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【完結】狭間で俺が出会ったのは、妖精だった  作者: 紫羅乃もか
第5章 美しきスミレ花の上で
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決意を胸に

 部屋の空気はまだ重かった。


 ラミアが姿を消してから、すでにいくばくかの時が流れていた。

 蓮とホクトは隣室へと移り、並んで窓際に立っていた。

 薄く開け放たれた窓からは、朝の冷たい光と静かな風が差し込んでいる。

 ホクトは腕を組んだまま、じっと外の景色を見つめていた。

 蓮はそっと口を開く。


「……父さん」


蓮の声は、思った以上に小さく、しかし確かだった。

ホクトはその言葉に、まるで一瞬時が止まったように肩を僅かに揺らした。

目線だけを向け、口元にかすかな笑みを浮かべる。


「……慣れない響きだな」


どこか照れ隠しのような口調だった。

けれど、その声にはわずかな温もりが滲んでいた。

 ホクトは小さく笑う。けれど、そこに続く言葉はなかった。

 あまりに多くを見てしまった直後だった。言葉は、まだうまく繋がらない。

 ホクトはそっと息を吐き、壁にもたれかかる。


「……ラミアが現れるとはな」


 その名を聞いた瞬間、蓮は無意識に拳を握っていた。


「やっぱり……知ってたんだな」


蓮の問いには責める色がなかった。

ただ確認するように、静かに見つめる。だけど胸の奥では、言葉にしきれない感情が渦巻いていた。


「ああ」


 ホクトはうなずいたが、それ以上は語らなかった。


「今は……まだ話せない。俺の口から語るには、時が足りない」


「……分かった」


 その言葉に逃げはなかった。だからこそ、蓮は信じることにした。


「でも……これからどう動くかは、決めておかないと」


「……ああ。そのためにも、一度拠点に戻る必要がある」


「ネイトエール、だよな」


「そうだ。被害の確認と復興の手配、それに……“戦力”の見直しもな」


 “戦力”という言葉に、ホクトの目がわずかに鋭くなる。

 ラミアの出現が、ただ事ではないと物語っていた。


「スミレたちは?」


「……あの姉妹に必要なのは、今は闘いじゃない。“受け入れる時間”だ。

 だがまずは、安全な場所へ運ばなければな」


 蓮はそっと頷いた。ホクトの声には、責任と優しさが共にあった。


「……蓮」


ホクトの声がふと、低く落ち着いた音で響いた。


「お前がここにいてくれて、助かった。シェリーを支えてやってくれて、ありがとう」


それは父として、騎士として──何より、一人の男としての真摯な感謝だった。その言葉は、率直で、あたたかかった。


「……俺は、まだ何もできてないよ」


蓮は俯きながら答えた。拳を握るでもなく、ただ静かに。

だが、ホクトは首を横に振る。


「そうかもしれない。だが、“そこにいる”ことが、一番の力になることもある」


それは、ホクト自身の経験から来る言葉だった。

救えなかった者たち、守り切れなかった過去。

だからこそ──そこにいてくれた蓮の存在が、何より重かった。

 蓮はなにかを返そうとしたが、喉元で言葉を止め、ただ一度、頷いた。


 そして、ふと目を伏せたまま呟く。


「……父さんに助けられてばっかだ。初めてサタンに襲われた日も、これまでの戦いの時だって……いつだってピンチの時は、父さんが来てくれた」


 ホクトは静かに目を細めた。そして、懐かしむように言葉を重ねる。


「……俺が与えた方位磁針を、ずっと持っていただろう」


 蓮は顔を上げ、不思議そうに眉を寄せた。そして、ポケットを探る。


「……っ、まさか!」


 手のひらには、小さな金属製のコンパスが載っていた。

 旅の初期にホクトから受け取った、ささやかな贈り物。

 だが、それが──


「ああ。初めてお前に会った時から、どこか血が騒いだんだ。最悪のケースを考えて、お前の位置情報を把握させてもらってた」


 ホクトは少しだけ目をそらすように言った。


「いつも見ていたわけじゃない。だが……もしもの時には、必要になる気がしてな」


 蓮は一瞬だけ、言葉を失った。

 けれど、次第にその表情は和らぎ、ふっと小さく笑った。


「……ズルいな、父さんは」


 ホクトは肩をすくめる。


「お前を守るためなら、いくらでもズルを使うさ」


 不器用なやり取りだったが、そこには確かな思いがあった。

 わずかに漂っていた重苦しい空気が、少しだけ和らいだ気がした。


 そのとき、扉が控えめにノックされた。


「失礼しますわ」


 イリアの声だった。

蓮が顔を上げると、扉の向こうから差す光が、まるで道しるべのように床を照らしていた。朝の光を背にした彼女の目の下には疲れがにじんでいたが、瞳の奥には凛とした光があった。


「姫か。妹はどうした?」


 ホクトがそう尋ねると、イリアは答えた。


「マリアなら、ようやく安心したみたいで眠っていますわ。ホクト様、そして蓮さま。お話がございますの」


 ホクトと蓮が視線を向ける。


「ザイラス──まだ空中に拘束されたままでしょう?」


 沈黙が落ちる。


「──いつまで、ああして放っておくつもり?」


イリアの問いは冷静だった。だがその奥には、確かに迷いと痛みがあった。

ザイラス。かつて信じた男。共に国を支えるべきと願った仲間。

それでも──今は、彼女が国を守る者である以上、情を差し挟むことはできない。


瞳の奥の揺らぎが、ほんの一瞬だけ、蓮には見えた気がした。

 ホクトはわずかに目を細める。


「……拘束は維持している。だが、結界が保てるのはあと一日といったところだな」


「でしたら、その前に“どうするか”を決めるべきだと思いますの」


 イリアの声には、あの姉妹の再会を経たからこその強さが宿っていた。

 蓮は少し息を呑んだ。


「……確かに、逃がすわけにはいかない。でも、処分するには……早すぎる。彼の知識や背景は、まだ利用できる可能性がある」


 ホクトは静かに言った。


「ネイトエールに戻り、状況を整理したうえで、正式な判断を下す。それまでは──俺が責任をもって管理する」


 イリアはしばらく黙ったまま、真っ直ぐにホクトを見ていたが、やがて一つ、うなずいた。


「……わかりました。あなたを、信じましょう。ザイラスを、お願いします」


 そして、まっすぐに言う。


「これから私はイシュタルに戻り、国の体制を整えます」


その言葉に滲んだのは、強さだけではなかった。

喪失と再出発。痛みを飲み込み、前を向く覚悟。

王族の使命と、姉としての祈り。

すべてを抱きしめて、それでも立ち続ける──彼女は、まぎれもなく“姫”だった。


「北区画の復興にも、取り組む予定ですわ。ホクトさま、蓮さま、お二人にマリアを頼みたいの」


「姫様がいいなら、引き続きシェリーをネイトに置くが──いいのか?」


「ええ。イシュタルにいるより、きっと安全ですもの。マリアを、お願いしますわね」


「ああ……スミレのこと、ありがとう」


 蓮が小さく頭を下げると、イリアは柔らかく微笑んだ。


「お礼を言うのは、私の方よ。妹を……ありがとう」


 蓮が頷くと、ホクトは森の奥を指さした。


「よし、次へ急ぐぞ。ラミアの住処から、早いところ出た方がいい。転移の出口はすぐ先だ。ラミアが用意した“抜け道”だ。通れば、それぞれの国に近い森に繋がっているはずだ」


「ええ、分かったわ」


「戻ったら、すぐに復興の支援に入るぞ」


 ホクトが言うと、イリアはふっと目を細めた。


「……あなたたちが、希望でありますように」


その言葉は祈りであり、願いであり、別れの言葉でもあった。

少女のような表情が、一瞬だけイリアの顔をよぎった。

けれど次の瞬間には、背筋をまっすぐに伸ばし、静かに歩き出していた。

 その背に、ほんの一瞬だけ寂しさが見えた気がして、蓮はふと立ち尽くす。

 けれど、それを追うことはなかった。


 ***


 木造の家の扉を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。

葉の隙間から差す光は柔らかく、風は静かに森を揺らしている。


だが──その風景は、どこか現実離れしていた。


蓮は一歩、外に出た足を止め、あたりを見渡した。


(……やっぱり……)


朝の光、木々の色、空の匂い。

すべてが“知っている”ものだった。

以前にこの場所を見たことはないはずなのに──あのとき、狭間で見た世界と、あまりにも似ている。


(……いや、似てるだけじゃない。繋がってる……?)


夢と現実の境界が一瞬揺らぐ。

それは、偶然の一致ではない。

ラミアの存在。彼女の力。そしてこの家。

すべてが、狭間の記憶と地続きにあると、蓮は直感していた。


背負ったスミレが、かすかに身じろぎする。

そのぬくもりが、蓮を現実へ引き戻した。


(……今は、考えるのはやめよう)


目の前の“現実”が、すでにただの現実ではないのだと気づいていながらも、蓮は静かに息を吐き、歩き出した。


 スミレを背負いながら、蓮はホクトの後を追って森の道を進む。

 やがて、木々の切れ間から光が差し込み、視界が開けた。


 森を抜けた先、小さな丘の上に、それはあった。

 空中に浮かぶ青白い結界の球体──ザイラスは、依然としてその中に封じられている。


 ホクトはすでにそこへ歩み寄り、封印の状態を確認していた。

 球体の中、ザイラスは微動だにせず、まるで石像のように沈黙していた。


「……生きてるんだよな」


 蓮が苦々しく呟く。


「意識はほとんどない。だが、封印は維持できている」


 ホクトは短く答え、結界に手をかざす。

 青白い光が走り、封印が再び強化された。


「このままネイトエールに連れて帰るんだよな?」


「ああ。あいつが起こしたこと、責任は俺が預かる。騎士団で裁きにかける」


 蓮は黙ってうなずいた。その目は、ザイラスに向けられたまま動かない。


「行くぞ」


 ホクトが一歩、森の奥──小さな岩の割れ目に向けて踏み出す。


 その瞬間、風が変わった。森の中に、見えない“歪み”が広がっていく。

 空間がねじれ、足元の草木が静かに揺れた。


「これが……ラミアの力……?」


 蓮はごくりと息をのむ。


 ホクトが魔術でザイラスの球体を浮かせる。蓮もまた足を進める。


 一歩、また一歩──


 世界がふっと歪んだ。重力が狂ったかのような一瞬の浮遊感。

 次の瞬間、視界が開け、足元には見慣れた木々のざわめきが広がっていた。


 空は高く、澄み切った朝の色をしている。

 ネイトエール近郊の樹木林──北端の結界のすぐ外。


 ホクトはザイラスをそっと地面に浮かせ、転移の魔力の余波を拭い去るように息をついた。


「……戻ってきたな」


 蓮は、遠くにうっすらと見える城の塔を見つめた。


「また、戦いが始まる……」


 ホクトはうなずいた。


「だが、今度は“選んで”進む戦いだ。お前も……シェリーも」


 スミレがわずかにうめき、まどろみの中で微かにまぶたを動かす。

 新たな戦いが、静かに、けれど確実に始まろうとしていた。

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