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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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帰還


 ネイトエールの北端に足を踏み入れた瞬間、鼻をついたのは、焦げた木材の残り香だった。けれどその匂いの奥に、土と汗、そして人の声が重なっている──再建のために動く者たちの“生”の匂いだった。崩れた建物の残骸の間を、多くの人が立ち働いている。騎士団の旗のもとで動く者たち、民に寄り添う魔法使い。そこには、確かな“再生”の力があった。


「……思ったより早いな。もう、ここまで戻ったか」


 ホクトが静かに言う。


 蓮は、担いでいたスミレの重みを感じながら、人々の様子を見つめた。彼らの視線がこちらへ向き、すぐに歓声が上がる。


「団長だ! ホクト団長が戻った!」


「騎士団長が戻ってきたぞ!」


 その声を聞いて、真っ先に駆けてくる姿があった。


「蓮!」


 灰をかぶった服のまま、美穂が駆けてきた。手には杖、顔には土と汗の跡。だがその笑顔は晴れやかだった。


「……帰ってきたんだね!」


「美穂……お前、寝てないんじゃ……」


「寝てる暇なんかないでしょ? こっちは火事の後始末で大忙し!」


 そこに、別の影が現れる。銀灰色の髪に、鋭い眼光。


「……遅ぇよ、蓮」


「タオ……」


「ったく。面倒なことになりすぎだろ。とにかく、生きて戻ってきてよかった」


「……タオもよかった」


 蓮が返すと、タオはふっと笑う。その後ろには、リリスも姿を見せていた。静かに近づき、スミレを背負う蓮に目を留める。


「……シェリーは大丈夫?」


「ああ。少し眠ってるだけだ」


「そっか。……無事でよかった」


 リリスの声に、蓮はそっとうなずいた。


 リリスの隣で、タオがふっと顎をしゃくる。


「そういえば……ミネルのやつ、まだ戻ってねぇぞ」


 その言葉に、蓮はわずかに眉を寄せた。


「……ミネルが?」


 リリスが頷く。

 蓮の脳裏に、あの真っ直ぐな視線と、どこか影を帯びた微笑みが浮かぶ。ミネルなら、無茶しかねない。


「サタンとの戦闘後、あたしたちは先にネイトエールに戻ったの。美穂と一緒に捜索や封鎖区域の管理をしてたんだけど……」


「まだ……戻ってないのか」


 ホクトが短く呟いたが、表情を曇らせることはなかった。ただ、目に一瞬、警戒の色が浮かんだ。

 その場の空気が少し張り詰めたところで、美穂が口を開く。


「……とりあえず、報告するね。今は主に復旧作業中。大火のせいで城の多くが焼けたけど、魔法で応急処置しながら避難所を設けてる。けが人の治療はほとんど終わった。でも、心の方は……まだ立ち直れていない人が多い」


 蓮は黙って聞いていた。背中のスミレが小さくうめく。蓮はそっとその体を支え直す。

 その声は、小動物の寝息のようにか細かったが、確かに生きていた。蓮はそれを確認するように腕を回し直し、胸の奥にあたたかい痛みを感じる。


「……スミレを休ませてやりたい。俺の部屋、まだ残ってるか?」


「うん。ちゃんと残ってるよ。火災の被害からは外れてたから」


「ありがとう。少し寝かせてくる」


「……案内する」


 美穂は歩き出し、蓮とスミレ、そしてザイラスを浮かせたままのホクトがその後に続いた。


 ***


 美穂に案内され、蓮は城の奥の自室へと入った。

 扉を閉めると、静寂が戻る。ほんの少し焦げたような匂いが残っているが、室内は無事だった。

 ベッドの上にスミレをそっと寝かせる。乱れた髪を指先で整え、汗ばんだ額にそっと手を当てる。

 スミレは微かに眉を動かしたが、目は覚まさなかった。


 蓮はそのまま、彼女の傍にしゃがみ込んだ。

 触れてしまえば、きっと抱きしめたくなる。

 でも、それは今の彼女には重すぎる。そう思い、手を引いた。


「……ごめん」


 心の底から、そう呟いた。

 助けられなかった。

 気づけなかった。

 もっと早く、もっと強く──


 スミレの頬に落ちた自分の手の影を見て、蓮はゆっくりと立ち上がった。


 彼女を守ると決めたあの日から、何も変わっていないはずだった。

 けれど、現実は彼女にばかり傷を負わせていた。


「……今度こそ」


 呟いた声は、小さく、だが確かな熱を持っていた。

 彼女の痛みを、自分の痛みに変えていく。

 その覚悟を、ようやく胸の奥でつかめた気がした。


 蓮は一度だけスミレに視線を戻し、扉へと向かった。

 その背には、迷いではなく、“進む意思”が宿っていた。


 ***


 ネイトエール城の一室。

 大広間の一角にある、重厚な扉の奥──騎士団会議室には、既に何人かの幹部が集まっていた。

 窓から差し込む光は午後の色をしているが、その場に漂う空気は、どこか冷えていた。


「ザイラスの拘束は、結界によって継続中。牢に容れたことで、外部との遮断も問題ないだろう」


 ホクトが椅子に背を預けながら報告する。

 会議机の向かい、蓮は静かに座っていた。視線は真っ直ぐ前を見ている。


「問題はその後だな」

 低く、タオが口を開く。

「あいつをどうするか。あのまま飼っとくつもりかよ?」


「裁きにかける。だが、それにはまず“何者だったのか”をはっきりさせる必要がある」


 ホクトの言葉に、美穂が小さく頷いた。


「ザイラスは、“イシュタル災厄”に関与していた可能性が高い。……けど、裏に誰かがいたとしたら?」


 机上の地図に、リリスが手を伸ばす。

 指先が“イシュタル”の名をなぞる。


「……シェリーを連れ去った理由も、イシュタルと無関係じゃない。彼女が……“犯人”である可能性まで考えられてたってことになる」


 蓮の手がわずかに握られた。


「だが、今それを問いただすことはしない」


 ホクトがきっぱりと断言する。


「彼女は今、“戦いの外”にいる。ここへ戻ってきたそれだけで……十分な答えを持ち帰ってくれた」


 沈黙が広がる中、リリスが言葉を継いだ。


「……ただ、イシュタルとの関係は、早急に整理しないと。向こうがどう動くか、まだ分からないし」


「むしろ、“どう話をつけるか”だがーーイリア姫なら大丈夫だろう」


 タオが顎をさすりながら呟いた。


「このまま敵対ってのは、ごめんだぜ」


 蓮は、スミレの寝顔を思い出していた。


(……あの姉妹が、再び正面から向き合う時が来る)


 そして、ひとつの気配が欠けていることが、会議室に妙な穴をあけていた。


「ミネルは……まだ、戻らないのか」


 ぽつりと漏らした蓮の声に、誰も即答しなかった。


「一部で、“別行動”をとっているという報告はある。ただ、現在位置は特定できていない」


 ホクトが低く答える。


「だが、ミネルは賢い。何か目的があっての行動だと信じている」


 美穂がこめかみに触れ、少しだけ困ったような顔をした。


「ほんとに自由人だよね……あの人」


 けれど、誰も笑わなかった。

 不安と期待が交錯するまま、議題はひとつ、またひとつと進められていった。


 会議が終わり、幹部たちが静かに席を立つ。


 蓮は最後までその場に残り、深く椅子の背に体を預けた。手の中には、小さく折り畳まれた紙があった。会議の終盤に、美穂がそっと差し出してきたものだ。


《……ザイラス、意識に変化あり。微細な魔力の流動を確認》


 蓮は立ち上がり、ホクトに目を向ける。


「ザイラスの様子を……見に行く」


 ホクトも頷いた。


「俺も同行しよう。あいつの状態は、俺が封印した分……俺の責任下にあるからな」


 2人は重厚な扉を押し開き、石畳の廊下を歩き出す。


 ザイラスが収容されているのは、城の地下区画。元は古代の祈祷室だったという石造りの小部屋で、封印術や結界が張りやすい構造となっている。


 その扉の前に立つと、見張りの騎士が一礼した。


「異常は……いえ、少し前に、球体内部で“うねり”が確認されました。意識はまだ戻っていませんが、確実に何かが……」


「開けてくれ」


 ホクトの声に、扉が静かに開かれた。


 地下室の中央には、淡く青白い光を放つ球体が浮かんでいる。その中──ザイラスは、今も石像のように静止していた。だがその輪郭が、わずかに“揺れて”いた。


「……魔力が、逆流している?」


 蓮が低く呟く。

 ホクトが結界に手をかざし、確認する。球体の中、ザイラスの胸元で微かに光が脈打っているのが見えた。


「目覚めの兆候……あるいは、別の力の干渉かもしれない」


「まさか……ラミアの?」


「可能性はある。だが、何かを伝えようとしているのか、それともただの反応なのか……判断はまだ早い」


 二人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 静寂の中──ザイラスの閉じられた瞳が、ほんのわずかに、震えた。


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