サタン 前編
蓮とスミレは再び商店街を歩きながら、周囲の賑わいに目を向けていた。商店街は依然として活気に満ち、道行く人々の話し声や笑い声が響き渡る中で、蓮はフードを深く被りながら歩いていた。フードをかぶっていることで、多少なりとも安心感を得られる気がしていた。
「そういえば、スミレさん、シロスケが言ってましたよね? この服は昔人間が落とした物だとか……。もし本当だったら、俺以外にも架空界に人間が存在するってことなんでしょうか?」
蓮がふと思い出したように言うと、スミレは軽く笑いながら答えた。
「シロスケって。彼女は女の子なのだから、もっと可愛い名前があるでしょう」
「確かにそうですね、じゃあシロにします!」
蓮の言葉にスミレは頷き、しばらく考えた後、再び話を続けた。
「そのシロが言っていた話だけれど、信じるか信じないかはあなた次第ってところかしら。どの世界にも、そういう伝説めいた話を好む子たちはいるのよ。まあ、伝説って言っても、あなたが今ここにいる限り、それは実際の真実になっちゃってるんだけど」
「なるほど、じゃあもしかすると──」
蓮が言いかけたその時、突然、正面から角の生えた亜人族の少年が駆け寄ってきて、大声で叫んだ。
「サタンだ! サタンが来たぞ! 逃げろ!」
その声を合図に、街の人々は一斉に動き出した。突然、商店街の喧騒は一変し、周囲は混乱に包まれた。買い物をしていた客も、商売をしていた店員も、皆が慌ててその場を離れ、駆け足で逃げ出す。
「スミレさん、一体何が──」
蓮が驚いて問いかける暇もなく、スミレは蓮の腕を引き、素早く走り出した。蓮もとにかくついて行くしかなかった。何も知らないまま、ただ必死に走り続ける。周囲から感じる異様な空気と、大きな重圧が、何か恐ろしい存在が迫っていることを強く感じさせた。それは、普通の人間が感じることのできる「不安」ではなく、何かもっと本能的な恐怖だった。
息を切らしながら走る蓮の耳に、突然知っている声が届く。
「ヤバいにゃ、すぐそこまで来てるにゃ!」
「──シロ!」
「シロじゃない、ミーニャ!」
走りながら振り返った蓮は、ミーニャが四つん這いで走っていく姿を見た。
「無事を祈るにゃ!」
それだけ言い残して、ミーニャは瞬く間に姿を消した。
蓮の背筋が凍りつくような感覚が走った。蓮は背後から迫る巨大な影と足音に、恐怖を感じながら走り続けた。背後を振り返ることができなかった。振り返ることで、その恐怖にさらされることになる気がして、ただひたすらに前を向いて走るしかなかった。
そのとき、前方で何かが足を崩して転んだ。蓮は驚いて振り返ると、鹿の角を生やした獣人族の女が、赤子を抱えながら倒れていた。
「たっ……助けて!」
女は震えながら、涙を流しつつ必死に叫ぶ。周りを見渡すと、他の人々は誰一人としてその女を助けようとはしなかった。皆がただ逃げることに必死だったからだ。
「待って! スミレさん!」
蓮は思わず声をあげるが、スミレは足を止めることなく、さらに速く走り続ける。蓮は心の中で葛藤しながら、転んだ女に駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
その瞬間、蓮の耳に響いたのは、耳をつんざくような奇声と地響きだった。どこからともなく聞こえたその音に、蓮は思わず心臓を止めるような感覚を覚えた。そして、目の前に現れたのは、まさに悪夢のような存在だった。
──あ。うそ、だろ。
体一面に黒い文様が刻まれたそいつは、間違えなく化け物の姿をしていた。肌がまるで溶けかけた蝋のように滑らかで不気味だった。目は穴のように暗く、底が見えない。まるで影のように真っ黒のそいつの頭からは二本の角が、そして背中からは真っ黒な翼が生えていた。
蓮にはその姿がどこかの本に出てきそうな悪魔にも見えた。
果たしてこんなものが存在していいのだろうか。
「ごめんなさいごめんなさい! サタン様、どうかお許しを!」
横にいた女は赤子を守るようにかがみ込むと、地面に這いつくばって懺悔をし始める。
そんな光景を見た蓮の身体は、硬直して動かなかった。
サタンと呼ばれたその化け物は、蓮の様子を伺うようにゆっくり、ゆっくりと近づくと、指から鋭い爪を出す。爪の一本一本がまるで針のように尖っている。
そしてそれは蓮の心臓を目掛けて襲いかかった。蓮は自分の状況を理解し、死を覚悟して目をつぶった。
──助けて。
蓮が声にならない声を叫んだその時──突然、サタンが大きな奇声をあげて後ろに後ずさる。
そしてその刹那、サタンの体から爆発するような血しぶきが飛び散る。サタンの背中からは大量の血が流れ出している。
「蓮、もう大丈夫よ」
突然、耳に入ってきたその声に、蓮の胸がドキリと鳴った。それは、今まで感じたことのないほど、強く、暖かい響きを持っていた。
蓮がずっと信じていた声、ずっと会いたかった声、ずっと心のどこかで待ち続けていた声だ。
──スミレ。
目の前に現れたスミレは、まるでその声を届けるために生まれてきたかのように輝いていた。彼女の手からは、精霊の力がみなぎり、まるで夜空に浮かぶ星のように煌めいている。それは徐々に大きく、強くなり、蓮の胸に熱を伝えてきた。
サタンがスミレに反応して、地を揺るがすような大きな奇声を上げる。耳を劈くような音が蓮の体に震えを走らせ、心臓が激しく跳ねる。だが、スミレは一歩も引かず、そのまま冷静に立っていた。
「ヴヴヴ……!」
その音に苦しむように目を閉じたスミレの口から、穏やかな声が漏れた。
「そうね。私も、自分を憎んでいた時期があるわ」
その言葉は、痛みと苦しみを含んでいたはずなのに、どこか温かさを感じさせるものだった。
スミレはわずかにまぶたを伏せ、悲しげな笑みを浮かべた。しかし次の瞬間、彼女の瞳には確かな決意が宿る。
「でもね、大丈夫、私はあなたのことが好きよ」
やわらかな声が、空気を震わせた。
その瞬間、蓮の胸が強く締めつけられる。
その一言には、言葉では言い表せないほどの優しさと、力強さが込められていた。それはまるで、今までのすべての不安を消し去るような、信じられないほど温かな言葉だった。そしてその言葉が自分に向けられたもののようにも思えた。
けれど、次の瞬間、彼女の視線を追って、現実に引き戻される。
スミレは、蓮ではなく、サタンを見つめていた。
スミレはその優しさを、言葉だけでなく、その瞳にも込めていた。蓮はその瞳を見つめた。下から見上げた彼女の顔は、どこか神聖なものを感じさせるほど美しく、まるで何かの奇跡のように思えた。その美しさに一瞬、蓮は言葉を忘れてしまった。スミレの口元が微かにほころぶ。その瞬間、蓮の胸は乱れた。彼女の笑顔に心が引き寄せられ、どうしても目が離せなくなる。
(俺、何考えてるんだろう。こんな時に、こんなにも彼女に心を奪われて)
その心の乱れを感じながらも、スミレは蓮を再び見つめ、ふっと微笑んでみせる。その笑顔は、まるで「大丈夫、私は大丈夫だから」と言っているかのように感じた。
蓮はその微笑みを見て、安堵を覚え、少しだけ心が落ち着いた気がした。
そして、スミレは一度蓮に背を向け、決意を固めたようにサタンに向かって飛び立った。
彼女の背中からは、大きな翼が広がり、まるで蝶が空を舞うように軽やかに空を飛んでいく。
蓮はその後ろ姿を見つめながら、彼女の強さに感動し、同時にその姿を見逃したくない一心で目を離すことができなかった。戦いの最中だというのに、彼女の背中が眩しく見えた。
サタンは必死に手を振り回し、スミレを捕まえようとするが、スミレはそれを避けるように空中で舞いながら、冷静に手をかざす。
蓮はその動きに圧倒され、ただ見守ることしかできなかった。
「怪我をしているのに、そんなに動いたらだめよ」
スミレは静かな声でそう言うと、その手から花びらが舞い、精霊の力を帯びた魔法がサタンに向けて放たれる。花々の中から生まれた鋭い刃のような力がサタンを切り裂き、彼の動きを止める。
サタンは苦しみながらも、何度もその力を振り絞って反撃しようとするが、スミレは冷静に次々と精霊の力を使っていく。彼女の手のひらから現れる小さな風の精霊が、サタンの動きを封じ込め、その隙に花の魔法が彼を包み込む。
「――終わりよ」
スミレが静かに言い放ったその瞬間、精霊たちの力が一斉にサタンを取り囲む。花びらがサタンの体を包み、彼の傷口を癒しながらも、反対に彼の力を吸い取るかのように、冷徹な力を発揮していく。
サタンが暴れるが、すべてが無駄だと悟ったように、やがてその力は完全に失われ、彼の体は静かに崩れ落ちていった。花びらがひらりと舞い散り、サタンの体はその優雅な自然の力に包まれたまま、音もなく消えていく。
スミレは肩を竦め、小さく息をつく。
「辛かったわね、ごめんね」
スミレは手をギュッと握り、魔力を静かに抑える。花びらが空中で静かに舞う中、その余韻が空気を包み込む。スミレは消えたサタンの痕跡を見つめ、静かに手を重ねて祈るように見送った。
蓮はその光景を目に焼きつけるように見守った。
スミレはまるで天使のように美しく、神聖な存在に見えた。彼女が空を舞い、地面に舞い降りるその姿は、蓮にとってまるで夢の中のようだった。彼女がこちらに微笑んで歩いてくると、蓮の胸がまたドキドキと高鳴った。
「蓮、怪我はない?」
スミレが優しく声をかけ、髪が風に揺れてそのまま蓮の頭を撫でた。その手のひらの温かさに、蓮は少しだけ安心した気がした。それが、まるで日常に戻ったような感覚を与えてくれる。
(やっぱり、スミレさんはすごい)
蓮はただその瞬間を感じながら、心の中で呟いた。その笑顔を見た瞬間、すべてが落ち着いた気がして、またその胸が締め付けられるような感覚に陥った。
「スミレさん」
スミレの名前を呼ぶ。スミレは首を傾げて微笑む。
蓮は彼女のこの笑顔がたまらなく好きで安心するのだ。
何も言わず黙ってスミレを見ていると、横にいた赤子を連れた母親が口を開く。
「あの、助けてくれてありがとうございます」
母親はそういって深々と頭を下げた。
「無事でよかったわ。それにしてもまさかサタンが襲ってくるなんて」
スミレがそう言った時だったーー背後に、大きな何かがいるのを感じる。その瞬間、スミレと蓮の背筋が凍る。




