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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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伝令鳥の行方 前編

 ザイラスが倒れ、戦場の騒音が遠ざかっていく。

 一行は静かにその場を後にし、草の香りが優しく鼻をくすぐる丘の上へと辿り着いた。

 空はすでに夕焼けに染まり、橙と紫が混じり合う壮麗なグラデーションが広がっている。

 風がやわらかく吹き抜け、野花がそよぐ。まるでそこだけ、静かな祝福を受けているようだった。


 スミレはゆっくりと歩みを進め、緑に囲まれた大きな樹の根元に立つと、掌をそっと幹にあてた。

 彼女の手のひらから淡い光がにじみ、木の幹に繊細な刻印──「アンネ」という文字が浮かび上がる。

 その光はまるで命の息吹のように温かく、静かに脈打ちながら、木の内側に吸い込まれていった。

 それは、彼女なりに母を弔うための祈りであり、魂を慰めるための証だった。


 蓮はその姿を見つめながら、思わず息を呑んだ。

 戦いを越えてなお、彼女の佇まいは気高く、美しかった。

 透き通るような白い肌に夕日が柔らかく差し込み、光の粒がその周囲を漂っているようにすら感じる。

 翼が静かに広がり、まるで聖なる光を宿しているかのようだった。


 ホクトが沈黙を破るように、低い声で口を開いた。


「アンネは……お前たちに似て、優しい女だった。悪魔に呑まれなかったのも、彼女自身の強い意志があったからだろうな」


 その言葉には、深い尊敬と、消えない哀しみが滲んでいた。


 イリアは遠くの空を見つめながら、静かに言葉を紡ぐ。


「お母様の死は……決して無駄じゃない。私たちを、生かすためだった」


 イリアはそっとスミレの肩に手を置き、微笑んだ。

 その笑みは柔らかく、痛みを分かち合う者だけが持つ、深い優しさをたたえていた。


 二人の視線が交差し、静かな絆が結ばれる。

 やがてスミレの掌から淡い光があふれ出す。

 それは彼女の魔力──命と想いの込もった、清らかな魔力だった。

 イリアもそっとその手に自分の手を重ね、姉妹は魔力を重ね合わせる。


「お母様……どうか、安らかに」


 その言葉と共に、足元の地面に無数の花が咲き乱れる。

 白、桃、青──色とりどりの花々が、ふたりの祈りに応えるようにして一斉に咲き誇った。

 夕焼けの光がそれらを照らし、まるで地上に舞い降りた光の庭園のような幻想が広がる。


 蓮はその光景に目を見開いた。

 この姉妹は、まるで天から舞い降りた天使のようだ。

 白と金の髪が風になびき、夕陽の中で煌めくその姿に、目が離せなかった。

 胸が高鳴り、息をするのも忘れそうになる。


 やがて、スミレが小さく、でもはっきりと震える声で言った。


「私ね……ずっと考えていたの。だけど、やっぱり……翼を返上したいの」


 風がそっと吹き抜け、彼女の髪が揺れる。

 その瞳には迷いもあったが、それ以上に強い意志が宿っていた。


 イリアはゆっくりと唇を噛み、少しだけ俯く。


「……翼は、妖精族の命そのものよ。あなたがそれを返したら、もう妖精族としては認められない。魔力も……どうなるか分からない」


 スミレは小さく頷くと、深く息を吸い込んで瞳を閉じた。

 そして、自分の言葉で気持ちを伝えるように、ゆっくりと語り出す。


「分かってる……でも、それでも私は翼を返したい。翼がなくても、人を助けることはできるもの」


 スミレの表情には、揺るぎない覚悟が宿っている。

 彼女は少し空を仰ぎ、夕焼けの光を浴びながら、胸の奥に潜んだ不安をゆっくり言葉にしていった。


「……それに、一度翼を返して、自分の力を抑えたいの。記憶が戻ってから、ずっと不安だった。もしまた……魔力が暴走するんじゃないかって、怖くて……」


 声を絞り出すように続ける彼女の目には、恐れと悔しさが滲んでいた。

 彼女の中で、ずっと抑えてきた思いが溢れ出す。


「お母様みたいに、悪魔の血をコントロールできる気がしないの……私には、まだ」


 その告白は、恐れと痛み、そして強い決意に満ちていた。

 蓮は、スミレの手が微かに震えているのに気づき、胸が締めつけられるような思いがした。

 それでも逃げず、迷わず、進もうとする姿に、心が揺さぶられる。


 イリアは黙って聞いていたが、やがて視線を落とし、静かに口を開いた。


「……私だって怖いわ。お母様が五大悪魔の一人だって知った時、自分にも同じ血が流れているかもしれないって思った時、震えが止まらなかった」


 そう言いながらも、イリアは顔を上げ、真っ直ぐにスミレを見つめた。


「でも……私は戦い続ける。マリア──あなたの選んだ道は、私が止めないわ。本当に翼を返上するつもりなら、儀式の申請をする。いいのね?」


 スミレはその言葉に、小さく頷いた。

 その瞳は揺れていたが、確かに前を向いていた。


 蓮はそっと拳を握る。

 彼女の未来がどんなに険しくても、自分はその隣で支え続ける──そう、心に誓った。


 やがて、長い沈黙を破って、イリアが立ち上がる。


「……精霊のそのへ、儀式の申請を出すわ。翼返上の許可を得るために」


 その声は静かだが、揺るぎなかった。姉として、そして同じ血を引く者として、スミレの覚悟を受け止めたのだ。


 彼女は腰のポーチから小さな銀の笛を取り出すと、軽く唇に当てる。

 澄んだ音が空へと昇っていき、すぐにひと羽の鳥が滑空するように現れた。


 純白の羽根に、金の瞳を持つ伝令鳥──それはイリアだけが扱える、王都イシュタルに仕える特別な魔鳥だ。


 イリアはその頭にそっと触れ、目を閉じて念を送る。

 鳥は首をかしげた後、静かに一鳴きして、空へと飛び立った。


 ……だが、次の瞬間。蓮は小さく眉を寄せた。


「あれ……?」


 普段ならすぐに風へ乗るはずのその鳥が、どこか迷うように旋回し、空の高みへ飛び上がる前に一度、ふらりと方向を変えたのだ。

 それはほんのわずかな、気流の乱れにも似た異変──しかし、今の蓮には、嫌な胸騒ぎを覚えさせるには十分だった。


 スミレもまた、不安そうに空を見上げる。


「……何か、おかしい?」


 イリアはしばらく空を見つめていたが、すぐに顔を戻し、笑みを作る。


「大丈夫。ちゃんと届くわ。……きっと」


 だが、その声にほんの一瞬だけ混じった曇りを、蓮は見逃さなかった。


 そしてこのとき、一行はまだ知らなかった。

 あの伝令鳥の異変こそが、次なる試練──鳥人族の地へと彼らを導く最初の兆しであることを。


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