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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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復興

 石造りの階段を上がる足音が、冷たい壁に反響する。

 地下牢の空気は湿って重く、蓮の背には今なおザイラスの気配がこびりついていた。


 会議を終え、ホクトと共にザイラスの様子を確認した直後──

 蓮は無言のまま階段を上り、地上への扉を押し開けた。


 射し込む光に一瞬だけ目を細めた。石造りの廊下には、ひんやりとした空気が漂っている。

 それでも、この場所には“日常”の輪郭がかすかに残っている気がした。


 自室までの道のりは、以前と変わらぬはずなのに、どこか遠く感じる。

 すれ違う騎士や魔法使いたちが小さく会釈するが、蓮は応じずに歩き続けた。

 ──今、話すべき相手は一人だけだった。


 扉の前に立ち、静かにノブに手をかける。

 部屋の中からは気配がある。まだ、眠っているだろうか。


 部屋の扉を開くと、わずかにこもった空気と共に、ほのかに花の香りが漂ってくる。

 ベッドの上には、眠るスミレの姿。毛布が胸元までかけられ、穏やかな寝息を立てていた。まだ覚醒はしていない。それでも、どこか表情が前より柔らかい気がした。


 蓮はそっと扉を閉じ、椅子を引いてベッドの側に腰を下ろす。


「……帰ってきたよ」


 独り言のような呟きだった。スミレが目を開けるわけもないと分かっていても、言わずにはいられなかった。

 蓮は、彼女の髪にそっと触れる。焦げ跡は消えていないが、その奥に確かに生きている熱がある。


「無事でよかった」


 言葉がまたこぼれた。何度も、何度も、確かめるように。


 そのときだった。


 スミレの指が、ほんのわずかに動いた。

 まぶたがぴくりと揺れ、次の瞬間、ゆっくりと開かれていく。


 光に慣れないように、目を細めるスミレ。焦点が合い、視界に蓮の姿が映ると、微かに瞬きを繰り返した。


「……蓮……?」


 かすれた声。蓮は一瞬で、椅子を引き寄せるようにして身を乗り出した。


「ああ。俺だ」


 言葉を選ぶより先に、手が彼女の指先をそっと包んだ。

 スミレの瞳に、ゆっくりと涙が浮かぶ。


「……また、……会えた……」


 蓮は何も言わなかった。ただ、手を離さなかった。

 彼女の温もりが、そこにある。それだけで十分だった。


 スミレは小さく息を吸い込むと、静かに蓮を見上げた。


「蓮……」


か細い声で蓮の名を呼ぶ彼女に、蓮はためらわずベッドの縁へ腰を寄せる。

スミレは伸ばした手で、彼の指をぎゅっと握った。

 しばらく沈黙が続いた。けれどその静けさは、不安でも気まずさでもない。互いの鼓動だけが、そっと時間を満たしていた。


 やがて、スミレがぽつりと呟く。


「……イリアは?」


 蓮は少しだけ顔を上げ、ゆっくりと言葉を探した。


「大丈夫だよ。もうイシュタルに戻ってる。姫として……ちゃんと立ってる。スミレのことも、守ろうとしてた」


 スミレの瞳に、わずかに涙が滲む。けれどそれは悲しみではなく、安堵の色を帯びていた。


「……そう。……よかった」


「ここはネイトエール。もう安全だよ。スミレがいていい場所に戻ってきたんだ」


 スミレは目を閉じ、握った手に力を込めた。まるで、その言葉を全身で受け止めるように。


「ありがとう……蓮」


 その一言は、彼女が長く押し込めてきたすべての感情の、結晶のようだった。

  蓮は、そっと微笑みを浮かべた。

 胸の奥に、小さな灯がともるような感覚。ようやく、ここまで来たのだと思えた。


 しばらく、言葉のない静寂が流れる。

 窓の外から聞こえる鳥のさえずりや、遠くから響く馬車の音。

 そんな何気ない音までもが、どこか懐かしく、愛おしく感じられた。


 ──この時間が、少しでも長く続けばいい。


 けれど、立ち止まってはいられない。

 まだやるべきことがある。それは、彼女とまた前に進むために。


 蓮は静かに立ち上がり、軽く背伸びをする。

 差し込む光が少しずつ傾き始め、窓の外では人々のざわめきが少しずつ日常を取り戻していた。


「少し復興作業の手伝いに行ってくるよ」


 穏やかにそう告げて、部屋の扉に向かおうとしたそのとき。

 不意に、手首に小さな力がかかった。

 振り返ると、スミレがシーツの上から伸ばした手で、蓮の手を掴んでいた。

 その瞳はまっすぐで、けれどどこか、不安げでもある。


「……もう少しだけ、ここにいて」


 か細い声だった。

 頼ることに不器用なスミレが、ためらいもせずにそう言ったことに、蓮の胸が少しだけ熱くなる。


「……うん。いるよ」


 蓮は腰を落とし、もう一度ベッドの傍に座った。

 手はそのまま、スミレの指を優しく包み込むように握り返す。


 静かな時間が流れる。

 言葉は交わさなくとも、それだけで確かに心が通っていた。


 蓮の手を握ったまま、スミレはしばらく黙っていた。

 目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えるように、ひとつ、ふたつ──。


 やがて、そっと瞼を上げて、蓮を見つめた。


「……ねえ、蓮」


「ん?」


「わたしも、行くわ」


 蓮は少し驚いたように目を見開く。

 スミレの声は静かで、けれどはっきりと意志が宿っていた。


「記憶を失った時から……ずっと思ってたの。どこかに閉じ込められてる気がしてた。けれど実際は──自分で、自分を閉じ込めていたの」


 言葉を選びながら、それでも迷いは見せずに彼女は続けた。


「でも、あの日……イリアの前で、ちゃんと話せた。あなたと、またこうして会えた。だから……今度は、前に出たいの。わたしの手で、ちゃんと」


 蓮はその言葉を受け止めながら、ゆっくりとうなずいた。


「……分かった。スミレがそうしたいなら……一緒に行こう。だけど、無理はさせない」


 スミレの手に、ほんの少しだけ力がこもる。


「ありがとう、蓮」


 それは決意の表情だった。

 悲しみも罪も、全部背負った上で、それでも進もうとする人の顔だった。

 蓮は、もう一度スミレの顔をじっと見つめた。


 ──そして、少しの沈黙が訪れる。


 スミレはそのまま、ふと視線を逸らすようにして、小さく呟いた。


「それにしても……蓮のお父さんは……ホクト様だったのね」


 蓮は少し驚いたように目を見開き、それから静かにうなずいた。


「ああ。……やっと、ちゃんと“父さん”って呼べたよ」


 照れくさそうに笑う蓮の声に、スミレも小さく笑みを浮かべる。


「似てると思ったの。厳しいけど、すごく……あたたかいところ」


 蓮は頷きながら、彼女の手を再び包み込む。


「たぶん……あの人も、スミレのこと守りたかったんだと思う。ちゃんとは言わないけどさ」


スミレは何も言わず、小さく微笑んだ。

 この小さな手が、あの災厄を起こしたのだと考えれば、怒りも恐れも、きっと誰かの中にはまだある。

 けれど──そんな過去を抱えてなお、スミレは「進みたい」と言った。

 その勇気に、何よりも先に胸が震えた。


 窓の外に目を向ける。

 春の気配を宿した風がカーテンを揺らし、まだ遠い空から、どこか鐘の音が響いていた。

 

 ***


 外に出ると、空は穏やかに晴れていた。

 陽の光が差し込む城の廊下を抜け、ふたりはゆっくりと街の中心部へ向かっていく。


 そこは、かつて子どもたちが遊んでいた広場だった。

 今は焼け焦げた地面と、崩れかけた井戸が残るだけ。それでも、騎士や魔法使いたちが復旧に取り組む姿があった。焦げた瓦礫をどかし、魔力を注ぎ、少しずつ景色を“元に戻そう”とする意志が積み重ねられている。


 スミレが足を止めた。


「……すごい」


 その瞳には、焼け跡よりも、人々の手が織りなす“再生”の力が映っていた。


「みんな必死だよ。前を向いてる」


 蓮の言葉に、スミレはそっと微笑む。


 そのとき──


「あっ! 蓮!」


 走ってきたのは美穂だった。両手に古い地図と修復用の魔法具を抱えている。


「スミレまで……体調はもう大丈夫なの?」

「ええ。少しでも、手伝いたくて」

「……そう。だったら、井戸のあたりをお願いしてもいい? 地盤が不安定で、水脈のずれもあるみたい」

「任せて」


 スミレが頷き、蓮とともに広場の中心へ歩いていく。

 周囲にはリリスの姿も見えた。水系魔法で埃を抑えながら壁の修復に集中している。タオはその反対側で、木の梁を担ぎながら、仲間たちと声を掛け合っていた。


 蓮は肩を回し、瓦礫に向かって歩み出す。崩れかけた岩を手でどけ、焦げた木材を持ち上げて運ぶ。その動きの奥には、剣を握る時とはまた違う“力”が宿っていた。


 ふと、視線を感じて顔を上げる。

 数人の子どもたちが、じっとある一点を見つめていた。

 その先──スミレが、焼けた広場のただ中に膝をついている。


 スミレは地に手を当て、そっと魔力を流した。

 無理に咲かせるのではない。ただ、眠っていた“命”に、目覚める力をそっと与えるように──。


 風が吹いた。


 焦げた大地に、一輪の花が咲いた。

 やがて、それに続くように、ふたつ、みっつ──。

 青や白、ピンクの花々が、灰の中から顔を出す。


「……お姉ちゃん……すごい……」


 ぽつりと漏れた幼い声が、広場に響いた。

 スミレは目を開き、優しく微笑む。


「……大丈夫よ。必ず、元に戻るから」


 その言葉に、子どもたちの目が輝きを取り戻す。

 風に乗って、花の匂いが広場に漂い始めた。


 蓮はその様子を、少し離れた場所から静かに見つめていた。

 その背に、小さな再生の光が確かに灯っていた。


 ***


 夜風が肌を撫でる。

 城の裏手、焼けた廃墟の近くで、蓮はぽつりと座っていた。

 昼間、花が咲いたあの広場も、今は静寂に包まれている。


 風が草を揺らす音だけが、鼓膜を通り過ぎる。

 ふと、背後から足音がした。軽く、ためらうような。

 振り返れば、スミレがいた。白い外衣を羽織り、月明かりの中に浮かんでいる。


「……こんなところにいたのね」

「静かだからな。いろんな音がよく聞こえる」

「そう。確かに、落ち着くわね」


 スミレはそっと笑って、隣に腰を下ろした。しばらく沈黙が続く。

 けれど不思議と、その静けさは心地よかった。

 やがて、スミレが口を開いた。


「……今日、たくさんの人に会ったわ。みんな、優しかった」


 スミレが柔らかい表情が夜風になびく。


「スミレが咲かせた花、すごく綺麗だった。子どもたちも喜んでたよ」

「……あんなふうに、誰かの役に立てるなんて、思ってなかったわ」


 スミレは膝の上で手を組み、指先を見つめる。

 彼女の声は穏やかだったが、どこか遠くを見ているようでもあった。


「でも……怖いの。いつまた、あのときみたいに、力が暴れてしまうか分からない。

 ……わたしの翼は、“奇跡”じゃなくて、“災厄”だったのかもしれない」


 蓮は、そっと顔を向けた。スミレの頬に月光が柔らかく差し、瞳の揺らぎを映している。


「……だから、返そうと思うの。わたしの翼」

「……え?」


 言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。

 スミレは、はっきりと続けた。


「……イシュタルに戻って、翼を返す。精霊の証も、肩書きも……ぜんぶ」


「それって──」


「儀式があるの。祭壇の前で、自分の意思で返上するの。……イリアに、きちんと渡すつもり」


 蓮の胸が、強く締めつけられる。

 ようやく戻ってきたスミレが、また遠くへ行ってしまいそうな気がした。


「でも、それは……もう終わったことだろ? スミレは今、自分の力で人を救おうとしてる。今日だって……」


スミレは、蓮の言葉にそっと目を伏せたまま、少しだけ笑った。


「……ありがとう。そう言ってくれるの、嬉しい」


それから、ふと空を仰ぐように目を細めた。


「ねえ、蓮……記憶を失った頃のこと、話してもいい?」


蓮は黙って頷いた。


「あの時……名前さえ思い出せなかったの。何者かも、どこから来たのかも分からなくて。何もかもが真っ白で……ただ、ひとりだった」


 遠い記憶を手繰るように、スミレは視線を落とす。


「でもね。ある日、小さな丘の上で、隅っこに咲いた花を見つけたの。紫色の、小さくて優しい花。どうしてか分からないけど、その名前だけは……すぐに思い出せたの」


 小さく息を吐いて、微笑んだ。


「“スミレ”。」


「それを見た瞬間、ああ、これがわたしの名前だって……そう思えた。だから、自分でそう決めたの。“スミレ”として、生きてみようって」


蓮は、静かに彼女の横顔を見つめていた。


「本当の名前を思い出すのが怖かったのかもしれない。でも、“スミレ”になったことで、ようやく……前に進める気がしたのよ」


その言葉には、過去の苦しみと、今ここにいる確かな意志が込められていた。


「逃げてたの。ずっと」


そう続けた声は、少しだけかすれていた。


「記憶を失っていたのも……都合がよかったのかもしれない。でも、もう思い出したの。あの光景も、あの熱も。……忘れたふり、できない」


スミレは、そっと顔を伏せた。


「“スミレ”って名を選んだのは、やり直したいって願いだった。でも、名前をもらって歩き出したわたしが、それでも目を背けたままじゃ、恥ずかしいもの」


蓮は、何も言えなかった。

強く止めたい気持ちと、彼女の覚悟を壊したくない気持ちがせめぎ合う。


スミレは続ける。


「翼は、お母様がくれた最後の贈り物だったわ。でも、今の私には……もう、要らないと思ったの」


 蓮が、ようやく問いかける。


「……それでも、スミレはまだ……人を救うのをやめない?」


 スミレは、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、震えも涙もなく、ただまっすぐな意志が宿っていた。


「ええ。翼がなくても、わたしにはまだ、できることがあるから」


 その声は、小さくても揺るがない。

 蓮は胸の奥で、何かが鳴るのを感じた。


(……スミレは、すごいな)


 蓮は、ほんの少しだけ笑った。


「スミレは……もう、十分すぎるほど、強いよ」

「……蓮、ありがとう」


 ふと、空を見上げると、雲の切れ間から星がこぼれていた。


 ──まだ“返す”と決まったわけじゃない。

 それでも、彼女の誓いは確かにここにあった。


 物語は、次の夜明けへ向かって進み始めていた。

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― 新着の感想 ―
タオが最高にかっこよくて泣いたし、 スミレの全部を受け止める蓮が強くて優しくて、 2人の関係がもう……尊さ限界突破してて…… そしてそして、ついに……あのことについて言及されて 鳥肌ぶわわわって立って…
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