンたちとは違う。単なる破壊ではない。
「怒り」だけで世界をねじ曲げるような、純粋な感情の暴走――。
その時。
「左側、死角。援護する」
ミネルが滑るようにローレの背後を取り、振るった剣がローレの翼に命中する。
しかし――
「無駄だッ!」
振り向きざまに、ローレの黒翼が爆ぜ、ミネルの体が吹き飛ばされる。
岩のような地面に打ち付けられ、煙が舞った。
「ミネルッ!」
――殺すな。
――でも、止めなきゃ……!
蓮の胸に、迷いと覚悟が同時に渦巻いた。
そして、その一瞬の逡巡を見逃さなかった。
「終わりだ――!」
ローレの爪が蓮の喉元を狙い、振り下ろされた。
だが、蓮はその手を剣で受け止め、叫んだ。
「……俺は、お前を殺さない! 絶対に、殺してたまるか!!」
金属がきしむ音。ぶつかり合う力。
蓮の言葉が、何かを揺らがせたかのように、一瞬だけローレの動きが鈍った。
「……なぜ、だ」
ローレの声が、風のように低く問う。
「俺はお前を殺そうとしている、なぜ……!」
それでも、蓮は剣を振り上げなかった。
その目だけは、まっすぐにローレを見据えていた。
その時――風の目の中で、空間が裂けるような轟音が響いた。
ローレの身体が震え、彼のまわりに渦巻く風が急激に勢いを増していく。
やがてそれは、巨大な竜巻となって吹き荒れ、風の目の狭い空間を引き裂き始めた。
「まあいい……俺は風の目から出る……!」
ローレの声は、叫びのように響いた。暴走する力に抗いながらも、彼の身体は風の渦に押し上げられ、ゆっくりと中心から浮かび上がっていく。
「ま、まずい……!ミネル!ローレを出しちゃダメだ!」
蓮の声も、唸りを上げる風にかき消されていく。
竜巻が周囲の空気を引き裂きながらうねり、ついに裂け目が生まれた――そして、それは瞬く間に広がっていく。
次の瞬間、閃光が弾け、荒れ狂う風の壁を突き破って、彼らは突如として果てしなく青い空の下へ投げ出された。
「うっ……!」
空間を満たす風はなおも暴れ狂い、身体を翻弄する。
蓮は風に飛ばされまいと必死に姿勢を保ちつつ、かろうじて翼を広げた。
その視界の端に、翻弄されるミネルの姿が映る。
咄嗟に手を伸ばし、蓮はミネルの体を支えた――その手には、彼女の体温が確かにあった。




