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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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宰相ザイラス

 どんよりと空を覆う黒雲が、ネイトエールに不穏な影を落としていた。

 鼓膜の奥で低いうなりが響き、石造りの城の壁が、かすかに軋んでいる。風はぴたりと止まり、空気は息苦しいほどに重たい。まるで“誰か”が──この世界に目覚めたかのようだった。


「スミレ、行けるか?」


 蓮の問いに、スミレはほんの一瞬だけ目を閉じ、ひとつ頷いた。

 まだ万全ではないはずだ。それでも──彼女は目を逸らさなかった。


 ザイラスの気配は、もはや壁一枚を隔てた向こう側にあった。

 ネイトエール城地下牢。二人は廊下を駆け抜け、厚い扉を迷いなく蹴り破る。


 だがその先で、彼らが目にした光景は、あまりに苛烈だった。


 黒き瘴気を纏い、異形と化したザイラスが、静かに立っていた。

 その足元に倒れているのは──血に塗れた、ホクト。


「……っ、父さん……?」


 蓮の声が震える。スミレの口元からも、かすかな吐息が漏れた。


 ホクトの背中には深い裂傷が走り、片腕は力なく垂れ下がっている。

 鋼のような大剣は、床に転がったまま微動だにしない。


 けれど──彼は、まだ生きていた。


「来たか。……忌むべき災厄の娘」


 ザイラスの視線が、ゆらゆらとスミレへと向けられる。まるで飢えた獣のように、血の臭いを嗅ぎつけた獰猛な目だ。


「ホクト様に……何をしたの!」


「奴は……俺を止めるために、突っ込んできた。それだけだ。自らの力を削ってまで、俺を封じようとした……愚かなことだ」


 ザイラスの背後では、天井が崩れ、瘴気が濃密に渦を巻いている。爆発の痕跡。結界が破れた跡だ。


 蓮とスミレの間を、緊張が駆け抜ける。


「……私が、やらなきゃ」


 スミレが、震える足で前へ出る。

 蓮が彼女の横に並んだ。どちらの顔にも、迷いはなかった。


 そのとき──


「……ぐ、っ……!」


 血の中から、ホクトが身体を起こそうとする。剣に手を伸ばし、必死に立ち上がるその姿には、いつもの覇気はない。

 それでも彼は、一歩、ザイラスに向けて踏み出した。


「もう一度だけ言う、ザイラス……目を覚ませ。お前は──」


「もう目覚めてるさ。ずっとな」


 ザイラスの声が唸りを含み、腕を振り上げる。炎が螺旋を描き、天井を焦がす。


「この炎は、あの日の残響だ。あの女が撒いた、地獄の続きを……俺が背負っただけの話だ!」


 怒りと共に、巨大な炎の爪が放たれる。


 蓮が飛び出し、剣を構えて受け止める──が、勢いに耐えきれず吹き飛ばされ、壁に激突する。


「お願い……守って!」


 スミレが両手を掲げ、魔法陣を展開。風と花の障壁が現れ、炎の余波を逸らす。


 だが次の瞬間、ザイラスが宙を蹴る。

 鋼の拳がスミレの腹を打ち──


「っ、ぐっ……!」


 彼女の身体が宙を舞い、壁に叩きつけられた。


「スミレッ!!」


 蓮が叫び、怒りに任せてザイラスに斬りかかるが──その刃は、拳で容易く弾かれ、逆に膝蹴りが蓮の腹にめり込む。


「力なき者に、俺は止められない」


 ザイラスの全身から魔力が噴き出す。

 部屋の天井が砕け、上階の床までもが軋み始めた。


「過去に焼かれた者は、ただ焼け焦げて終わるだけじゃない……燃え残った灰の中に、火種が残る」


「……っ、俺たちは……その火種を消すために……!」


 蓮が立ち上がり、叫ぶ。


「スミレは自分の過ちと向き合おうとしてるんだ! お前も逃げるな、ザイラス!!」


 スミレもまた、ふらつく身体を引きずりながら立ち上がる。

 彼女の身体から、淡い光が花びらのように舞い上がる。


「……私は……犯した罪から、逃げたくない。だから……あなたも……」


「黙れッ!!」


 ザイラスの右腕が槍状に変化し、まっすぐスミレへと突き出される──


「っ──!」


 蓮が動いた。しかし間に合わない。


 鈍い音。スミレの腹を、鋼の槍が貫いた。


「スミレ!!」


 崩れ落ちる彼女を、蓮が抱きとめる。鮮血が音もなく床を濡らしていく。


 その瞬間──


「それ以上は、させないわ」


 重く、強い声が空間を切り裂くように響いた。


 ザイラスが顔を上げる。

 その前には、イリアが立っていた。翡翠色の瞳が、凍りついたような鋭さを放っている。


「イリア……来ちゃだめよ……!」


 スミレが、か細く叫ぶ。

 イリアは一度だけスミレに目をやり、静かに頷いた。


「あなたのことは、私が護る」


 そして──一歩、ザイラスの方へ進み出る。


「ザイラス。あなたが背負ってきた痛みを、私は知っている。けれど……復讐で未来を焼くのは、違う」


 ザイラスの表情が歪んだ。


「痛みを“知っている”? ……笑わせるな」


 その瞬間、魔力が炸裂する。

 ザイラスの炎が炸裂し、イリアの展開した光の盾を叩く。


「っ……!」


 イリアは押し返されながらも、立っていた。剣を前に突き出し、再び盾を構築する。


「あなたの業火は強い……でも、私は退かないわ。絶対に」


 炎がぶつかるたび、空間が軋む。盾が砕け、魔法の余波がイリアの髪を焦がす。それでも彼女は膝をつかなかった。


「それが……イシュタルの誇りだから!」


 ザイラスが歯を食いしばるように笑う。


「強くなったな、姫様よ……だが──」


 彼の身体から黒煙が噴き出す。瘴気が渦を巻き、空気が凍りつく。


「俺に力を与えた“あの女”の血が……今も、この身を灼いている……!」


 イリアの瞳が揺れる。


「“あの女”?」


 ザイラスが吠える。


「アンネだよ……貴様らの母親だ! あの女が、焼け爛れた俺を拾い上げ、俺に力を与えた! ──呪われた、悪魔の血をな!」


 沈黙が、部屋を覆った。


「希望だの、正義だの──全部、アンネの手の中だ! お前たちが信じてきたものは、全部偽りだ!!」


 叫びはもはや咆哮となり、彼の周囲の瘴気が爆発する。

 ザイラスの咆哮と共に、部屋中を黒い瘴気が埋め尽くした。

 イリアはそれに抗い、再び魔法陣を展開するも、風圧と圧力に身体がきしむ。


 スミレは未だ蓮の腕の中でうめき、ホクトも壁際で血に濡れた手を伸ばす。

 今や、この場に立っていられる者は──イリアだけだった。


「……お母様が、あなたに何を……」


 イリアの声は揺れていた。

 ザイラスは静かに笑った。


「“優しい目”で、俺を見たよ。地獄の中で、あの女だけが……手を差し伸べた。俺は……救われたと思った」


 その声には、怒りと悲しみと、何より深い絶望が混ざっていた。


「けどな……違ったんだ。あの女は“俺”を見ていたんじゃない。“あの日に焼かれた自分”と、“助けられなかったお前たち”を俺に重ねてただけだ!」


 バチィッ──

 瘴気が電撃のように迸り、天井が崩れる。石塊が落下する直前──


「……そうかもしれないわね」


 その声は、あまりに静かだった。

 けれど、それは全ての音を止めるだけの力を持っていた。


 ザイラスの動きが止まる。


 イリアが息を呑み、振り返る。

 蓮とスミレの視線も、その声の主へと引き寄せられる。


 空間が裂けたような音だった。

 次の瞬間、誰もいなかった向こうから、ひとりの女性が現れた。

 ゆっくりと歩を進めるその姿は、まるで幻のようだった。

 銀の髪が波打ち、深い闇をその奥に湛えた静かな瞳が、すべてを見つめていた。


「……え……」


 最初に声を漏らしたのは、イリアだった。

 目を見開き、呼吸を忘れたように口元を震わせる。


「……うそ、まさか……お母様……?」


 その言葉に、スミレも息を呑んだ。

 目の奥が熱くなる。数え切れない夜の夢に見た──けれど、もう叶わないと思っていた存在が、今、目の前にいた。


「……お母……様……?」


 スミレの唇から、かすかな祈りのような声が漏れる。

 蓮は思わずスミレの肩を支える手に力を入れる。

 ホクトも、驚愕というよりは、何かを悟ったように目を細める。


「アンネ……あんた……」


 その名を呟いたのは、ザイラスだった。

 声はかすれ、震えていた。怒りとも、期待ともつかぬ感情が交錯し、拳がわななく。


「……来たのか……今さら……!」


 アンネは無言のまま一歩、また一歩と近づく。

 彼女の周囲だけ、瘴気が淡い光に飲まれ、花のように消えていく。


 その姿は──悪魔の面影を宿しながらも、天使のように光を纏っていた。

 一見、静謐そのものの微笑み。だがその内側には、抑えきれぬ“核の震え”のようなものがあった。


 彼女の足元から小さく瘴気が漏れ、背後に黒と白の羽根が交錯する幻影がちらつく。

 その身体は、かすかに震えていた。


「……ザイラス」


 アンネが口を開いた瞬間、その声だけで空気が変わる。

 心の奥に直接届くような、懐かしくも、痛々しい響きだった。

 ザイラスの瘴気が、再び大きく波打った。


「俺は何も終わってねぇ!! この力はあんたのせいで生まれたんだッ! 全部……ッ、全部アンネ、お前の──」


「それでも私は来たのよ」


 アンネの声が静かに、しかし明確に響く。

 その姿は、崩れかけた空間の中で、まるで光のようだった。


 彼女はふと、スミレのもとへと歩み寄る。

 その膝が静かに床につき、母としての目で娘を見つめた。


「マリア……こんな姿でしか帰れなかったこと、許してくれる?」


 スミレは涙を拭い、かすかに首を振る。


「……姿なんて、関係ない……会いたかった……ずっと……! お母様っ……わたしっ……!」


 アンネは微笑んだ。

 その手が、かすかにスミレの頬に触れる。


「あなたの中に……私の過ちが刻まれてしまった。

 でもその痛みは、どうか……未来を壊すためではなく、誰かを守る力になって」


 ──その瞬間、アンネの指先から小さな光がスミレの胸元へ流れ込む。

 それは魔力ではなかった。ただ、母が娘に遺す「祈り」だった。

 胸元に流れ込んだ光は、痛みをやわらげるように優しく広がり──まるで母の手がそっと撫でるように、スミレの腹の傷は静かに消えていった。


 アンネは立ち上がると、イリアに振り向く。


「イリア。あなたには強さがある。でも、どうか……その剣を、自分だけのために振らないで」


 イリアは唇を噛み、力強く頷いた。


「……お母様、ありがとう」


 アンネはもう一度、娘たちを見つめ──ザイラスへと向き直る。

 ザイラスが叫んだ。


「ふざけるなァ!! 俺を見ろよ、俺を!! 俺を救ったくせに、今さら娘たちに帰るだと!?」


 彼の拳が、スミレへ向けて振り上がる──


 その瞬間、


「やめなさい、ザイラス!!」


 アンネの叫びが空間を裂いた。

 その身体から、抑えられていた瘴気が漏れ出し、空間が震える。

その力は、スミレの前で防壁となって展開された。

 アンネが、娘を守るように手を伸ばしていた。


「あなたを、あの日、助けたことは……後悔してない。

 でも、今、ここで……娘たちを傷つけるなら──私はあなたを止める」


 ザイラスが口を噛み締める。


「なら……俺を、殺せよ。アンネ!!」


 アンネは、少しだけ目を伏せた。


「……できるなら、それ以外の道を探したかった。

 でも、あなたが望むのなら──それが、あなたの“最期”にふさわしいのなら」


 彼女は目を開き、スミレとイリアに一瞬だけ優しい視線を送る。


「……お別れの時間が、来たみたいね」


 スミレが叫んだ。


「いやだ! そんなのいや……お母様……!」


 イリアも剣を構え、前に出ようとする。


「私たちも戦う! お母様をひとりで──!」


 イリアが叫ぶ。剣を強く握りしめ、一歩を踏み出そうとする。

 だがアンネは、振り返らなかった。

 その背に、微かな笑みを浮かべたまま──首を横に振る。


「ありがとう。でも、これは……私にしかできないの」


 その背中は、母として、かつての女王として──そして一人の人間として、これまでで最も強く、美しく見えた。


 ホクトが、奥歯を噛みしめて呟く。


「……“母としての最期”か……やっぱり、お前は悪魔に呑まれていないと信じてたよ、アンネ……」


 アンネは静かに手を掲げる。

 その指先から放たれた光が、嵐のように暴れるザイラスの瘴気を裂き、押さえ込んでいく。


「……行きなさい、ザイラス。あなたが望んだ“終焉”は──この手に託されるでしょう」


「っざけるなああああああ!!」


 ザイラスが怒声を上げる。

 だがその咆哮さえ、アンネの力にかき消されていく。


 彼女の身体が、じわりと崩れていく。

 悪魔の力を、限界まで引き出していた。


 ──それは、彼女自身をすり潰すような行為だった。


「お母様……っ!」


 イリアが思わず一歩を踏み出すが、その場に膝をつく。

 蓮もホクトも、その光の中で言葉を失っていた。


 そんな中──

 スミレの足元で、光が生まれた。


 ぽたり、と地面に涙が落ちる。

 それを受け取るように、小さな蕾が膨らみ、咲いた。


「……お母様……」


 スミレの声は震えていた。けれど、どこまでも優しかった。


「もう一度……あなたに、私の魔法を見せたかった……」


 その言葉と共に、彼女の魔力が花の形を取る。

 地を這うように広がる、無数の紫の花──それは、娘が母に捧げる、癒しと祈りの魔法だった。


 アンネの足元を包み、彼女の背中を押すように咲き誇る。

 まるで「行ってらっしゃい」と、娘が母に送る最後の贈り物のように。


 アンネは振り返らずに、微かに唇を動かした。


「……ありがとう、マリア……あなたの魔法は、私の誇り……」


 その瞬間、ザイラスの瘴気が再び暴れた。

 だが、もう彼の動きは遅い。


 アンネが、胸元の力をすべて放つ。


 爆ぜるような閃光。


 ザイラスが一瞬たじろぎ、動きを止めた。


「──イリア」


 アンネが呼ぶ。


「今なら……終わらせられる。私の最期と……この呪いを」


 イリアの目から、涙があふれた。


「いやだ……いや……! お母様、行かないで……!」


「私の命は……もう燃え尽きる。だからこそ、託すのよ。

 あなたが……“未来を生きる者”だから──」


 イリアは震える手で剣を構える。

 アンネの身体が、光に溶け始めていた。


 その姿は、まるで天に還る天使のようだった。


「……お母様……愛しています……!」


 彼女は泣きながら、剣を振り下ろした。

 ザイラスの胸を、母の遺志と共に、貫いた。


 ザイラスが呻き声を上げる。


 そして──


 すべてが静まり返った。


 スミレの花だけが、静かに咲き続けていた。

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