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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第6章 機械仕掛けの記憶と罪
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風都アイライア 後編

 風都アウライア――その入り口に、三人の足が降り立ったとき。


 まず、音がなかった。

 高空を渡る風の街にしてはあまりに静かで、耳に届くのは遠くかすれた羽音と、誰かの叫び声の残響だけだった。


「……これは……」


 蓮の目の前に広がっていたのは、かつて“空の都”と謳われた街の、見る影もない姿だった。


 石造りの空中通路は一部が崩れ、風を受けることで浮力を保っていた翼型の塔は、片方が不自然に傾いている。

 空を漂うはずの小鳥たちは、今やまばらな群れになり、時折ふらりと羽をひらめかせては、空中で力尽きるように落ちていく。


「ひどい……」


 スミレの唇から、思わず言葉が漏れた。


 空の流れが目に見えて乱れていた。風が一方向から吹かず、上昇気流と下降気流がぶつかって渦巻き、都の基盤すら不安定にしていた。


「どうして……こんな……」


 目の前に、小さな鳥が一羽、よろめきながら地に落ちた。まだ息はあったが、翼が焼けたように焦げている。

 スミレはすぐに駆け寄り、手を添えて魔力を送り込んだ。ふわりと舞う花の光が傷を覆うが、その回復はいつもより鈍く、花びらの一部は力尽きるように風に散っていった。


「魔力の流れまで……乱されてる……?」


 そのときだった。


「おい、誰だ! ここは立ち入り制限区域だ!」


 緊張に満ちた叫び声とともに、数人の兵士が駆け寄ってきた。

 鳥人族――背に翼を持つ者たちだが、その羽根は一部が裂け、服には血の滲んだ包帯が巻かれている。


「外部者か……お前たちも避難に……?」


 兵士の一人が蓮たちの姿を見て、目を細める。だが、その直後だった。


「――待って。その人たちは、私が呼んだの」


 やわらかく、それでいて凛とした声が、騒然とした空気をすっと断ち切った。


 一同の視線が集まる。その先に立っていたのは、ひときわ目を引く風貌の女性だった。


 肌は濃いピンクに染まり、風に揺れる長い黄緑の髪が光を受けてきらめく。瞳も同じ色をたたえ、その奥には静かな覚悟が宿っていた。

 背中の大きな翼、そして耳からも伸びる羽根が、彼女のただ者ならぬ出自を物語っている。


「カリュア……!」


 蓮がその名を漏らすと、彼女は微かに目を細めてうなずいた。

 その瞬間、騎士のひとりが驚いたように声を上げた。


「か、カリュアお嬢様! こんな場所にいては危険です!」


 兵士は慌てて駆け寄ろうとするが、カリュアは手を上げてそれを制した。


「大丈夫。私は自分の意思でここにいるの。……それに、彼らを迎えるために」


 兵士は言葉に詰まりながらも、命じられるようにその場に立ち止まる。

 彼女の言葉と気配に、それほどの重みがあった。


 その様子を見たホクトが眉をひそめて問う。


「蓮。知り合いか?」


「ああ。ミネルとイシュタルに向かった時……彼女が助けてくれたんだ」


「……そうだったのね」


 スミレが小さくつぶやき、黄緑の瞳を見つめた。


「蓮、覚えていてくれて嬉しいわ、でも……再会を喜んでいる場合じゃない」


 その顔には疲労がにじんでいた。髪は乱れ、羽根の端にはかすかに傷も見える。それでもなお、彼女の立ち姿は揺るぎなく気高かった。


「風が、空が、壊れかけているの。ここ風都アウライアが――静かに崩れていっている」


 場の空気が凍る。


「……ミネルは、この都に?」


 ホクトの問いに、カリュアは一瞬だけ目を伏せ、そして頷いた。


「ええ。いるわ。でも……その話の前に、今ここで何が起きているのかを見てほしい。言葉では伝わらないことがあるの」


 彼女は背を向け、羽ばたきひとつで宙へ舞う。風が渦を巻き、空気がざわめく。


「ついてきて。風の目へ案内するわ。すべての始まりが、そこにあるの」


 蓮たちは互いにうなずき合うと、迷いなくその背を追った。


 ***


 カリュアに導かれ、蓮たちは鳥人族の王都、その中心――

 “神域”と呼ばれる禁足の空域へと足を踏み入れた。


 そこは、アウライアの中でも最も神聖で、最も近づいてはならない場所。

 空の源、《風の目》が渦巻く、世界で最も純粋な風の揺らぎが集う場所だった。


 空気は凛として澄み切っているのに、妙に息苦しい。

 風は吹いているはずなのに、その音が耳に届かない。まるで世界そのものが呼吸を止めたかのように、異様な沈黙に満ちていた。


「……ここが、風の目……」


 スミレが小さく呟いた。


 眼下に広がるのは遥かな大地――もはや霞と化し、雲すら足元に沈んで見える。

 空の中心にぽっかりと穿たれた“風の裂け目”が、音もなく回転しながら、空そのものを引き裂いている。


「……風が、狂ってるな」


 ホクトの声にはかすかな警戒と、どこか焦りにも似た響きが混ざっていた。


 蓮は無意識に手を広げる。左右の風の流れが違う――風そのものが“誰かの意思”によってねじ曲げられていると、本能が告げていた。


「数日前から、この空域の風が異常に荒れ始めたの」


 カリュアが言った。その声は低く、澄んでいるのに、芯のどこかが震えていた。


「最初は、季節の変わり目だと思ったわ。でも違った。……この風は、ローレのもの」


 彼女が指差す先、風の渦の中心――そこには風が集束し、沈黙の穴を穿っていた。


「まるで、大気そのものが“彼”に怯えているみたい……」


 ホクトが険しい顔をする。


「これは、瘴気だ。しかもただの魔力じゃない……感情が入り混じってる。“憎しみ”と“痛み”……それが風に乗ってる」


「……ホクト様の読み通り、やっぱりローレはここにいるのね……?」


 スミレの声がかすれる。

 そのとき――突如として風が止まった。


 否、風が“止められた”のだ。

 世界が一瞬、まばたきするように沈黙に沈み、空そのものが脈打った。

 風の目が、ぼんやりと淡く、赤黒く、命を宿したように光り始める。

 カリュアは、その光を見つめながら静かに言った。


「ローレは、空の呪いになりつつある……」


 蓮が目を見開く。


「呪い……?」


「ええ。彼は……“空”と心をつなぎすぎた。自分の感情を殺して、空のために生きてきた。けれど、心は生きている」


 カリュアは少し苦しそうに続ける。


「痛みは消えない……積もり積もって、彼の中で“風”そのものが叫び始めたの。彼は暴走を抑えるために自ら……神域である《風の目》の内部に入った……」


 ホクトが口を開く。


「……それで、お前は俺たちをここへ連れてきたんだな。暴走したローレを止めるために」


 カリュアは静かに頷く。だがその瞳には、どこか張りつめた何かがあった。


「彼を止められるのは、あなた達しかいない。……彼の過去を知っていて、彼の“痛み”に触れたことのある者だけが、あの中に踏み込める」


 蓮は思わずカリュアを見た。

 なぜ彼女が、そんなことを知っているのか。


 だが――彼女は何も言わなかった。


 目を伏せるでもなく、逸らすでもなく、ただ静かにこちらを見ていた。その瞳の奥には、何かを秘めたような光が揺れていた。


(……聞いても、答えないつもりだ)


 蓮はそれを直感した。まるでカリュアの中に、「誰にも言えない何か」が巣食っているようで、言葉にできない薄寒さが背筋をなぞった。


 スミレが不安そうに言う。


「でも……ミネルは?彼女はどこに?」


 一瞬の沈黙。

 その後、カリュアは唇をきつく噛んで言った。


「ミネルは……すでに中にいるわ。私が……彼女を、そこに導いたの」


「な……」


 蓮の背筋が冷たくなる。

 まるで全てを“仕組んでいた”というような響き。


「ミネルに……何をしたんだ……?」


 カリュアは瞳を細め、ふっと笑った。


「私は、ローレを守りたかっただけよ。……たとえそのために、誰かを犠牲にしても」


 その瞬間、風が再び吹き荒れ、スミレの体が宙に浮いた。

 カリュアの手がスミレの首元に短剣を突きつける。


「ローレを救って。そうすればこの子は助ける」


「スミレっ!」


 蓮が思わず踏み出そうとする。

 けれどホクトが右手を伸ばし、静かに制した。


「……対価だな。わかった。だがひとつ、教えろ」


 ホクトの声は低いが、確実に怒りを孕んでいた。


「ミネルは……《《何を知って》》落とされた?」


 カリュアは静かに言う。


「残念だけれどーー彼女は何も知らずに、何も知らないまま落ちていったわ。ローレの過去も、自分が何者かも。……だからこそ、彼女の存在はローレの心を揺らした」


 ホクトが拳を握る。


「つまり、お前は二人を“ぶつけた”……」


 カリュアは笑わなかった。ただ、痛々しいまでに真剣な声で答えた。


「……ええ。だって、あの二人は、《《もう一度》》出会わなければならなかったから」


 カリュアの声はかすかに震えていた。


「ローレが……我に返る、最後のきっかけだと思ったの。彼はずっと、誰にも触れられない場所で、一人で壊れていった。だから……だから……!」


 次の瞬間、爆風のような風が蓮たちを呑み込んだ。

 カリュアの叫びが、かすかに響く。


「ローレを取り戻して。あの人が、完全に空の呪いになる前に――!」


 蓮の視界が白に染まる。

 そして、彼は《風の目》の中へと堕ちていった。


 ——ミネルの過去、そしてローレの過去を知るために。

 隠された痛みと、未だ癒えぬ罪と共にある“真実”へと、踏み込んでいった。

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