復興
石造りの階段を上がる足音が、冷たい壁に反響する。
地下牢の空気は湿って重く、蓮の背には今なおザイラスの気配がこびりついていた。
会議を終え、ホクトと共にザイラスの様子を確認した直後──
蓮は無言のまま階段を上り、地上への扉を押し開けた。
射し込む光に一瞬だけ目を細めた。石造りの廊下には、ひんやりとした空気が漂っている。
それでも、この場所には“日常”の輪郭がかすかに残っている気がした。
自室までの道のりは、以前と変わらぬはずなのに、どこか遠く感じる。
すれ違う騎士や魔法使いたちが小さく会釈するが、蓮は応じずに歩き続けた。
──今、話すべき相手は一人だけだった。
扉の前に立ち、静かにノブに手をかける。
部屋の中からは気配がある。まだ、眠っているだろうか。
部屋の扉を開くと、わずかにこもった空気と共に、ほのかに花の香りが漂ってくる。
ベッドの上には、眠るスミレの姿。毛布が胸元までかけられ、穏やかな寝息を立てていた。まだ覚醒はしていない。それでも、どこか表情が前より柔らかい気がした。
蓮はそっと扉を閉じ、椅子を引いてベッドの側に腰を下ろす。
「……帰ってきたよ」
独り言のような呟きだった。スミレが目を開けるわけもないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
蓮は、彼女の髪にそっと触れる。焦げ跡は消えていないが、その奥に確かに生きている熱がある。
「無事でよかった」
言葉がまたこぼれた。何度も、何度も、確かめるように。
そのときだった。
スミレの指が、ほんのわずかに動いた。
まぶたがぴくりと揺れ、次の瞬間、ゆっくりと開かれていく。
光に慣れないように、目を細めるスミレ。焦点が合い、視界に蓮の姿が映ると、微かに瞬きを繰り返した。
「……蓮……?」
かすれた声。蓮は一瞬で、椅子を引き寄せるようにして身を乗り出した。
「ああ。俺だ」
言葉を選ぶより先に、手が彼女の指先をそっと包んだ。
スミレの瞳に、ゆっくりと涙が浮かぶ。
「……また、……会えた……」
蓮は何も言わなかった。ただ、手を離さなかった。
彼女の温もりが、そこにある。それだけで十分だった。
スミレは小さく息を吸い込むと、静かに蓮を見上げた。
「蓮……」
か細い声で蓮の名を呼ぶ彼女に、蓮はためらわずベッドの縁へ腰を寄せる。
スミレは伸ばした手で、彼の指をぎゅっと握った。
しばらく沈黙が続いた。けれどその静けさは、不安でも気まずさでもない。互いの鼓動だけが、そっと時間を満たしていた。
やがて、スミレがぽつりと呟く。
「……イリアは?」
蓮は少しだけ顔を上げ、ゆっくりと言葉を探した。
「大丈夫だよ。もうイシュタルに戻ってる。姫として……ちゃんと立ってる。スミレのことも、守ろうとしてた」
スミレの瞳に、わずかに涙が滲む。けれどそれは悲しみではなく、安堵の色を帯びていた。
「……そう。……よかった」
「ここはネイトエール。もう安全だよ。スミレがいていい場所に戻ってきたんだ」
スミレは目を閉じ、握った手に力を込めた。まるで、その言葉を全身で受け止めるように。
「ありがとう……蓮」
その一言は、彼女が長く押し込めてきたすべての感情の、結晶のようだった。
蓮は、そっと微笑みを浮かべた。
胸の奥に、小さな灯がともるような感覚。ようやく、ここまで来たのだと思えた。
しばらく、言葉のない静寂が流れる。
窓の外から聞こえる鳥のさえずりや、遠くから響く馬車の音。
そんな何気ない音までもが、どこか懐かしく、愛おしく感じられた。
──この時間が、少しでも長く続けばいい。
けれど、立ち止まってはいられない。
まだやるべきことがある。それは、彼女とまた前に進むために。
蓮は静かに立ち上がり、軽く背伸びをする。
差し込む光が少しずつ傾き始め、窓の外では人々のざわめきが少しずつ日常を取り戻していた。
「少し復興作業の手伝いに行ってくるよ」
穏やかにそう告げて、部屋の扉に向かおうとしたそのとき。
不意に、手首に小さな力がかかった。
振り返ると、スミレがシーツの上から伸ばした手で、蓮の手を掴んでいた。
その瞳はまっすぐで、けれどどこか、不安げでもある。
「……もう少しだけ、ここにいて」
か細い声だった。
頼ることに不器用なスミレが、ためらいもせずにそう言ったことに、蓮の胸が少しだけ熱くなる。
「……うん。いるよ」
蓮は腰を落とし、もう一度ベッドの傍に座った。
手はそのまま、スミレの指を優しく包み込むように握り返す。
静かな時間が流れる。
言葉は交わさなくとも、それだけで確かに心が通っていた。
蓮の手を握ったまま、スミレはしばらく黙っていた。
目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えるように、ひとつ、ふたつ──。
やがて、そっと瞼を上げて、蓮を見つめた。
「……ねえ、蓮」
「ん?」
「わたしも、行くわ」
蓮は少し驚いたように目を見開く。
スミレの声は静かで、けれどはっきりと意志が宿っていた。
「記憶を失った時から……ずっと思ってたの。どこかに閉じ込められてる気がしてた。けれど実際は──自分で、自分を閉じ込めていたの」
言葉を選びながら、それでも迷いは見せずに彼女は続けた。
「でも、あの日……イリアの前で、ちゃんと話せた。あなたと、またこうして会えた。だから……今度は、前に出たいの。わたしの手で、ちゃんと」
蓮はその言葉を受け止めながら、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった。スミレがそうしたいなら……一緒に行こう。だけど、無理はさせない」
スミレの手に、ほんの少しだけ力がこもる。
「ありがとう、蓮」
それは決意の表情だった。
悲しみも罪も、全部背負った上で、それでも進もうとする人の顔だった。
蓮は、もう一度スミレの顔をじっと見つめた。
──そして、少しの沈黙が訪れる。
スミレはそのまま、ふと視線を逸らすようにして、小さく呟いた。
「それにしても……蓮のお父さんは……ホクト様だったのね」
蓮は少し驚いたように目を見開き、それから静かにうなずいた。
「ああ。……やっと、ちゃんと“父さん”って呼べたよ」
照れくさそうに笑う蓮の声に、スミレも小さく笑みを浮かべる。
「似てると思ったの。厳しいけど、すごく……あたたかいところ」
蓮は頷きながら、彼女の手を再び包み込む。
「たぶん……あの人も、スミレのこと守りたかったんだと思う。ちゃんとは言わないけどさ」
スミレは何も言わず、小さく微笑んだ。
この小さな手が、あの災厄を起こしたのだと考えれば、怒りも恐れも、きっと誰かの中にはまだある。
けれど──そんな過去を抱えてなお、スミレは「進みたい」と言った。
その勇気に、何よりも先に胸が震えた。
窓の外に目を向ける。
春の気配を宿した風がカーテンを揺らし、まだ遠い空から、どこか鐘の音が響いていた。
***
外に出ると、空は穏やかに晴れていた。
陽の光が差し込む城の廊下を抜け、ふたりはゆっくりと街の中心部へ向かっていく。
そこは、かつて子どもたちが遊んでいた広場だった。
今は焼け焦げた地面と、崩れかけた井戸が残るだけ。それでも、騎士や魔法使いたちが復旧に取り組む姿があった。焦げた瓦礫をどかし、魔力を注ぎ、少しずつ景色を“元に戻そう”とする意志が積み重ねられている。
スミレが足を止めた。
「……すごい」
その瞳には、焼け跡よりも、人々の手が織りなす“再生”の力が映っていた。
「みんな必死だよ。前を向いてる」
蓮の言葉に、スミレはそっと微笑む。
そのとき──
「あっ! 蓮!」
走ってきたのは美穂だった。両手に古い地図と修復用の魔法具を抱えている。
「スミレまで……体調はもう大丈夫なの?」
「ええ。少しでも、手伝いたくて」
「……そう。だったら、井戸のあたりをお願いしてもいい? 地盤が不安定で、水脈のずれもあるみたい」
「任せて」
スミレが頷き、蓮とともに広場の中心へ歩いていく。
周囲にはリリスの姿も見えた。水系魔法で埃を抑えながら壁の修復に集中している。タオはその反対側で、木の梁を担ぎながら、仲間たちと声を掛け合っていた。
蓮は肩を回し、瓦礫に向かって歩み出す。崩れかけた岩を手でどけ、焦げた木材を持ち上げて運ぶ。その動きの奥には、剣を握る時とはまた違う“力”が宿っていた。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
数人の子どもたちが、じっとある一点を見つめていた。
その先──スミレが、焼けた広場のただ中に膝をついている。
スミレは地に手を当て、そっと魔力を流した。
無理に咲かせるのではない。ただ、眠っていた“命”に、目覚める力をそっと与えるように──。
風が吹いた。
焦げた大地に、一輪の花が咲いた。
やがて、それに続くように、ふたつ、みっつ──。
青や白、ピンクの花々が、灰の中から顔を出す。
「……お姉ちゃん……すごい……」
ぽつりと漏れた幼い声が、広場に響いた。
スミレは目を開き、優しく微笑む。
「……大丈夫よ。必ず、元に戻るから」
その言葉に、子どもたちの目が輝きを取り戻す。
風に乗って、花の匂いが広場に漂い始めた。
蓮はその様子を、少し離れた場所から静かに見つめていた。
その背に、小さな再生の光が確かに灯っていた。
***
夜風が肌を撫でる。
城の裏手、焼けた廃墟の近くで、蓮はぽつりと座っていた。
昼間、花が咲いたあの広場も、今は静寂に包まれている。
風が草を揺らす音だけが、鼓膜を通り過ぎる。
ふと、背後から足音がした。軽く、ためらうような。
振り返れば、スミレがいた。白い外衣を羽織り、月明かりの中に浮かんでいる。
「……こんなところにいたのね」
「静かだからな。いろんな音がよく聞こえる」
「そう。確かに、落ち着くわね」
スミレはそっと笑って、隣に腰を下ろした。しばらく沈黙が続く。
けれど不思議と、その静けさは心地よかった。
やがて、スミレが口を開いた。
「……今日、たくさんの人に会ったわ。みんな、優しかった」
スミレが柔らかい表情が夜風になびく。
「スミレが咲かせた花、すごく綺麗だった。子どもたちも喜んでたよ」
「……あんなふうに、誰かの役に立てるなんて、思ってなかったわ」
スミレは膝の上で手を組み、指先を見つめる。
彼女の声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようでもあった。
「でも……怖いの。いつまた、あのときみたいに、力が暴れてしまうか分からない。
……わたしの翼は、“奇跡”じゃなくて、“災厄”だったのかもしれない」
蓮は、そっと顔を向けた。スミレの頬に月光が柔らかく差し、瞳の揺らぎを映している。
「……だから、返そうと思うの。わたしの翼」
「……え?」
言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
スミレは、はっきりと続けた。
「……イシュタルに戻って、翼を返す。精霊の証も、肩書きも……ぜんぶ」
「それって──」
「儀式があるの。祭壇の前で、自分の意思で返上するの。……イリアに、きちんと渡すつもり」
蓮の胸が、強く締めつけられる。
ようやく戻ってきたスミレが、また遠くへ行ってしまいそうな気がした。
「でも、それは……もう終わったことだろ? スミレは今、自分の力で人を救おうとしてる。今日だって……」
スミレは、蓮の言葉にそっと目を伏せたまま、少しだけ笑った。
「……ありがとう。そう言ってくれるの、嬉しい」
それから、ふと空を仰ぐように目を細めた。
「ねえ、蓮……記憶を失った頃のこと、話してもいい?」
蓮は黙って頷いた。
「あの時……名前さえ思い出せなかったの。何者かも、どこから来たのかも分からなくて。何もかもが真っ白で……ただ、ひとりだった」
遠い記憶を手繰るように、スミレは視線を落とす。
「でもね。ある日、小さな丘の上で、隅っこに咲いた花を見つけたの。紫色の、小さくて優しい花。どうしてか分からないけど、その名前だけは……すぐに思い出せたの」
小さく息を吐いて、微笑んだ。
「“スミレ”。」
「それを見た瞬間、ああ、これがわたしの名前だって……そう思えた。だから、自分でそう決めたの。“スミレ”として、生きてみようって」
蓮は、静かに彼女の横顔を見つめていた。
「本当の名前を思い出すのが怖かったのかもしれない。でも、“スミレ”になったことで、ようやく……前に進める気がしたのよ」
その言葉には、過去の苦しみと、今ここにいる確かな意志が込められていた。
「逃げてたの。ずっと」
そう続けた声は、少しだけかすれていた。
「記憶を失っていたのも……都合がよかったのかもしれない。でも、もう思い出したの。あの光景も、あの熱も。……忘れたふり、できない」
スミレは、そっと顔を伏せた。
「“スミレ”って名を選んだのは、やり直したいって願いだった。でも、名前をもらって歩き出したわたしが、それでも目を背けたままじゃ、恥ずかしいもの」
蓮は、何も言えなかった。
強く止めたい気持ちと、彼女の覚悟を壊したくない気持ちがせめぎ合う。
スミレは続ける。
「翼は、お母様がくれた最後の贈り物だったわ。でも、今の私には……もう、要らないと思ったの」
蓮が、ようやく問いかける。
「……それでも、スミレはまだ……人を救うのをやめない?」
スミレは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、震えも涙もなく、ただまっすぐな意志が宿っていた。
「ええ。翼がなくても、わたしにはまだ、できることがあるから」
その声は、小さくても揺るがない。
蓮は胸の奥で、何かが鳴るのを感じた。
(……スミレは、すごいな)
蓮は、ほんの少しだけ笑った。
「スミレは……もう、十分すぎるほど、強いよ」
「……蓮、ありがとう」
ふと、空を見上げると、雲の切れ間から星がこぼれていた。
──まだ“返す”と決まったわけじゃない。
それでも、彼女の誓いは確かにここにあった。
物語は、次の夜明けへ向かって進み始めていた。




