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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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翼の役目

 朝の光が、ゆっくりとネイトエールの空に差し込んでいた。

 火災の跡がまだ残る町は、それでも昨日よりもわずかに色を取り戻している。焦げた壁の間に洗濯物が揺れ、焼け残った石畳を掃く音が、あちこちから聞こえていた。


「はい、こっちは任せて。水、もう少し持ってくるわね!」


 スミレは両手に木桶を抱えて、井戸のほうへと軽く駆けていく。

 作業着の上に羽織った薄布が朝の風に揺れ、透けた布越しにその背の“翼”がちらりと覗いた。まだ返してはいない証。その姿が、どこか頼りなげに見えた。


 井戸のそばでは、子どもたちが無邪気に集まり、彼女のあとをついてくる。


「お姉ちゃん、魔法また見せてよ!」「昨日のお花、もっと咲かせて!」


 スミレは少し戸惑いながらも、微笑みを返す。


「今日は、井戸の修理が先ね。水が出るようになったら……きっと、もっと嬉しいはずだから」


 そう言って、魔法でひとしずくの水を空に散らす。

 朝日に透けた水滴が虹を描き、子どもたちが歓声を上げた。


 そのときだった。


「水が出た!」「井戸、直ったぞ!」


 どこかで声が上がる。

 町の人々が駆け寄り、桶に水を汲み、手を取り合って笑い始めた。


「やったな……」「本当に戻ってきたんだ、この町が」


 スミレはその輪の外から静かにそれを見つめる。

 誰かの役に立てたこと、笑顔が戻ったこと──それが、ただ嬉しかった。


 彼女はそっと、翼に触れる。


(……これが、奇跡じゃなくてもいい。翼がなくても、きっと私は……)


 その頃、町の外れでは蓮が崩れた物置の補修をしていた。

 瓦礫を担ぎ、支柱を立て直し、汗を拭いながら空を見上げる。


 昨日の夜の、あの言葉が胸に残っていた。


「……翼がなくても、わたしにはまだ、できることがあるから」


(スミレ……)


 蓮は、そっと拳を握る。

 自分にも、何かできることがあるはずだ。そう思えたのは、彼女の存在があったからだ。


 ふと、近くで作業をしていた兵士が声をかけてきた。


「蓮、ここの支え、すごく助かったよ。あんた、器用なんだな」


「いえ……こういうの、嫌いじゃないんで」

そう答えながら、蓮は目を細めた。


微かに吹いていた風が、ふと揺らぎを止めた。

まるで何かが空気を飲み込んだかのように、風の流れが途切れ、周囲の音がすっと引いていく。

町のざわめきはまだ聞こえるはずなのに、不思議と耳に届いてこない。


(……なんだ?)


蓮は辺りを見回した。異変はない。けれど、背中の奥がかすかに疼く。

それは痛みではなく、何かが――どこか遠くから、自分に向けて手を伸ばしているような感覚。

無魔力だったはずの自分が、ありえない何かに反応している。


(この感じ……今までに、一度も……)


 蓮の右手が自然と剣の柄に伸びた。

 その瞬間、町の北側、門の方角から叫び声が上がる。


「外に……何かいるぞ!」

「こっちに来てる……!」


 空気が張りつめる。鳥たちが空に散り、町の人々の視線が一斉に北へ向かう。

 スミレもまた、はっとしたように振り返った。


「この気配……まさか……!」


 蓮は咄嗟にスミレのもとへ駆けた。

 瓦礫の向こうから、迫る巨大な影──サタン。それは混ざり物のような、異形の魔物だった。


「なんで今なんだよ……!」


 蓮の背中が熱を帯びる。

皮膚の奥で疼くそれに、見覚えがあった。

 だが、暴走ではない。呼べば応じる、そんな感覚があった。


(……力が、応えてくれてる……!)


 刃にわずかに光が流れる。蓮は深く息を吸った。

 恐れるな。これは、自分の力だ。


 そのとき──

 サタンが咆哮を上げた。兵士たちが陣を張り、住民の避難が始まる。復興途中の町には、戦力も守りも整っていない。


「スミレ……!」


 振り返ると、スミレが空へ跳び上がっていた。だが──動けていなかった。

 彼女の身体がわずかに震えているのが、下からでもわかった。


(……抑えてる……いや、違う……)


 掌に力を込めようとするたび、彼女の魔力が逆流するように波打っている。

 表情は強張り、額にはうっすら汗がにじんでいた。


(怖いんだ……)


 そう直感した。

 スミレの目には、遠くを見るような焦点の定まらない光が宿っていた。

 ──イシュタルの夜を、思い出している。


「スミレ!」


 蓮は叫び、拳を握る。

 背中の奥が、再び熱を灯した。


(……来い)


 低く呟いた瞬間、背中を貫く閃光が走る。

 閉じ込めていた力が、反応した。

 骨の奥から風が走り、竜の翼が展開する。


「……これが、俺の翼……!」


 重さも痛みもない。ただ、確かにそこにある。

 “守るために”手に入れた力。


(……飛べ、俺!)


 地面を蹴る。風が巻き起こり、翼が応じる。

 瞬間、身体がふわりと浮かび、サタンの肩口まで一気に跳躍した。


「スミレ、逃げろ! ここは俺が──」


「だめ!」


 空から響いた声に、蓮は驚いて見上げた。

 スミレが、顔をゆがめていた。唇が震え、目が潤んでいる。


「一人で行かないで……お願い、行かないで……!」


「スミレ……」


「私……怖いの……っ 魔力を使ったら、また誰かを──」


 声がかすれていた。

 強いはずの彼女が、こんなにも弱さをさらけ出している。

 けれど、それを恥じるような目ではなかった。

 むしろ──今の彼女の方が、ずっと真っ直ぐに見えた。


 蓮は、言った。


「俺はスミレの力で救われた。

 だから信じてる。たとえまた、力が暴れたとしても……スミレなら、戻ってこられるって」


 その言葉に、スミレの肩がわずかに揺れた。

 張り詰めていた何かが、ほつれていく。


(……ありがとう)


 そう言ったように、スミレが小さく頷く。


 彼女のまわりに、花のような光がふわりと咲き始めた。

 暴れるのでも、抑えるのでもなく──受け入れるように。

 手のひらに集まった魔力が、静かに形をとる。


(あのときとは違う……これは、護るための力)


 スミレの翼が、ふたたび輝く。


 蓮もまた剣を構える。

 光の粒が翼から流れ、刃に宿る。自分の意志で、力が動いていた。


「行くぞ、スミレ!」


「ええ!」


 二人の動きが、合わさった。

 剣と魔法が交差する。炎の刃が奔り、花の精霊が風を導く。


 咆哮が響く。

 だが、蓮の足取りは揺るがない。

 スミレの魔力も、暴れなかった。


 恐怖を越えた先で、彼らは並んで立っていた。

 サタンが唸りを上げて突進してくる。

 体躯を揺らしながら地を削り、巨大な腕を振り上げた。


「右から来る……!」


 蓮が叫び、スミレがそれに応じる。


「任せて!」


 彼女の掌から放たれた風の魔力が、渦となってサタンの足元を絡めとる。

 サタンの動きが鈍った一瞬、蓮は跳躍する。

 高く、高く、風に乗った。


(翼で動くって……こういうことか!)


 背中の羽ばたきに合わせ、体が自然に加速する。

 だがそれだけではない。剣を振ろうとした瞬間──


(……あれ?)


 手に伝わる感覚が変わった。

 剣の重さが、いつもと違う。

 まるで刃の中に「何か」が流れ込んでいるような……。


(これって……魔力……?)


 無魔力だったはずの自分に、そんな感覚があるのが不思議だった。

 だが確かに、いま、体の奥から微かな熱が湧き上がってくる。


(力が……俺の中で動いてる……)


「はああっ!」


 剣を振る。刃が熱を帯び、細い火線のように軌跡を描く。

 ほんの一瞬だったが、確かに“力”が込められていた。


(そうか……ただ“力を出す”んじゃない。自分の体に、魔力の“通り道”を見つけてやるんだ)


 剣を握る手。背中。足の蹴り──

 体の内側にある“流れ道”に、少しずつ魔力を沿わせていくような感覚。

 ほんの微量、だが確かに自分で操っている。


「行ける……!」


 自分は魔法が使えない。けれど──

 こうして体を通してなら、“力”を武器に乗せられる。


(俺は、無魔力のまま、“戦える”……!)


 吹き抜ける風の中、蓮の剣が再び唸る。

 剣に宿した魔力が炎を巻き起こし、切っ先がサタンの肩に突き立つ。

 獣のような咆哮とともに、黒い瘴気が周囲に溢れ出す。


「下がって、蓮!」


 スミレの声と同時に、彼女のまわりを舞っていた花の精霊が、ひときわ強く輝いた。


「──咲きなさい!」


 静かな詠唱のあと、空間に光の花が一斉に開く。

 その中心から放たれた閃光が、サタンの胸に直撃した。


 蓮が剣を振り抜く。

 スミレが魔力を放つ。

 二つの力が、同じ敵を貫いた。



 サタンが、断末魔を上げて崩れ落ちる。


 風が舞い、花びらが残滓のように空を舞った。



 しばらくの静寂。

 風が吹く。あの時止まっていた風が──今、ふたたび吹いていた。


「……やったのか……?」


 蓮が息をつく。

 地面に着地すると同時に、翼が静かにたたまれた。

 そのすぐ横、スミレもまた静かに降り立つ。


「……ええ」


 彼女は小さく頷き、でもその目はわずかに潤んでいた。


「蓮……あなたがいなかったら……私は、また怖くて逃げてたかもしれない」


「逃げてなんかないよ。スミレは……ちゃんと、前を向いたんだ」


 蓮の言葉に、スミレは少しだけ笑った。


「ありがとう」


 花の魔力が、そっと彼女の手から舞い落ちる。

 それは、誰かを傷つけるのではなく、静かに町を包むような魔力だった。

 スミレは、張り詰めていた力をほどいたように言った。


「……飛べてたね。蓮も」


「うん。ちょっと怖かったけど、気持ちいいな。風に乗れるって」


「ふふ……私も、最初はそうだった」


 光の翼をたたみながら、スミレが微笑んだ。

 かつてのような強がりではなく、今の彼女のままの、柔らかい笑顔だった。


 ──静かだった。

 戦いの後の町は、ようやく日常の音を取り戻し始めていた。

 遠くで兵士たちが避難を解いている。

 空を飛ぶ鳥の羽音も、もう恐怖ではなかった。


 スミレが、ふとつぶやく。


「……ねえ、また一緒に、戦ってくれる?」


 蓮は答えるのに、ほんの少しだけ間を置いた。


「……ああ。何度でも」


 その言葉に、スミレは涙をこらえたように笑った。


 風が、ふたりの間を通り抜けていった。

 まるで穏やかな終わりを告げるかのように、柔らかく。


 だがその直後――

 

「緊急事態です!」


 駆け込んできた兵士の声が、場の空気を一変させた。

 蓮とスミレが顔を上げる。

 

「ザイラスの結界が――破られました!」


 兵士の肩で伝令鳥が騒ぎ、空には不穏な黒い雲がうっすらと立ち上り始めていた。

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