翼の役目
朝の光が、ゆっくりとネイトエールの空に差し込んでいた。
火災の跡がまだ残る町は、それでも昨日よりもわずかに色を取り戻している。焦げた壁の間に洗濯物が揺れ、焼け残った石畳を掃く音が、あちこちから聞こえていた。
「はい、こっちは任せて。水、もう少し持ってくるわね!」
スミレは両手に木桶を抱えて、井戸のほうへと軽く駆けていく。
作業着の上に羽織った薄布が朝の風に揺れ、透けた布越しにその背の“翼”がちらりと覗いた。まだ返してはいない証。その姿が、どこか頼りなげに見えた。
井戸のそばでは、子どもたちが無邪気に集まり、彼女のあとをついてくる。
「お姉ちゃん、魔法また見せてよ!」「昨日のお花、もっと咲かせて!」
スミレは少し戸惑いながらも、微笑みを返す。
「今日は、井戸の修理が先ね。水が出るようになったら……きっと、もっと嬉しいはずだから」
そう言って、魔法でひとしずくの水を空に散らす。
朝日に透けた水滴が虹を描き、子どもたちが歓声を上げた。
そのときだった。
「水が出た!」「井戸、直ったぞ!」
どこかで声が上がる。
町の人々が駆け寄り、桶に水を汲み、手を取り合って笑い始めた。
「やったな……」「本当に戻ってきたんだ、この町が」
スミレはその輪の外から静かにそれを見つめる。
誰かの役に立てたこと、笑顔が戻ったこと──それが、ただ嬉しかった。
彼女はそっと、翼に触れる。
(……これが、奇跡じゃなくてもいい。翼がなくても、きっと私は……)
その頃、町の外れでは蓮が崩れた物置の補修をしていた。
瓦礫を担ぎ、支柱を立て直し、汗を拭いながら空を見上げる。
昨日の夜の、あの言葉が胸に残っていた。
「……翼がなくても、わたしにはまだ、できることがあるから」
(スミレ……)
蓮は、そっと拳を握る。
自分にも、何かできることがあるはずだ。そう思えたのは、彼女の存在があったからだ。
ふと、近くで作業をしていた兵士が声をかけてきた。
「蓮、ここの支え、すごく助かったよ。あんた、器用なんだな」
「いえ……こういうの、嫌いじゃないんで」
そう答えながら、蓮は目を細めた。
微かに吹いていた風が、ふと揺らぎを止めた。
まるで何かが空気を飲み込んだかのように、風の流れが途切れ、周囲の音がすっと引いていく。
町のざわめきはまだ聞こえるはずなのに、不思議と耳に届いてこない。
(……なんだ?)
蓮は辺りを見回した。異変はない。けれど、背中の奥がかすかに疼く。
それは痛みではなく、何かが――どこか遠くから、自分に向けて手を伸ばしているような感覚。
無魔力だったはずの自分が、ありえない何かに反応している。
(この感じ……今までに、一度も……)
蓮の右手が自然と剣の柄に伸びた。
その瞬間、町の北側、門の方角から叫び声が上がる。
「外に……何かいるぞ!」
「こっちに来てる……!」
空気が張りつめる。鳥たちが空に散り、町の人々の視線が一斉に北へ向かう。
スミレもまた、はっとしたように振り返った。
「この気配……まさか……!」
蓮は咄嗟にスミレのもとへ駆けた。
瓦礫の向こうから、迫る巨大な影──サタン。それは混ざり物のような、異形の魔物だった。
「なんで今なんだよ……!」
蓮の背中が熱を帯びる。
皮膚の奥で疼くそれに、見覚えがあった。
だが、暴走ではない。呼べば応じる、そんな感覚があった。
(……力が、応えてくれてる……!)
刃にわずかに光が流れる。蓮は深く息を吸った。
恐れるな。これは、自分の力だ。
そのとき──
サタンが咆哮を上げた。兵士たちが陣を張り、住民の避難が始まる。復興途中の町には、戦力も守りも整っていない。
「スミレ……!」
振り返ると、スミレが空へ跳び上がっていた。だが──動けていなかった。
彼女の身体がわずかに震えているのが、下からでもわかった。
(……抑えてる……いや、違う……)
掌に力を込めようとするたび、彼女の魔力が逆流するように波打っている。
表情は強張り、額にはうっすら汗がにじんでいた。
(怖いんだ……)
そう直感した。
スミレの目には、遠くを見るような焦点の定まらない光が宿っていた。
──イシュタルの夜を、思い出している。
「スミレ!」
蓮は叫び、拳を握る。
背中の奥が、再び熱を灯した。
(……来い)
低く呟いた瞬間、背中を貫く閃光が走る。
閉じ込めていた力が、反応した。
骨の奥から風が走り、竜の翼が展開する。
「……これが、俺の翼……!」
重さも痛みもない。ただ、確かにそこにある。
“守るために”手に入れた力。
(……飛べ、俺!)
地面を蹴る。風が巻き起こり、翼が応じる。
瞬間、身体がふわりと浮かび、サタンの肩口まで一気に跳躍した。
「スミレ、逃げろ! ここは俺が──」
「だめ!」
空から響いた声に、蓮は驚いて見上げた。
スミレが、顔をゆがめていた。唇が震え、目が潤んでいる。
「一人で行かないで……お願い、行かないで……!」
「スミレ……」
「私……怖いの……っ 魔力を使ったら、また誰かを──」
声がかすれていた。
強いはずの彼女が、こんなにも弱さをさらけ出している。
けれど、それを恥じるような目ではなかった。
むしろ──今の彼女の方が、ずっと真っ直ぐに見えた。
蓮は、言った。
「俺はスミレの力で救われた。
だから信じてる。たとえまた、力が暴れたとしても……スミレなら、戻ってこられるって」
その言葉に、スミレの肩がわずかに揺れた。
張り詰めていた何かが、ほつれていく。
(……ありがとう)
そう言ったように、スミレが小さく頷く。
彼女のまわりに、花のような光がふわりと咲き始めた。
暴れるのでも、抑えるのでもなく──受け入れるように。
手のひらに集まった魔力が、静かに形をとる。
(あのときとは違う……これは、護るための力)
スミレの翼が、ふたたび輝く。
蓮もまた剣を構える。
光の粒が翼から流れ、刃に宿る。自分の意志で、力が動いていた。
「行くぞ、スミレ!」
「ええ!」
二人の動きが、合わさった。
剣と魔法が交差する。炎の刃が奔り、花の精霊が風を導く。
咆哮が響く。
だが、蓮の足取りは揺るがない。
スミレの魔力も、暴れなかった。
恐怖を越えた先で、彼らは並んで立っていた。
サタンが唸りを上げて突進してくる。
体躯を揺らしながら地を削り、巨大な腕を振り上げた。
「右から来る……!」
蓮が叫び、スミレがそれに応じる。
「任せて!」
彼女の掌から放たれた風の魔力が、渦となってサタンの足元を絡めとる。
サタンの動きが鈍った一瞬、蓮は跳躍する。
高く、高く、風に乗った。
(翼で動くって……こういうことか!)
背中の羽ばたきに合わせ、体が自然に加速する。
だがそれだけではない。剣を振ろうとした瞬間──
(……あれ?)
手に伝わる感覚が変わった。
剣の重さが、いつもと違う。
まるで刃の中に「何か」が流れ込んでいるような……。
(これって……魔力……?)
無魔力だったはずの自分に、そんな感覚があるのが不思議だった。
だが確かに、いま、体の奥から微かな熱が湧き上がってくる。
(力が……俺の中で動いてる……)
「はああっ!」
剣を振る。刃が熱を帯び、細い火線のように軌跡を描く。
ほんの一瞬だったが、確かに“力”が込められていた。
(そうか……ただ“力を出す”んじゃない。自分の体に、魔力の“通り道”を見つけてやるんだ)
剣を握る手。背中。足の蹴り──
体の内側にある“流れ道”に、少しずつ魔力を沿わせていくような感覚。
ほんの微量、だが確かに自分で操っている。
「行ける……!」
自分は魔法が使えない。けれど──
こうして体を通してなら、“力”を武器に乗せられる。
(俺は、無魔力のまま、“戦える”……!)
吹き抜ける風の中、蓮の剣が再び唸る。
剣に宿した魔力が炎を巻き起こし、切っ先がサタンの肩に突き立つ。
獣のような咆哮とともに、黒い瘴気が周囲に溢れ出す。
「下がって、蓮!」
スミレの声と同時に、彼女のまわりを舞っていた花の精霊が、ひときわ強く輝いた。
「──咲きなさい!」
静かな詠唱のあと、空間に光の花が一斉に開く。
その中心から放たれた閃光が、サタンの胸に直撃した。
蓮が剣を振り抜く。
スミレが魔力を放つ。
二つの力が、同じ敵を貫いた。
サタンが、断末魔を上げて崩れ落ちる。
風が舞い、花びらが残滓のように空を舞った。
しばらくの静寂。
風が吹く。あの時止まっていた風が──今、ふたたび吹いていた。
「……やったのか……?」
蓮が息をつく。
地面に着地すると同時に、翼が静かにたたまれた。
そのすぐ横、スミレもまた静かに降り立つ。
「……ええ」
彼女は小さく頷き、でもその目はわずかに潤んでいた。
「蓮……あなたがいなかったら……私は、また怖くて逃げてたかもしれない」
「逃げてなんかないよ。スミレは……ちゃんと、前を向いたんだ」
蓮の言葉に、スミレは少しだけ笑った。
「ありがとう」
花の魔力が、そっと彼女の手から舞い落ちる。
それは、誰かを傷つけるのではなく、静かに町を包むような魔力だった。
スミレは、張り詰めていた力をほどいたように言った。
「……飛べてたね。蓮も」
「うん。ちょっと怖かったけど、気持ちいいな。風に乗れるって」
「ふふ……私も、最初はそうだった」
光の翼をたたみながら、スミレが微笑んだ。
かつてのような強がりではなく、今の彼女のままの、柔らかい笑顔だった。
──静かだった。
戦いの後の町は、ようやく日常の音を取り戻し始めていた。
遠くで兵士たちが避難を解いている。
空を飛ぶ鳥の羽音も、もう恐怖ではなかった。
スミレが、ふとつぶやく。
「……ねえ、また一緒に、戦ってくれる?」
蓮は答えるのに、ほんの少しだけ間を置いた。
「……ああ。何度でも」
その言葉に、スミレは涙をこらえたように笑った。
風が、ふたりの間を通り抜けていった。
まるで穏やかな終わりを告げるかのように、柔らかく。
だがその直後――
「緊急事態です!」
駆け込んできた兵士の声が、場の空気を一変させた。
蓮とスミレが顔を上げる。
「ザイラスの結界が――破られました!」
兵士の肩で伝令鳥が騒ぎ、空には不穏な黒い雲がうっすらと立ち上り始めていた。




