帰還
ネイトエールの北端に足を踏み入れた瞬間、鼻をついたのは、焦げた木材の残り香だった。けれどその匂いの奥に、土と汗、そして人の声が重なっている──再建のために動く者たちの“生”の匂いだった。崩れた建物の残骸の間を、多くの人が立ち働いている。騎士団の旗のもとで動く者たち、民に寄り添う魔法使い。そこには、確かな“再生”の力があった。
「……思ったより早いな。もう、ここまで戻ったか」
ホクトが静かに言う。
蓮は、担いでいたスミレの重みを感じながら、人々の様子を見つめた。彼らの視線がこちらへ向き、すぐに歓声が上がる。
「団長だ! ホクト団長が戻った!」
「騎士団長が戻ってきたぞ!」
その声を聞いて、真っ先に駆けてくる姿があった。
「蓮!」
灰をかぶった服のまま、美穂が駆けてきた。手には杖、顔には土と汗の跡。だがその笑顔は晴れやかだった。
「……帰ってきたんだね!」
「美穂……お前、寝てないんじゃ……」
「寝てる暇なんかないでしょ? こっちは火事の後始末で大忙し!」
そこに、別の影が現れる。銀灰色の髪に、鋭い眼光。
「……遅ぇよ、蓮」
「タオ……」
「ったく。面倒なことになりすぎだろ。とにかく、生きて戻ってきてよかった」
「……タオもよかった」
蓮が返すと、タオはふっと笑う。その後ろには、リリスも姿を見せていた。静かに近づき、スミレを背負う蓮に目を留める。
「……シェリーは大丈夫?」
「ああ。少し眠ってるだけだ」
「そっか。……無事でよかった」
リリスの声に、蓮はそっとうなずいた。
リリスの隣で、タオがふっと顎をしゃくる。
「そういえば……ミネルのやつ、まだ戻ってねぇぞ」
その言葉に、蓮はわずかに眉を寄せた。
「……ミネルが?」
リリスが頷く。
蓮の脳裏に、あの真っ直ぐな視線と、どこか影を帯びた微笑みが浮かぶ。ミネルなら、無茶しかねない。
「サタンとの戦闘後、あたしたちは先にネイトエールに戻ったの。美穂と一緒に捜索や封鎖区域の管理をしてたんだけど……」
「まだ……戻ってないのか」
ホクトが短く呟いたが、表情を曇らせることはなかった。ただ、目に一瞬、警戒の色が浮かんだ。
その場の空気が少し張り詰めたところで、美穂が口を開く。
「……とりあえず、報告するね。今は主に復旧作業中。大火のせいで城の多くが焼けたけど、魔法で応急処置しながら避難所を設けてる。けが人の治療はほとんど終わった。でも、心の方は……まだ立ち直れていない人が多い」
蓮は黙って聞いていた。背中のスミレが小さくうめく。蓮はそっとその体を支え直す。
その声は、小動物の寝息のようにか細かったが、確かに生きていた。蓮はそれを確認するように腕を回し直し、胸の奥にあたたかい痛みを感じる。
「……スミレを休ませてやりたい。俺の部屋、まだ残ってるか?」
「うん。ちゃんと残ってるよ。火災の被害からは外れてたから」
「ありがとう。少し寝かせてくる」
「……案内する」
美穂は歩き出し、蓮とスミレ、そしてザイラスを浮かせたままのホクトがその後に続いた。
***
美穂に案内され、蓮は城の奥の自室へと入った。
扉を閉めると、静寂が戻る。ほんの少し焦げたような匂いが残っているが、室内は無事だった。
ベッドの上にスミレをそっと寝かせる。乱れた髪を指先で整え、汗ばんだ額にそっと手を当てる。
スミレは微かに眉を動かしたが、目は覚まさなかった。
蓮はそのまま、彼女の傍にしゃがみ込んだ。
触れてしまえば、きっと抱きしめたくなる。
でも、それは今の彼女には重すぎる。そう思い、手を引いた。
「……ごめん」
心の底から、そう呟いた。
助けられなかった。
気づけなかった。
もっと早く、もっと強く──
スミレの頬に落ちた自分の手の影を見て、蓮はゆっくりと立ち上がった。
彼女を守ると決めたあの日から、何も変わっていないはずだった。
けれど、現実は彼女にばかり傷を負わせていた。
「……今度こそ」
呟いた声は、小さく、だが確かな熱を持っていた。
彼女の痛みを、自分の痛みに変えていく。
その覚悟を、ようやく胸の奥でつかめた気がした。
蓮は一度だけスミレに視線を戻し、扉へと向かった。
その背には、迷いではなく、“進む意思”が宿っていた。
***
ネイトエール城の一室。
大広間の一角にある、重厚な扉の奥──騎士団会議室には、既に何人かの幹部が集まっていた。
窓から差し込む光は午後の色をしているが、その場に漂う空気は、どこか冷えていた。
「ザイラスの拘束は、結界によって継続中。牢に容れたことで、外部との遮断も問題ないだろう」
ホクトが椅子に背を預けながら報告する。
会議机の向かい、蓮は静かに座っていた。視線は真っ直ぐ前を見ている。
「問題はその後だな」
低く、タオが口を開く。
「あいつをどうするか。あのまま飼っとくつもりかよ?」
「裁きにかける。だが、それにはまず“何者だったのか”をはっきりさせる必要がある」
ホクトの言葉に、美穂が小さく頷いた。
「ザイラスは、“イシュタル災厄”に関与していた可能性が高い。……けど、裏に誰かがいたとしたら?」
机上の地図に、リリスが手を伸ばす。
指先が“イシュタル”の名をなぞる。
「……シェリーを連れ去った理由も、イシュタルと無関係じゃない。彼女が……“犯人”である可能性まで考えられてたってことになる」
蓮の手がわずかに握られた。
「だが、今それを問いただすことはしない」
ホクトがきっぱりと断言する。
「彼女は今、“戦いの外”にいる。ここへ戻ってきたそれだけで……十分な答えを持ち帰ってくれた」
沈黙が広がる中、リリスが言葉を継いだ。
「……ただ、イシュタルとの関係は、早急に整理しないと。向こうがどう動くか、まだ分からないし」
「むしろ、“どう話をつけるか”だがーーイリア姫なら大丈夫だろう」
タオが顎をさすりながら呟いた。
「このまま敵対ってのは、ごめんだぜ」
蓮は、スミレの寝顔を思い出していた。
(……あの姉妹が、再び正面から向き合う時が来る)
そして、ひとつの気配が欠けていることが、会議室に妙な穴をあけていた。
「ミネルは……まだ、戻らないのか」
ぽつりと漏らした蓮の声に、誰も即答しなかった。
「一部で、“別行動”をとっているという報告はある。ただ、現在位置は特定できていない」
ホクトが低く答える。
「だが、ミネルは賢い。何か目的があっての行動だと信じている」
美穂がこめかみに触れ、少しだけ困ったような顔をした。
「ほんとに自由人だよね……あの人」
けれど、誰も笑わなかった。
不安と期待が交錯するまま、議題はひとつ、またひとつと進められていった。
会議が終わり、幹部たちが静かに席を立つ。
蓮は最後までその場に残り、深く椅子の背に体を預けた。手の中には、小さく折り畳まれた紙があった。会議の終盤に、美穂がそっと差し出してきたものだ。
《……ザイラス、意識に変化あり。微細な魔力の流動を確認》
蓮は立ち上がり、ホクトに目を向ける。
「ザイラスの様子を……見に行く」
ホクトも頷いた。
「俺も同行しよう。あいつの状態は、俺が封印した分……俺の責任下にあるからな」
2人は重厚な扉を押し開き、石畳の廊下を歩き出す。
ザイラスが収容されているのは、城の地下区画。元は古代の祈祷室だったという石造りの小部屋で、封印術や結界が張りやすい構造となっている。
その扉の前に立つと、見張りの騎士が一礼した。
「異常は……いえ、少し前に、球体内部で“うねり”が確認されました。意識はまだ戻っていませんが、確実に何かが……」
「開けてくれ」
ホクトの声に、扉が静かに開かれた。
地下室の中央には、淡く青白い光を放つ球体が浮かんでいる。その中──ザイラスは、今も石像のように静止していた。だがその輪郭が、わずかに“揺れて”いた。
「……魔力が、逆流している?」
蓮が低く呟く。
ホクトが結界に手をかざし、確認する。球体の中、ザイラスの胸元で微かに光が脈打っているのが見えた。
「目覚めの兆候……あるいは、別の力の干渉かもしれない」
「まさか……ラミアの?」
「可能性はある。だが、何かを伝えようとしているのか、それともただの反応なのか……判断はまだ早い」
二人は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
静寂の中──ザイラスの閉じられた瞳が、ほんのわずかに、震えた。




